6.妹君は書架の貴婦人を見た
次の掃除場所として案内されたのは書室だった。
古い本独特の匂いが扉を開けた瞬間から漂ってくる。少し埃っぽいのか、リーゼロッテは軽く咳き込んだ。部屋自体はそこまで広くはないが、壁一面に書架が取り付けられ、部屋の中央付近にもいくつか低い本棚が並んでいる。
「アンタ……ええと、リーゼ、でいいんだよね? アタシは隣の部屋の掃除してくるから、リーゼはここやって。なにかあったら呼びに来てな」
「え、あ、はいっ……がんばります」
言い終わるか終わらないかデボラは手を振り出て行った。
リーゼ、と親しげに呼ばれることが嫌ではない、むしろ温かい響きにリーゼロッテは胸のあたりがむずがゆくなる。
カーテンを開けて改めて書室を見回す。書架に並ぶ本は領地の地理や歴史、経営が多いが、語学や魔法などの本もちらほら見受けられた。
(魔法……そういえば、ご主人様はほとんどの魔法を操れるとか……でも噂はあくまでも噂なのかも……)
リーゼロッテは書架の上にハタキを掛けながらぼんやりと思った。実際にユリウスと接した時間は少ないが、噂ほど問答無用で叩き出されることはなかった。デボラから聞いた人物像からもそのようなことをする人には思えない。だからこそ、一人ひとつの属性しか操れないという魔法を、複数属性操れるなどという有り得ない噂も眉唾物のように思えた。
(メイド服まで用意してくださって……なにかご主人様とデボラさんにお返しができたら良いのだけど……)
上向きになりかけた気持ちが少しだけ沈んだ。旅行カバン一つでここに来た彼女には、施しを受けても返せるものはなにも持ちあわせていなかった。それどころかここを追い出されたら帰る家もない。居場所もない。元々少ない友人もおそらくいなくなった。何もない自分……。
(……あら? あれは……)
ふと窓の外が目に入った。
三階にある書室からは庭全体がよく見える。季節折々の草花が楽しめる貴族らしい庭だ。こうした庭では大抵、花が落ちても葉の色が変わらない常緑のものが好んで植えられている。その庭の端、正門や玄関から木々で隠すように、一本の古木があった。
古木は春先だというのに葉の一枚も付けず、まるでそこだけ冬に取り残されたように寒々しい。枯れていることはここからでもわかった。
(どうしてあの木は……)
木に気を取られたリーゼロッテは、自分が書架の上を掃除していることを忘れた──掃除するために脚立に登っていることも。
「きゃっ」
ガタンっ
木の方へ歩み寄ろうとしたリーゼロッテは、脚立の最上段から転げ落ちた。彼女を追うように、書架の上に積まれていた本が何冊かバラバラと落ちてくる。そこまでの高さから落ちたわけではないので、少し腕を擦りむいたくらいで済んだようだ。
「あああ、やってしまいました……」
初日からこんなことではご主人様たちにお返しどころかご迷惑をかけてしまいそう、と嘆きながらリーゼロッテは本をかき集めて──手を止めた。
それは本、というには少し薄すぎるピンク色の冊子だった。古ぼけている上に表書きも裏書きもされていない。その正体は、表紙をめくってみてわかった。
(これは……お粥の作り方……どなたかのレシピノートかしら)
柔らかく崩した文字で書かれたそれは、いくつかの料理のレシピをまとめたものらしい。どの食材がどのくらい必要か、工程まで事細かに書かれている。
『……次は』
か細い女の声が不意に聞こえた。本をかき集める手が止まる。それは彼女のすぐ後ろ、ちょうど窓の方から聞こえた。
誰かが部屋に入ってきた、そんな気配は微塵もなかった。リーゼロッテはごくり、と喉を鳴らすと、意を決して振り返った。
息を呑むような美貌の貴婦人──リーゼロッテは心の中で彼女のことをそう形容した。
後れ毛ひとつなく綺麗にまとめられた髪は、一見黒に見えるがよく見ると青味を帯びている。飾り気のないワンピースに身を包んだ彼女の身体の線は細いが、淑女らしい凛とした佇まいが意志の強さを感じさせた。そして慈愛に満ちた目元に輝くのは綺麗な紫色の瞳。その貴婦人が淡い金色の光の中に佇んでいた。
(この光……どこかで……)
彼女はリーゼロッテに目もくれず、ひたすら手を動かしている。リーゼロッテは目を凝らしたらうっすらと鍋と食材が見えた。彼女は一生懸命何かを作っているようだ。書室で料理する光景は確かに異様なはずなのに、何故かリーゼロッテの目には懐かしく映った。
『……よし、と……調子が悪い時はこれに限るわね』
鍋に蓋をかぶせ、一息ついた彼女は額を拭う。達成感に溢れた表情の彼女がほんの一瞬、リーゼロッテと目が合った。
(どことなく、誰かに似ている気が)
「あなたは……」
「リーゼ大丈夫かい?!」
大きく扉を開け放つ音とデボラの声が響く。驚いたリーゼロッテは振り返った……振り返った瞬間にデボラのふくよかな上半身に顔を埋めることになってしまったのだが。
「すごい音がしたからなんだと思ったよ」
「すみません、あの、ちょっと脚立から落ちてしまって……」
「落ちた?! そりゃ大変、怪我は?」
「あの、ちょっとだけ、でも大丈夫です、それよりさっき女性が」
「ああ! 擦り剥いてるじゃないか。早く治してもらわないとキズ残っちまうよ」
一人で慌てているデボラはさらにリーゼロッテを抱きしめる。このままでは貴婦人のことを聞く前に窒息してしまう、と彼女は生命の危機を覚えた。
「あの、デボラさん、く、苦しい、です」
「ん?……ああ! ごめんごめん、早いとこ手当てしないと」
慌てて身体を離したデボラは丁寧にリーゼロッテを抱え上げると、言うが早いか書室を後にした。扉を閉める前に彼女は書室の中を見たが、貴婦人の姿はどこにもなかった。デボラに聞こうともどう切り出していいのか分からず、数日が経ったある日──。
時間に厳しいユリウスが珍しく、朝食の時間ギリギリになっても食堂に来なかった。
「ちょっと様子見に行ってくれないか」と言われたリーゼロッテは、ユリウスの自室の扉をノックした。しかし返事はない。
(騎士団に領内の視察に、いつもお忙しい方だからお疲れなのかもしれないわ)
自然に起きるまで寝かせておくべき、とも思ったが、今日は昼食までに客人が来るという話だったはずだ。となるとやはり起こすべきだと思い立つ。
「ご主人様……失礼いたします」
ノックし続けてもらちがあかないと、リーゼロッテはそっと扉を開け中を覗きこむ。毛の長い絨毯に、カーテンの隙間から一筋二筋日の光が差しこんでいる。書室より広いその部屋には机とベッドのほか何もない。
がらんどうの部屋の中心に置かれたベッドの端で、ユリウスはうずくまっていた。
明らかに様子がおかしい。着替えようとして力尽きたのか、かろうじて軍服を身につけてはいるものの着崩したように乱れている。下ろした髪は乱れ、周囲には服が脱ぎ散らかされていた。
「ご、ご主人様っ」
取るものもとりあえず駆け寄ったリーゼロッテだったが、病人の手当てなどしたことがない。過去、無意識のうちに癒しの魔法を発動させてしまった彼女が、意図的にそういった場面を避けてきたからだ。
(震えが……顔色も悪いわ。とにかくベッドに)
呼吸の荒いユリウスをベッドに戻そうと、肩口に手を伸ばし、一瞬だけ触れるのを躊躇った。
癒しの魔法を発動させたのはディートリンデの傷を治した一度だけ。彼女に触れたら傷が癒えた。ユリウスに触れたら、同じように癒しの魔法が発動して、彼女が癒しの聖女だとバレてしまうかもしれない。
(もしバレたらここを追い出される……でも)
しかし、今は彼女はユリウスの使用人である。病気の主人を放っておくことはできない。嫌な考えを打ち消そうとかぶりを振った。
(そうだわ、誰か人を呼んで……)
手を引っ込めて立ち上がろうとしたその時。
「……い、かない……」
「きゃっ」
ユリウスはリーゼロッテの腕を取った。──いや、正確には、立ち上がろうとしたリーゼロッテの腕を取った彼が、図らずも彼女を引き倒したのだった。
彼女を押し倒した姿勢のまま、ユリウスは動く気力も体力もない。対するリーゼロッテもなんとかしようともがくが、ぐったりした病人の全体重に対抗できるほどの力はなかった。
「ご、ご主人様っ……だ、誰か……っ!」
リーゼロッテは必死に声を上げたが、運悪く、使用人の誰にもそれは届かなかった。