71.お姉様は愕然とした
「リーゼ」
「ユリウス様……っ!」
玄関で待っていたユリウスに、馬車から降りたリーゼロッテは堪らず抱きついた。
お互い身を案じていたようでひしと抱き合い離れない。
「申し訳ございません……! 私が迂闊だったために……」
彼女は心の底から詫びた。
脅されたとはいえ、ディートリンデの奸計に嵌り、ユリウスを危険に晒してしまった自分が情けなく、とても顔を上げて彼の表情を確かめられない。
そんな彼女の頭を彼は安心させるようにそっと撫でる。
やんわりと撫でられたところが苦しい。
(どうして私はこうなのでしょう……)
俯きかけた頭上から、彼の声が聞こえる。
「いい。リーゼこそ何かされなかったか?」
「……私は大丈夫です。コルドゥラ……彼女が機転をきかせてくれたおかげです」
そう言うと、リーゼロッテは背後に控えるコルドゥラに視線を向けた。
ユリウスの視線を受けた彼女は深く御辞儀した。
「……そうか。よくやってくれた。礼を言う」
「いえ。私は後始末がございますので、お先に失礼いたします」
冷静な受け答えの後、彼女は顔を上げると音もなく玄関に入っていった。
「……彼女は……?」
「はい、ディートリンデ付きのメイドです。ですが、信頼できる者だと思います」
「……そうか……」
コルドゥラが去った後もしばらく玄関を見つめていたユリウスは、考え込むように口を噤んだ。
まるで何か、忘れていることを思い出そうとしているような表情だ。
「ユリウス様……?」
不安げに覗き込んだ彼女に、ユリウスは首を振る。
「いや、なんでもない。ところでリーゼ、あの指輪はしているか?」
「はい。このとおりに」
「少し貸してほしい」
彼女は頷くと、指輪を外し渡した。
一旦身体を離した彼は、指輪に軽く口付ける。
翡翠の指輪にほんのり光が灯り、ユリウスの白い肌を照らした。
その光景を、彼女はぼんやりと見つめていた。
(ユリウス様は……ここまで私にしてくださっているというのに……)
彼の行動はおそらく、この先何かあったときのためにと先を読んでの行動だろう。
リデル家に誘拐された時のことを思い出しているのかもしれない。
今日のことも考えると、リーゼロッテはユリウスにも危険が及ぶかもしれないと漠然と思った。
(……私もユリウス様のお役に立ちたい……)
光が収束すると、やや疲れた様子の彼は指輪を彼女にはめ直した。
「……少し魔力を上乗せしておいた……絶対に外さないでくれ」
「わかりました」
いつになく真剣な彼の表情に、どんな魔力を、とは聞けず、リーゼロッテはまだ彼の温もりがある指輪をはめた手を握りしめた。
若干気怠げな表情のユリウスのすぐ脇に、彼女が贈った髪紐が揺れている。
「……あの、ユリウス様」
「どうした?」
「少し、屈んでいただけませんか?」
リーゼロッテの言葉に、ユリウスは少々首を傾げながらも言われた通り膝を折る。
ちょうど彼女と目線を同じくすると、リーゼロッテは彼の耳元に唇を寄せた。
──正確には、彼の白い長髪を纏める二本の髪紐、もっといえばそれを一本に束ねる留め具の部分に。
(魔力付与……したことはないですが、少しでも、できるなら……)
学院で得た知識を探る。
彼女は魔力を高めると、唇から細く長く息を吹くように魔力を放出させる。
淡い金色の光が留め具の周囲を漂うように取り巻くと、吸収されるように消えた。
(できました……)
彼女の水魔法は中級魔法止まりで、高位魔法を扱える者でなければ魔力付与はできない。
しかし、時の聖女の力はその限りではないのだろう。
はたまた聖女の力が高位魔法の制御に匹敵するのかもしれない。
いずれにしても、魔力付与に初めて挑み、成功させた彼女にはユリウスが感じている比ではない疲労感が襲ってきた。
「……私も、その……何かあった時のために……魔力を込めておきました」
肩で息しながら彼の耳元で囁くが、彼の反応はない。
屈んだ姿勢のまま固まって動けないでいる彼を覗き込む。
「……!」
いつものポーカーフェイスが嘘のように、驚き目を見開いたまま、首元近くまで真っ赤に染まった彼の顔に、リーゼロッテもまた驚いた。
彼女に見られてると気付いてか、ユリウスは慌てて口元を隠すと顔を横に逸らした。
「す、すまないっ……少し驚いてしまって……」
「い、いえ……」
彼の動揺が移ったのか、リーゼロッテも途端に恥ずかしくなり頬を染めて俯いた。
(……ユリウス様があんなに慌てるなんて珍しい……)
自分の大胆な行動に些か照れながらも、ユリウスの表情を思い返してくすりと笑う。
「……ありがとう、大切にする」
時間を置いて落ち着いたのか、ひとつの咳払いとともに頭上に響いた言葉に、リーゼロッテは頷いた。
彼女を部屋まで送る間に、ユリウスはぽつりと
「……私もまだまだだな……」
と、人知れず呟いたのだった。
その夜──。
書斎で書類に目を通していたヘンドリックは、部屋の外がにわかに騒がしくなったことに気づき顔を上げた。
同時に扉がけたたましく開け放たれ、騒音の元が飛び込んでくる。
「お父様!」
髪を振り乱し、乱れた衣服のディートリンデが悲痛な叫びを上げた。
「なんだ、騒々しい……」
「あのリーゼロッテの婚約者、とんでもない人間ですわ……! どうか助けてくださいまし!」
辺境伯が家に留まるなら、と家でできる仕事を持ち帰ってきたヘンドリックにとっては、わがままな娘は非常に煩わしい。
しかし、それが今一番、屋敷から追い出したい男のことならば話は別だ。
「……聞こう」
彼は書類をぱさり、と置き腕組みをした。
父の興味を引けたディートリンデは、歌うように、しかし震え声を作って話し始める。
「あのユリウスとかいう男、リーゼロッテが出かけた隙に私に襲いかかってきて……私、怖くて怖くて声も出せず……」
「…………なんだと?」
涙を堪えるように顔を伏せた彼女の頭上から、ヘンドリックの驚嘆が聞こえた。
「もしこのことを誰かに言ったら私もろともハイベルク家全員を殺すと……! どうかお父様のお力であの男を追い出してください!」
「……お前は……」
ヘンドリックは頭を抱え、大きくため息をついた。
その表情はディートリンデからは見えないが、頭を支えている腕が震えているように見える。
(こいつを騙すなんてチョロいわね。怒りで声も出ない、ってとこかしら?)
まるで泣いているかのように両手で覆われたディートリンデの顔は、小馬鹿にしたように父を嘲笑っている。
ややあって、父は口を開いた。
「……その話が本当なら、お前がシュヴァルツシルトに嫁げ」
「………………は……?」
想定していた答えとは違った彼女は、泣いている演技中というのにも関わらず、間の抜けた声を上げる。
そんな彼女を見つめる瞳は酷く冷静で、つまらない物を見る目だった。
「聞こえなかったか? わざわざ婚約者の家でお前を抱くほど気に入ったのだろう。お前がリーゼロッテだと言って辺境に嫁げ。代わりにリーゼロッテには王家に嫁いでもらう」
「え……だって……それじゃ……」
「王家に嫁ぐ者は処女でなくてはならない。純潔を守れぬ女を王家に差し出すわけにはいかぬ。こちらとしてもこれ以上、辺境伯と揉めるわけにはいかないのでな。お前が嫁ぐならば喜んで婚約を許そう」
(どういうこと……!? なんで……!?)
父の冷徹さを初めて目の当たりにしたディートリンデはたじろいだ。
「そ、そんなことしてもフリッツ様はすぐ見抜くわ!」
「構わん。むしろ見抜かれた方が都合が良い」
あっさりと言い放つ彼に、ディートリンデは一瞬呆けた。
父の意図がわからない、と言った表情の彼女を、ヘンドリックはため息混じりに見つめる。
「……聖女なのだろう? リーゼロッテは。ならば嘘がバレたところで王家も無碍には扱うまい」
「でも! 第二の聖女だし……!」
「お前は何か勘違いしているな。あの子は……」
なおも言い連ねる彼女を多少苛ついた声色で反論しかけたヘンドリックは、言葉を飲み込んだ。
「……まぁいい。とにかくそういうことだ。分かったら辺境へ向かう支度をしろ」
不可解にぼかされた言葉に微かな違和感を感じたが、それを追求できるほどの余裕はディートリンデにはない。
「待って! 待ってよ! 納得いかないわ! お父様、お父様は私の味方じゃないの!?」
金切り声を上げた彼女に、ヘンドリックは侮蔑の視線を送る。
「……私がお前の、味方?」
「ええ、だってリーゼロッテより私の方がなんでもできるって言ってくれてたじゃない! だからフリッツ様の婚約者にもしてくれたんでしょ? 私の方があの子より優秀だから……!」
「……はっ」
心底馬鹿にしたように短く笑うと、彼は立ち上がり、ディートリンデを見下ろした。
細く、枯れ木のような印象のヘンドリックが、この時ばかりはおどろおどろしい枝垂れた木のように不気味にゆらり、と佇んでいる。
「馬鹿を言うな。私がお前の味方だと……お前など味方ではない。それに、今のお前よりリーゼロッテの方がはるかに役に立つ」
「…………なんで……」
彼女には分からない。
なぜ父の中で姉妹の評価が逆転してしまったのか、が。
そしてそのきっかけが、リーゼロッテを貶めようと聖女と報告したことにあることすら、彼女には分からなかった。
「それに……不都合を隠すために妹を身代わりにするなど、いつもの通りではないか。なにも今に始まったことではなかろう」
「……!」
父の言葉に、彼女は言葉を失った。
「私は『ディートリンデは優秀だ』ということが対外的に示せれば良いだけだ。双子でどちらかが肩代わりできる以上、お前自身が優秀である必要はない」
「……じゃあ……お父様は……全部……」
「知っていた。お前が底意地悪い嫌がらせをしているのも、不始末の肩代わりをさせているのも、本当はリーゼロッテの方が優秀なのも、全部」
ディートリンデは恐怖で足がすくむ思いだった。
ずっと騙し切っていると思っていた相手の手の内で、自分はずっと踊っていたのだ。
彼は味方などではなく、ただ利害が一致しただけの共犯者だった。
「なんで……」
「そんなもの決まっている。お前の方が人の悪意を理解し、それに耐え得る程には強かだからだ」
さも当然のように言い放つ彼に返す言葉も見つからない。
「リーゼロッテは気弱なところがある。貴族としてならばまだ生きていけるだろうが、王家、しかも他国と関わる国母としてなどとてもアレには無理だろう」
ヘンドリックはただ茫然と佇む彼女から、興味をなくしたように目を逸らした。
「……だが私の考えすら見通せていなかったならば、お前もそれまでだったということ。まさかそこまで子供だとは思ってもなかったがな。今は駒として、リーゼロッテの方が上だ」
断言された言葉が、ディートリンデの頭に響く。
今まで彼女は大抵のことは思い通り──記憶通りになった。
しかし、ここ最近は思い通りにならないことばかりだ。
リーゼロッテやユリウス、フリッツすらも彼女の想定通りの動きをしてくれない。
そして、目の前の相手には到底敵わない。
負けを悟った彼女は俯いた。
「……私の元で今まで通り甘い汁を吸い続けたいなら、最後まで優秀な娘を演じろ。くだらぬ嘘で自らの評価を汚すな。それができないなら……」
背けていた視線をディートリンデに戻すと、ヘンドリックは冷たく呟いた。
「お前は用無しだ」
いつもリーゼロッテに向けられていた冷たい視線や声を、まさか自分が付けられることになるとは思ってもなかったのだろう。
「……なんで……私ばっかり……もういい!」
ディートリンデは拗ねた子供のように地団駄を踏むと、書斎から飛び出していった。
その背中を若干うんざりとした表情で見つめていたヘンドリックは、
「……くだらん」
とため息をついた。
険しい表情で机の引き出しから煙管を取り出すと、ゆっくりと窓辺に移動した。
彼の視線の先には、裏庭に建つ硝子張りの温室がある。
「……もう時間はない……手段は選べぬ」
煙管をひと吸いした彼は、白い煙を吐き出すとその煙たさを拒むように目を閉じた。