61.二人は通じ合う
見習い騎士たちを見送った後、リーゼロッテはユリウスの部屋の扉をノックした。
その手には母の形見である翡翠の指輪が入った黒革貼りの小箱が握られている。
(ユリウス様は『あの指輪』と仰っていましたが……これで良かったのでしょうか……?)
若干不安に思うも、これ以外に指輪など持っていない。
それどころか髪留め以外は装飾品すら無いような状態だ。
この指輪が『あの指輪』なのだろうが、ユリウスがなぜ急にこれを持ってきてくれと言ったのかが分からない。
ノックからしばらくして、扉が開いた。
「リーゼ、入ってくれ」
出迎えたのはユリウスだった。
いつも「入れ」と部屋の中で待ち構えているか、そうでなければロルフが控えめに扉を開けるかするのだが、今日はどういうわけか彼が出迎えてくれている。
そしてその表情はいつもより硬い。
微かな違和感を感じながらも、リーゼロッテは促されるまま入室した。
白一色の部屋に大きな窓から茜が差している。
相変わらず殺風景で、机とベッドの他は何もない部屋だ。
と思いきや、以前と違う点が一つだけあった。
鏡台だ。
ベージュをさらに薄くしたような木目調の小さな鏡台は、真っ白な部屋の中で馴染むように、しかし鏡に光を反射させて存在感を放っていた。
リーゼロッテの視線がそちらに向かっていることが分かったのだろう。
「あれは……アレだ。髪を結ぶのに鏡がないと少々不便でな」
ユリウスは彼女を椅子に誘導しながら、バツの悪い顔でぽつりと呟いた。
彼は鏡が苦手だった。
幼い頃から少女のようだと言われてきたため、元々そんなに好きではなかったが、それ以上に少年の姿を見るのが怖かったからだ。
彼はなんとなくだが、自分の少年化は両親の死がきっかけではなかろうかと思っていた。
少年の姿は彼にとっては両親の死に直面することと等しく、それが彼を苦しめていた──部屋から全ての鏡を撤去するほどに。
成長しなくなってから数年で自分の姿に慣れたものの、当初は朝起きて昨日となんの代わり映えのない姿にがっかりし、両親がいないという現実に絶望したものだった。
「もしかして……私がお渡しした髪紐が」
リーゼロッテの問いに、ユリウスは言いづらそうに視線を泳がせる。
「ただの紐なら手元を見ずとも雑にでも結べるのだが、やはり難しいな」
「も、申し訳ございません。作り直します!」
慌てて頭を下げるリーゼロッテの顔を上げさせると、ユリウスは首を振った。
「いや、違う。私の手先が不器用なだけだ。鏡を見れば結える。それに……」
ユリウスはふっ、と微笑むと、微かに色の違う二本の髪紐を愛でるように触れた。
「……これがいいのだ」
彼が少年の姿を映す鏡を見ながらこの髪紐を結い終えた時、感じたものは決して絶望などではない。
心にぽっと灯るような暖かさと、情愛のそれだった。
愛おしそうに髪紐を撫でる彼の姿に、リーゼロッテは一瞬息が止まる思いだった。
なんだか自分が撫でられているような気がしてきて、彼女はだんだんと恥ずかしくなってきた。
「お、お話、があるというのは……」
「ああ、いくつかある」
少し裏返った声の彼女に、ユリウスは髪紐から手を離すとその慈愛に満ちた微笑みを消した。
「時の聖女の話、だ。あまり時間が取れず、簡単にしか話できてなかったからな」
時の聖女、と聞いて、リーゼロッテもまた神妙な表情を作る。
(確かに……私も『時を操れる』としか聞いてませんでした)
後で説明する、と言われてそのままにしていたものの、今までの不可解な出来事と照らし合わせて合点がいく部分はあった。
ディートリンデの傷を癒した、のはおそらく彼女の時を戻したから。
庭の古木もまた同様に時を戻し、反対にユリウスには時を進めるよう作用したのではないか、と。
リデル家別荘で見たユリウスの両親の映像については時を戻した、と言うよりも過去の一部を抜き出した残像のようなものだろう。
もしかしたら書架で見た彼の母親も、幽霊などではなく聖女の力で見たものなのかもしれない。
「とはいえ私もテオから聞いただけで、そこまで詳しいわけではない。だが、知っておいた方がいいと思う」
ユリウスはそう前置きすると話を続けた。
「時の聖女は歴史上でも片手で足りるほどの数しかいない。だから残っている文献もほとんどない。あるのは王宮の禁書庫の中。しかも記述は『金の魔力』と『時に干渉する』の二つだけだ。具体的な能力については分からない」
「だから……テオ様が最初に気付くことができた、のですね」
「ああ。逆に言えばあいつ以外には癒しの聖女だと思われていた。私も……テオから聞くまではそうかと……すまない」
「い、いえ、私も癒しの力かと思っていたくらいですし……」
リーゼロッテが慌てて首を振ると、ユリウスはやや逡巡するように視線を巡らせると意を決して彼女を見据えた。
「……十年前に聖女の力を使ったと言っていたな。その時はどういう状況だったのだ?」
その言葉に、彼女は凍りつく。
十年前の出来事をユリウスに話すということは、ディートリンデとの約束を自ら破るということだ。
(……言え……ない……)
今までこれだけ力を使った後で、時の聖女だと判明していてもなお、呪縛のようにその約束はリーゼロッテを縛り付けていた。
「リーゼ」
ユリウスは強く、しかし優しく彼女の両肩を掴む。
「正直に話してくれ。私は……リーゼは何もやっていないと信じているのだから」
覗き込んだ彼はリーゼロッテの伏せた両眼をまっすぐ見つめる。
長い睫毛で影のできた深海色の瞳は、青が濃くなり飲み込まれそうな印象を受けた。
もう一度、「リーゼ」と囁くように呼ばれた彼女は迷いながらも口を開いた。
「……ディートリンデ……双子の姉の傷を治しました。当時もう、聖殿にはマリー様がいらっしゃいました。それで姉には黙っててもらう代わりに……その……」
「罪を被った、と」
「……はい」
何かに耐えるように俯いた彼女の黒い髪がさらり、と落ちる。
小さくなる彼女の姿に、ユリウスは肩を掴む力を強めた。
「……よく、言ってくれた」
絞り出すような彼の声に、彼女はゆっくりと顔を上げる。
そこにはほっとため息が出るような笑みを浮かべる彼の姿があった。
「ユリウス様、その……そのことは……」
「……正直、リーゼを辛い目に合わせ続けてきたその女には怒りを感じる。しかるべき罰を与えられるべきだとも思うし、できることなら私がそれを与えたいとも思っている。だが……」
悔しそうに眉を歪めた彼はひと息つくと、自らを落ち着かせるように目を瞑った。
「……それは私の考えであって、リーゼの気持ちには沿ってない」
「……私は……」
ユリウスの言葉にリーゼロッテは戸惑った。
彼は何も言わず、ただ耐えるように彼女の言葉を待っている。
思えば、彼はずっとリーゼロッテの気持ちを優先させてくれていたように思う。
(私の気持ち……)
改めて考えてみるが、浮かんでくる思いはこれしかない。
リーゼロッテは慎重に口を開いた。
「私は……いいのです。ずっと、家族からは邪険にされておりました。罪を被ったおかげで、ここにお世話になって……」
真っ直ぐに、目の前の彼を見つめる。
強く、美しく、そして愛しい人。
「ユリウス様にお会いできて、こうしておそばでお仕えできたので……これ以上何も、望むことはございません」
その彼が、自分のために憤ってくれる。
それだけで嬉しかった。
それ以上は何も要らない。
リーゼロッテは自然と、口元を綻ばせる。
その表情を、ユリウスは驚いたような呆れたような笑みで見つめていた。
「……え、ええと、ユリウス様……?」
あまりに不思議な笑みだったため、彼女は怪訝そうに様子を窺う。
「いや、すまない。驚いたというか、予想通りの言葉だったというべきか」
「?」
彼は口元を隠すように手を当てると、こほん、とひとつ咳払いをした。
無欲で、無垢な彼女のことだ。
ユリウスが問えば彼女はこう答えることは予想がついていた。
ただそれでもほんの少しでもいいから、理不尽な仕打ちに対して、強かで自分本位な部分があってもいいのではないかとも思ってしまう。
──そうなったらもう、リーゼではないか。
彼は内心そう独りごちると、懐から小さな紙を取り出した。
「もう一つ、これだ」
「これは……」
彼女も見覚えがあるであろうその紙を前に、ユリウスは大きく頷く。
「リーゼが書かされた魔法紙、だ。これの効力を消して欲しい」
リーゼロッテは困惑するように、魔法紙とユリウスの顔を交互に見た。
魔法紙はその紙に込められた魔力が継続する限り、その書かれた内容が有効になる代物だ。
故に契約の更新は魔力の上書きによるものであり、魔力が残っている限りはその魔法紙はいかなる攻撃も受け付けない。
ハサミで切ることも、魔法で燃やすことも不可能だ。
だからこそこの紙に署名をした彼女に魔力を解いてもらう必要があった。
「あの……消していいのでしょうか……?」
「ああ。リーゼはやってない。それに、テオから聞くに聖女もハイベルク家を許したという。リーゼの追放もじき解かれる。どの道こんな書類は必要ない」
「……そうなのですか?」
リーゼロッテの息を呑む音が響く。
「……ああ……だから、消してくれ」
「……わかり、ました」
おそるおそる署名に指を滑らせる。
深い青の光を伴い署名が浮かび上がり、彼女の指に吸い込まれるようにして消えた。
真っ白になった署名欄を確認したユリウスは、魔法紙を手にすると一瞬にして消し炭に変えた。
「これでひと安心、だな」
「あの……」
安堵の笑みを浮かべた彼に、リーゼロッテはずっと前から聞きたかった疑問を口にする。
「ユリウス様、ずっと信じてくださっていますが……いつから信じてくださっていたのでしょうか?」
両手をもじもじと組み、節目がちに聞いてきた彼女の様子に、彼は考えるそぶりを見せた。
「いつから、と言われるとあまり覚えていないが……強いて言うなら最初からか」
「そんなに前から……」
「『直感』があるからというのもあるが……」
言いかけて彼は再び考え込むように口を噤む。
ややあって彼は首を横に振った。
「……いや、違うな」
「…………ユリウス様……?」
「前にも似たようなことは言ったが『直感』などなしにしても私が……信じたかったのだ。リーゼのことを憎からず想っていたから」
あまりの殺し文句に、彼女の心臓がどきり、と音を立てた。
(ど、どうしましょう……ユリウス様が、私を)
リデル家別荘でのことが思い起こされる。
あの時、『愛しい人』と言われたのは気のせいではなかった。
あれ以来ずっと仕事に忙殺されていた彼に改めて聞くのも気が引けて、なんとなくふわふわしたまま今日まで来たが、まさか不意打ちで聞かされるとは思ってもみなかった。
早鐘など目ではない、むしろ生命の危機を覚えるほどの拍動が脈打ち、リーゼロッテは身悶えた。
そんな彼女を、彼は慈しむような視線で見つめている。
「……だいぶ予定とは違うが、良いか……」
ぽつり、と呟いた彼は彼女の手にそっと触れた。
「リーゼ、指輪は持ってきているか?」
「は……はい。ここに」
一瞬、指輪の存在を忘れかけたリーゼロッテは、慌てて机の端に置いた小箱を彼の前に差し出した。
ユリウスは神妙な面持ちで中の指輪を取り出すと、何かを見通すように目を細くする。
「………やはり、な」
しばらくして一人納得するように頷いた彼は、リーゼロッテの手に指輪を返した。
「分かりにくいが、微かに誰かの魔力が三種類、付与されている。おそらく、全て指輪の持ち主を永続的に守護する類の」
「そうなのですか?」
「ああ。前の持ち主たちの魔力だろう」
「三種類……もしかして……お祖父様とお祖母様……それにお母様の……?」
唖然とするリーゼロッテに、ユリウスは頷いた。
「そうだろうな。贈った相手への息災を願ったものだろう」
彼の言葉に、彼女は言葉が出ない。
付与魔法つきの指輪を贈ることは、貴族の婚約時、男性から女性へのプレゼントとしては非常に一般的だ。
彼女の祖父の付与魔法はまだ分かる。
それに上掛けするように彼女の祖母や母までが指輪に付与を行なって、それを子どもに渡しているということは──。
「……愛されていたのだな」
ユリウスはそう言うと、指輪を持つ手に自らの手を添え、それをそっと彼女の細い指にはめた。
「……お母様……」
放心するように呟いたリーゼロッテは、指輪を抱き目を閉じた。
瞼の裏に、彼女を見守るように微笑む母の姿がありありと思い起こされる。
(ずっと、守ってくださったんですね……)
彼女の様子を静かに見つめていたユリウスはおもむろに跪いた。
「リーゼ」
「……はい……」
「その指輪に、私の魔力を付与しても良いだろうか」
「え……」
「もちろん、御母上様たちの魔力は消さない。それに今の私では大した魔力は付与できないだろうが……駄目だろうか……?」
覗き込むように見上げる彼に、リーゼロッテは僅かに首を振った。
「……駄目、じゃないです……嬉しいです」
「そうか……」
微かに目を細めると、彼は指輪をしている方の手をもう一度取った。
「! ゆ、ユリウス様……っ!」
その手──正確には指輪──にゆっくりと口づける。
狼狽した彼女が咄嗟に声を上げるが、ユリウスの薄い唇は離れようとしない。
無理に手を引っ込めようとしてしまったら、指輪の装飾で彼の肌を傷つけてしまいそうだ。
リーゼロッテは顔を真っ赤にしながらも、指輪にかかる温もりに堪えた。
「リーゼ……」
唇が離れ、やっと終えた、羞恥に耐えられた、とリーゼロッテがほっとしたのも束の間、熱っぽく名を呼んだユリウスが手を離してくれない。
リーゼロッテはどぎまぎしながら、彼を見つめた。
見上げる彼の顔に夕日の赤が差す。
端正で冷たい印象を与える彼の顔が、熱のこもる視線と相まって、今ばかりは情熱的に見える。
(……ユリウス……様……)
跪いた姿勢のまま、彼は口を開いた。
「私は、以前君に、離れていくなと言ったな」
「……はい」
「その気持ちは……今は少し違う」
「え……?」
リーゼロッテの表情が僅かに曇る。
(もしかして……追放が解かれると仰られて……ということは……)
ハイベルク家からはまだ何も言われてないものの、追放が解かれればおそらく、リーゼロッテは自宅に戻されるだろう。
そして熱りが冷めたら適当な婚約者をあてがわれ──。
想像した未来に彼女の表情は沈んでいく。
先ほどの付与魔法も餞別としてなのかもしれない。
そんな彼女の心の内とは違い、ユリウスは愛おしそうに目を細めた。
「私が……リーゼから離れたくないのだ。今この瞬間も、この手を離したくない」
彼はリーゼロッテの手を引くと、その甲にそっと口づけた。
痺れるような熱い口づけが彼女を甘く縛り付ける。
ああ、そうだ。
この人は手放したりなんかしない、させてくれない。
ずっと焦がれていた彼女には分かっていたはずなのにどうして餞別などと妄想してしまったのか。
唇を離した彼は顔を上げる。
夕日に真っ赤に染められた彼は、まるで彼女の心のようだ。
「…………愛してる。追放が解かれても、私は……リーゼのそばにいたい。君にいて欲しい」
リーゼロッテは動けない。
言葉を紡ごうにも、熱い想いが苦しいほどに胸いっぱいに込み上げてきて声を出せない。
微かに繋がれた手が震えたが、それはどちらの震えだったか。
「…………」
「……リーゼ……?」
あまりに長い沈黙に、ユリウスは心配そうに彼女を呼んだ。
「……ゆめ、のようで……」
やっと絞り出せた言葉は小さく、もっとよく聞こえるようにと彼は立ち上がり彼女を引き寄せた。
「ユリウス様に……そう言っていただけるなんて……夢のようで……」
目頭を熱くしたリーゼロッテの言葉に、ユリウスはゆっくりと、何度も頷く。
「本当に、よろしいのですか……? 私は……聖女の力もままならない……ユリウス様のお隣になど……」
視線を方々に這わせながらの言葉は最後まで言えなかった。
ユリウスに抱き寄せられた彼女の口は、肩口に埋められる。
彼の温もりと香りに包まれて息が止まる思いがした。
「私が好きになったのは聖女のリーゼではない。優しくて誰かのために懸命になれるリーゼだ。そして少しだけ泣き虫な、な……」
耳元で響く低く甘い声に、彼女の瞳から熱を持った涙が自然とこぼれ落ちる。
「ユリウス様……」
縋るように彼の背に腕を回すと、彼もまた安堵するように息を吐き、腕の力を強めた。
「愛してる……」
「……私も、です」
他の誰に聞かれるともなく囁き合った声は混ざり合うように残響する。
離れがたい気持ちを抑えるように、どちらともなく腕の力を緩めた彼らは、視線を絡ませると、深く深く口付け合った。
これにて三章は終了です。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
活動報告でも書かせていただきますが、四章は十月十五日(木)夜に開始いたします。
今後ともよろしくお願いいたします。




