7.妹君は拝命した
どれくらい時間が経ったのか。
実際には短時間であったが、リーゼロッテにとってはとても長く感じられた。
なにしろ生まれてこの方、ダンスや肉親以外でこんなにも異性と密着したことがない。恥ずかしさで心臓が早鐘を打ち過ぎて弾けてしまいそうだった。
譫言のように何かを呟くユリウスの身体は、リーゼロッテのそれより熱く、震えている。
表情は見えないが、きっと険しい顔をしているに違いない。長い睫毛が、熱い吐息が、頬に触れるたびに彼女は身体を強張らせた。
(病人、病人なんですご主人様はっ! 支えられないほど非力な私が悪いのであってご主人様に変な意図はないんですっ!)
赤い顔で狼狽るリーゼロッテは、天井の一点を見つめ何度か深呼吸をした。
(……寒い、のかしら?)
いくらか落ち着いたリーゼロッテは躊躇いがちに彼の背中をさする。
これだけ密着してても癒しの魔法が発動しないならおそらく大丈夫だろう、と思いながら。
背中を暖めるようにさすると、少し楽になったのか、ユリウスの呼吸がゆっくりになってきた。
(良かった……いえ、このままは良くないわ。早く誰かを……)
「…………ぇ」
「え?」
彼女の耳にやっと聞こえるほどの小声が、ユリウスの形のいい唇からこぼれた。思わず彼を見ると、美しい線を描く眉を歪め苦悶の表情が浮かんでいる。
その眉頭をどうにか和らげようと手を伸ばしかけたが──。
「ユリウス様、こちらにリーゼが……ってどうしたんだい!?」
「あ、その……で、デボラさん、ご主人様がすごい熱で……」
その説明で全てを把握したのか「誰か来とくれ!」と大声を張り上げたデボラは、部屋に入るや否やユリウスを担ぎ上げベッドに寝かせた。
声を聞きつけた使用人たちが入れ替わり立ち替わりやって来る。
リーゼロッテはユリウスに伸ばしかけた手を引っ込め、ただその光景を茫然と見つめるだけだった。
「ふぅ、これで少しは落ち着いたかね」
デボラは自身の額の汗を拭う。いつもの明朗快活な口調が、ほんの少し沈んでいるようにリーゼロッテには思えた。
「あの、デボラさん、すみませんでした。私が……もう少し力持ちなら早く皆さんに連絡できたのに……」
「あ? あはは……いいんだよ。こっちもまだ大丈夫だと油断してたからね」
(まだ大丈夫? 油断?)
首を傾げたリーゼロッテに苦笑しながらデボラは肩をすくめた。
「こうやってときたま倒れるんだよ。ときたまって言っても年に一回あるかないかなんだけど。この前はリーゼが来る少し前だったからしばらくは大丈夫だと思ってたんだけどね」
「ご主人様は何かご病気をお持ちなのですか?」
「いいや」
デボラはゆっくり首を振りユリウスの方に視線を向けた。眠っている彼は性別を違えるほど美しい。
しかし、髪色以上に白く生気をなくした顔にリーゼロッテは不安を覚えた。
「病気、とは少し違うんだけどね。魔法医が言うには、急激に元の身体に戻ろうとするときにこうなるらしい」
「元の身体……?」
「ああ。二十四歳のユリウス様。つっても、一回も元の姿に戻ったことはないんだけどね」
アタシも魔法に詳しくないからなんとも言えないんだけど、と付け加えたデボラは、用を足しに出て行った。
(まさかご主人様のお身体にそんな秘密があるなんて……)
リーゼロッテはユリウスの額から少しズレた濡れタオルを畳み直すと額に乗せた。
身体の熱感はまだあるのに、彼の頬には少しの朱も差さない。
(魔法医……ってことはご主人様は魔法で成長を止められている? 誰がそんなことを……でもそんな魔法聞いたこともないわ)
他人の成長を止める魔法なんてものがあったら悪用する者が続出するだろう。なにせ使えば歳をとらないのだから。
そんな魔法を使える人間がいたら、各国の統治者たちが争奪戦を繰り広げるに違いない。
(こうしてると、アンゼルムのことを思い出すわ……)
ユリウスの顔にかからないよう前髪を整えながら、リーゼロッテは弟のことを懐かしんだ。
四歳下のアンゼルムは泣き虫の上に怖がりで、眠れない夜はよくリーゼロッテが寝かしつけをしていたものだった。
「次期当主として強くなりたい」と、数年前に全寮制の騎士養成学校に入って以来、あまり顔を合わせていないが。
(あの子は元気かしら……)
「……いつまでそうしている」
「……ぁ、ああご主人様っ」
いつから目覚めていたのか、冷静な視線を向けるユリウスに、リーゼロッテは顔を赤くして飛び退いた。
(わ、私ったら病人に、殿方に、ご主人様になんて大胆なことを……!)
弁明できずあわあわと落ち着かない様子の彼女に、ユリウスは「まぁいい」とため息混じりに呟く。
「起こしてくれ。水を飲む」
「は、はいっ」
肩を抱いて起こし、ガラスの吸い飲みを口に含ませる。こくり、と緩慢に喉が鳴った。
口を離したユリウスの口元をリーゼロッテはタオルで拭う。
(こうしてると、本当に弟を世話しているみたい)
よくよく考えたら今のユリウスとアンゼルムは年が近い。それに病床のユリウスはいつもの覇気がないからか、より弟に近く感じられた。
彼女は優しく微笑んだ。それを見たユリウスは一瞬だけ目を丸くする。
(……って違うわ、ダメよ。ご主人様を弟だなんて失礼にも程があるわ)
「……もういい」
「失礼いたしました……っ」
「違う。リーゼじゃない」
一瞬心を読まれて叱責されると思い、必要以上に身をすくませた彼女だったが、ユリウスの視線は彼女ではなくその奥に向けられていた。
バレちゃった、とばかりに悪戯っぽい笑みを浮かべ、扉の陰からデボラが姿を現す。
「ユリウス様、お加減はいかがですか?」
「悪くはない。いつも通り二、三日もすれば治るだろう」
「そうですか。それでしたら今回のお世話、このリーゼに任せられては?」
デボラの突飛な提案に、リーゼロッテとユリウスは一瞬言葉を失った。
(そんな……倒れられた時も対応できなかったのに、無茶すぎますっ)
抗議しようにもメイド長の進言を主人の決定の前に否定するわけにもいかない。
リーゼロッテは両手を体の前で組み、沙汰を待つ。
「……しかし」
「先程の介助にユリウス様は何かご不満が?」
「……いや、ないが」
「ならいいですね」
半ば押し切られる形でお世話係に決定してしまったリーゼロッテは、ぎこちなくも頭を下げた。
消え入りそうな声で「拝命いたします……」と答えながら。