66.リーゼロッテは和解する
ユリウスの部屋から戻ったリーゼロッテはベッドに腰かけた。
彼は心配するなと言ったが、客人を置いて席を立ち明日も仕事だ帰ってくれ、などと言う父を説得するような時間は無い。
(お父様は一体何をお考えなのかしら……)
リーゼロッテはベッドに倒れ込む。
漆黒の髪がばらり、とベッドに散った。
わざわざユリウスを招いてやっぱり婚約はしない、など釈然としないことが起こっている。
まるで昨日今日に白紙化を決めたような、辻褄の合わない行動に違和感しかない。
(何か私もできることがあれば……)
ユリウスがリーゼロッテと家族の間が和解、とまではいかずとも、せめて少しでもわだかまりがなくなるように、と心を砕いてくれているのは分かる。
だからこそ、彼にだけ任せるわけにはいかない。
(でもどうしたら、お父様を説得できるのかしら……)
一度婚約解消した、という痂皮のあるリーゼロッテを辺境伯家に嫁がせるなど普通はできないだろう。
最初はヘンドリックも了承していた。
それがここ二、三日で心変わりする何かがあったとしたら──。
リーゼロッテは仰向けのままため息をついた。
それがあったとしても、確かめる術がない。
悶々と考えていると、控えめなノックが響き思考が削がれた。
「起きているかしら」
扉に阻まれくぐもっているが、気品ある女性の声などこの屋敷にはひとりしかいない──ナターリエだ。
「は、はい、どうかされましたか?」
リーゼロッテは体を起こし、扉を開けた。
ガウンに身を包み、困り眉をさらに下げ、どこか不安そうな表情のナターリエがそこにいた。
「こんな時間にごめんなさいね。その……少しお話を、と思って」
ナターリエが部屋を訪ねてくるなど珍しい。
とりあえず中へ、と戸惑いながらも案内すると、彼女は部屋の中をつぶさに見回した。
必要最低限の家具しかなく、そのどれもが傷付いているのを見て、彼女は更に眉尻を下げる。
「どうぞ、おかけください」
椅子を勧め、その対面にリーゼロッテが座ると、ナターリエは俯き、その長い睫毛で影を作る。
「………………」
「………………」
「あの……お継母様……?」
わざわざ訪ねてくるからには用事があったはずだ。
沈黙に耐えきれなくなったリーゼロッテは、なかなか話し出そうとしないナターリエの顔を覗き込んだ。
「あ……ごめんなさい。何と言っていいか分からないの。久しぶりに見たあなたは綺麗になってるし、まさか追い出されたと思ったあなたが未来の旦那様を連れて帰ってくるとは思わなくて……」
はっとしたように喋り出した彼女は、ゼンマイが切れたように口を閉じた。
そうしてバツが悪そうに上目遣いにリーゼロッテを見つめてくる。
「……ひと息に喋りすぎね。ごめんなさい」
「い、いえ…………」
リーゼロッテは困惑した。
ナターリエは躾に厳しく、教養に溢れた成熟した女性だと思っていた。
しかし、目の前の彼女はまるで少女のように自らの感情を素直に表出させている。
今目の前にいるナターリエは、彼女の知るナターリエとはあまりにかけ離れていた。
「今までのこと……ですが」
ナターリエは口ごもりながらもゆっくりと話し始める。
「……申し訳なかったと思うわ。早く母親にならなければ、この家に馴染まなければと焦った結果、あなたに随分と辛く当たってしまっていた。あなたが家を出た後も……ずっと気がかりだったわ」
「……」
「……ううん、違うわね。気がかりだけど会いに行けなかった。あなたに拒絶されるかもしれないし、お父様にも……怖かった」
思わぬナターリエの吐露に、リーゼロッテは押し黙る。
追放される前は彼女の気持ちなど分からなかった。
そしてそれを今説明されても、理解できない部分がほとんどだ。
継母としてのプレッシャーがそうさせた、と言われても、リーゼロッテの思い悩んだ日々を納得させるのは難しい。
しかし、相手に拒絶されるかもしれない、という恐怖に支配されている部分は自分と同じだと思った。
彼女もまた、この家の歪みの被害者なのだと。
「でもそれは言い訳ね。許して欲しいとは言わないわ。ただ、あなたの幸せだけは祈らせて」
「お継母様……」
ナターリエは首を振り、リーゼロッテに微笑みかける。
「この貴族社会で、好きな人と結婚できる貴族は少ないわ。だから……少しでも応援したいと思っているの」
「好きな……」
言いかけて、リーゼロッテは顔を真っ赤にさせた。
継母とユリウスが会うのは今日が初めてのはずだ。
初対面でも娘が好いていると分かってしまうほど自分は分かりやすいのだろうか、と頬を両手で挟む。
リーゼロッテの反応を楽しむようにナターリエはくすくす笑った。
「そんなに驚かなくても、あなたが辺境伯を、辺境伯があなたを大事にしているのはすぐに分かったわ。ここであなたと辺境伯が別れてしまったら……きっとずっと後悔するわ」
「後悔……」
リーゼロッテはまだ赤い頬から手を離す。
(そういえば、お継母様とお父様は再婚同士でしたが……)
父は十三年前に母を亡くし、ナターリエは十二年ほど前の戦争で前夫を亡くしている。
二人が再婚したのが十年前の、ちょうどリーゼロッテの力が発覚した頃だったはずだ。
そこから十年、何を考えているか分からない仕事人間の父と連れ添った彼女の言葉は、どこか重みがあった。
「お継母様は……後悔しているのですか? お父様と……再婚なされたことを」
「……どうかしら。お互い先立たれた身、割り切った再婚だったのもあるから……それに……」
ゆっくりと、言葉を選びながら答えたナターリエは、リーゼロッテに微笑みかける。
「子供のできない私に、あなたたちという子供が三人もできたのはとても……嬉しかったのよ。結果的に空回りしてしまったけど……」
「お継母様……」
リーゼロッテはナターリエの少し悲しそうな微笑みに数歩遅れて微笑み返した。
躾と称して厳しくしてきた継母のことを嫌いになれなかったのは、おそらくこれだろう。
不器用すぎるのだ。
やりすぎて空回りし、かと思えば前に出過ぎないよう周りばかりを気にして──そんな彼女のことをリーゼロッテは自分と似ていると思っていた。
リーゼロッテが頬を緩めたことで、ナターリエはほっとしたように息を吐いた。
ポーチを取り出し、その中の物をリーゼロッテの前にことり、と置く。
手のひらに乗るほどの小瓶には、無色透明の液体が入っている。
(水……?)
「これは……?」
リーゼロッテが尋ねると、ナターリエは恥ずかしげに横を向いた。
「精油よ。リラックス効果があるの。私が調合したの……合うと良いのだけど」
そう言って彼女は黙った。
黙ったが、どこか落ち着きなくそわそわしている。
小瓶をちらちら見ては、はあ、とため息をついていた。
(これは……栓を開けた方がいい……のかしら……?)
リーゼロッテはおそるおそる小瓶のコルク栓を抜いた。
ふわり、と爽やかで柔らかい香りが鼻腔をくすぐる。
嗅いでいるだけで穏やかな気分になってくる。
心なしか、一緒にいるナターリエも香りにうっとりしているように見えた。
「とても……良い香りですね。ありがとう、ございます」
「……良かったわ。あなたをイメージして作った甲斐があったわね」
礼を言った彼女に微笑むと、ナターリエは真剣な表情を作る。
「……お父様のことは私に任せて欲しいの。大丈夫、悪いようにはしないから」
いつも揺らぐような光を帯びていた彼女の瞳に、強い決意を感じたリーゼロッテは一瞬の放心の後、微かに頷いた。
厳しく、リーゼロッテに対して当たりが強かったナターリエだが、決して嘘はつかなかった。
妙な小細工で彼女を貶めることも、変に人を恨んだりもしない。
おそらく、あのまま追放されずにこの家で過ごしていたら、良くも悪くもリーゼロッテはナターリエのような女性になっていたことだろう。
ナターリエは逡巡するように視線を巡らせると口を開いた。
「それと……これは私が言うことではないかもしれないけど、もう少し警戒心を持ったほうがいいわ。たとえば……そう、急に私のように妙な贈り物をしてきたり……とか」
そういうと、彼女は机の上に置かれた小瓶を指差す。
下がり眉はさらに下げられ、瞳は案じるような色に染まっている。
「ですが……お継母様は謝ってくださいましたし……一緒に香りも」
「駄目よ」
ぴしゃり、と言い放ったナターリエは首を横に振った。
「謝ったからと言って油断しては駄目。口だけなら何とでも言えてしまうの。だから……」
懇願するような視線に、リーゼロッテは曖昧に頷いた。
小瓶の栓を開けたのは、多分大丈夫だろうという判断からだ。
もし変なものが入っているのならばちゃんと包装して、ナターリエが帰った後に開けさせればいい。
彼女がわざわざ何度も視線を送ったのも彼女がいる前で開けさせるためだろう。
怪しいものではない、という意味で。
今開けたことを言われるのは少々納得がいかないが、彼女の言い分もリーゼロッテは理解した。
ナターリエは続ける。
「あなたには、相手の悪意にも敏感になって欲しいわ。相手が裏にどんな感情を含ませているか見極めること。それが自分の身を守ることにも繋がるから」
「見極める……」
「……最初からできなくてもいいわ。最初からできると思っていたら私も忠告なんてしない。だけど……あなたならできると信じてるわ」
ナターリエはリーゼロッテに手を伸ばしかけ、引っ込めた。
その動作にリーゼロッテが首を傾げると、彼女は気まずそうに視線を外す。
「……長居してしまったわね。そろそろ私も部屋に帰るわ。おやすみなさい」
「おやすみなさい、お継母様」
扉まで見送る、とリーゼロッテはドアノブに手をかけた。
先ほどまで饒舌に話していたナターリエは、なぜか深刻そうな表情で俯いている。
部屋から出た彼女は、扉が閉まるか閉まらないかというところで口を開いた。
「言い忘れていたわ……婚約おめでとう、リーゼロッテ」
はっとしたリーゼロッテは、閉まりかけの扉の向こうに微笑むナターリエの顔を見た。
嬉しいような、申し訳ないような、悲しいようなその表情は、紛れもない母の顔だった。
「ありがとう……ございます……」
リーゼロッテの呟きにも似た感謝の言葉は、完全に閉じた扉の向こうのナターリエに届かず響いた。




