74.リーゼロッテは逃げられない
白いもやの中にぼんやりと彼女──幼いディートリンデの姿が浮かぶ。
(これは……またいつもの夢……いつの間に眠ってしまったのかしら……?)
リーゼロッテはもやのようにうつろな頭で思い起こす。
ユリウスに送られ、自室に入ったところは覚えている。
部屋には珍しく香が焚かれており、ナターリエが渡してきた精油のような香りに包まれた。
きっとナターリエがまた持ってきてくれたのだろう、と白のワンピースに着替えた彼女は少し休もうとベッドに腰掛け──。
(……ダメ……頭があまり働かない……)
数回瞬きを繰り返し、ようやく意識がはっきりしてくるような感覚があった。
「リーゼちゃん……」
幼いディートリンデが口を開く。
腰掛けた椅子は彼女には大きすぎて、頼りなさげにぷらりと足が浮いている。
「どうかされましたか? ディートリンデさん」
いつになく不安な表情の彼女を安心させようと、精一杯の明るい声で話しかける。
しかし、彼女の憂いは消えない。
それどころか泣き出しそうなほど悲痛な表情を浮かべていた。
「……にげて……」
「え?」
思わず聞き返すほど、ごく小さな声が震えている。
怖がっているのか、悲しんでいるのか、わからないがひどく辛そうに見えた。
「いまね、そとのことがわかるの。リーゼちゃん、はやくにげて」
「ま、待ってください。どうして……?」
リーゼロッテは困惑した。
温室の中どころか、ガラス張りのはずの温室は外の風景ですらなにも見えない。
まるで中のもやが外に漏れ出てしまったように、濃く深い真っ白なもやが覆っていた。
(外は全く見えない……ですがディートリンデは見えると……?)
戸惑う彼女に、幼いディートリンデは懇願するように手を組んだ。
「にげて……リーゼちゃ……………と……ひが……」
(ああ……また……また最後まであなたの声が聞けなかったのですね……)
途切れ途切れの彼女の言葉に、リーゼロッテは自分の意識がゆっくりと覚醒していくのを感じた。
──何かの饐えたような臭いがする。
かと思えばじとり、とした黴臭い湿気が吸い込んだ空気に含まれ、思わずむせた。
うっすらと目を開けると苔むした石造りの天井が見える。
(……地下牢……リデル家の……似て……)
はっとしたリーゼロッテは勢いよく起き上がると、辺りを見回した。
壁にはずらりと立った本棚があり、そのほとんどに古そうな本がきっちりと並べられている。
テーブルの上には実験器具──いや、抽出器具だろうか、ガラス製のフラスコやビーカー、その他名前もわからないような器具がいくつも鎮座している。
その奥には誰かが寝ているのか、人型に膨らんだベッドがあった。
ぎゅうぎゅうに物を詰め込んだ部屋、かと思えば部屋の半分は不自然なほどに何もない。
それらに囲まれる形で、リーゼロッテは先程までベッドのような台座に横たえられていた。
その両手には彼女の細腕には似つかわしくない、鎖付きの枷がはめられている。
「やっと気がついたか。少し薬を盛りすぎたようだな」
台座のすぐ横の椅子に、ヘンドリックが腰掛けていた。




