52.少年伯は激怒する
「ユリウス……だって……?!」
突きつけられた剣から逃れるように、慌てて後退したボニファーツはベッドの縁から転げ落ちた。
背中から落ちた彼にユリウスはなおも剣を向ける。
その瞳はひどく冷え込み、抑え切れない怒りが迸っていた。
ボニファーツは一瞬怯えた表情を見せたが、ユリウスの姿を上から下まで見つめた彼は侮蔑するように鼻で笑う。
「……なんだ、子どもじゃないか……」
(そうだ……いかに辺境伯といえどこんなところに利用価値もない女を助けに来るはずがない……)
彼は冷や汗を拭った。
「ボニファーツ・リデルだな?」
「そうだ。君は誰かな? まさかここがリデル家の別荘だと知ってて入ったわけじゃないだろう?」
相手が子どもだと知り、ボニファーツは強気な笑みを浮かべる。
呑気に起き上がり座る余裕すら見せている。
ユリウスはその間、剣を突きつけ表情を変えず彼を見下ろしていた。
身動き一つしないユリウスの無言の圧に、ボニファーツはじわじわと焦りを感じてきた。
「知らなかったとしても残念だ。どこの誰かは知らないけど彼女の大事な人狼はこれで死んだよ。君のせいでね」
「……何を言っている」
「だからっ、言っただろう? 君が僕に剣を向けたか……ら……?」
苛立つように声を荒げ、ザシャの方を振り返った彼は言葉を失った。
ザシャを押さえつけていたはずの男たちは、もれなく壁にもたれ昏倒している。
その傍らに立つ黒のマントを羽織った前時代的な様相の男──テオがやったことだとすぐに理解ができた。
どろんとした表情のロルフと騎士の装備に身を固めたアンゼルムにより枷を外されたザシャは立ち上がり、今にも飛びかかってきそうなほど怒りの色を濃くしている。
いつの間に、とボニファーツが呆然と呟くと、
「ごめんね、君の配下の方が君より強そうだったから、つい」
とテオは肩をすくめた。
一瞬ぽかんとしたボニファーツは、思い出したように叫んだ。
「だ、誰か! 曲者が!」
「悪いが、入り口からこの部屋に至るまで、見張りから使用人まで全員眠ってもらった。呼んだところで誰も来ない」
「…………は……?」
(どういう……見張りどころか用心棒含めて三十人は居るはずだぞ……それを……全部……?!)
「ホント、やることも指示もえげつないよねユリウスって」
茶々を入れるテオに、アンゼルムも心底同意した。
ここに至るまで、全ての人間を昏倒させろというのがユリウスの指示である。
おかげでほとんど騒がれることもなくここまで来れたが、手練れの彼らには簡単な手加減も、見習い騎士のアンゼルムには相当骨が折れる仕事だった。
昏倒させた後も、念のためユリウスが催眠魔法をかけていたので、おそらくは一晩くらいはぐっすり眠ってくれるだろう。
「お、お前たち、一体……」
ボニファーツはなにが起こっているのか分からない様子でユリウスたちに視線を散らした。
「……私はユリウス・シュヴァルツシルト。辺境伯といえばわかるだろうか」
「へ、辺境伯……?! 辺境伯は……こんな子どもじゃない! それに奉公人ひとり逃げたところで追いかけるような男じゃないと噂で……」
ボニファーツは裏返った声でたじろいだ。
辺境伯のことは彼もあまり知らないが、それでも彼より五歳は年上だろう。
少なくとも目の前の十二、三歳ほどの少年ではないことは分かる。
冷静に見て彼はユリウスではない──そうは思っていても、目の前の少年から放たれる歴戦の戦士が如く静かな殺気は、明らかに十二、三の男子が醸せるものではなかった。
「……私は私だ。たとえ私が辺境伯でなかったとしてもリデル家はこれで終いだ。それに……彼女はただの奉公人などではない」
ユリウスは鋒のように鋭い眼光でボニファーツを射抜いた。
「私の愛しい女性だ……彼女を返してもらおう」
(愛…………え……?)
リーゼロッテは一瞬、ユリウスが何を言ったのか分からなかった。
その言葉が脳内に流れ、反芻し理解するうちに、彼女の顔は突沸を起こしたように瞬時に熱く真っ赤に染まる。
(ユリウス様が……私のことを愛しい、と……)
考えては悶え、緊迫した場を忘れかける。
思わずその場にあった枕を胸の前で抱きしめてしまった。
「は……罪人の彼女を……愛……?」
ボニファーツもまた少々呆気に取られながらも、馬鹿にしたように小さく鼻を鳴らした。
この国で聖女迫害は王族に石を投げたようなものだ。
それをやらかす女を愛するなど愚かな人間のすることだ、とボニファーツはせせら笑った。
彼の態度にユリウスは片眉を微かに上げた。
「彼女は罪人などではない。それに私には女性を甚振る貴様の方がよっぽど罪人に見えるが」
彼の冷たい言葉に、ボニファーツは呻いた。
ユリウスはなおも続ける。
「それとも……私に斬られたいのだろうか? お望みとあらばあそこで死んでいる男の後を追わせてやってもいいが」
「ひっ……」
ユリウスはボニファーツが手を下した男の骸を指差す。
研がれた剣よりも鋭利で、どんな氷よりも冷美な瞳が暗いものを帯びてくる。
そのおぞましくも美しい瞳に、堪らずボニファーツは後退りした。
「……リーゼをこんな目に合わせたのだ。同じ……いや、それ以上の痛い目に合わせられても文句は言えないだろう」
ユリウスは剣を軽く振るとボニファーツの目と鼻の先に鋒を据える。
その不思議な動作の一部始終が見えたテオとザシャは、ボニファーツから目を逸らした。
ころり、と何かが複数、落ちる音がした。
と思った次には、ボニファーツの衣服がはだけ彼の貧相な上半身があらわになる。
どうやら音はボタンが転がる音だったようだ。
「次は服だけでは済まない」
慌てて身体を隠す彼に、ユリウスは剣を構えた。
本気でやる気だ。
ボニファーツは噴き出す大量の汗を滴らせながら、「やめて、やめてくれ……」と情けない声を上げていた。
青白い顔は貧相な身体と相まって、ひ弱そうな印象をリーゼロッテは受けた。
とても先ほど、彼女を組み伏せようとした男に思えない。
同情する気などとてもなれなかった。
しかし、このままではユリウスがボニファーツを本気で殺してしまう。
(これで……本当にいいの……? ユリウス様に私の思いも責任も全てを押しつけて……?)
リーゼロッテはシーツで身体を隠すと、今まさにボニファーツの皮膚を裂かんとするユリウスに駆け寄った。
「ユリウス様……!」
「……リーゼ」
仄暗い声が響く。
ボニファーツを睨みつけ彼女を全く見ようとしないユリウスの袖を、小さく握った。
「ダメです……ユリウス様にお手を穢して欲しくありません……」
「……しかし」
彼女の声にユリウスは首を微かに振った。
袖から離した手を剣を握る彼の手にそっと添えた。
(震えてはダメ。震えたら……きっとユリウス様は考え直してくださらない)
「然るべき場所で裁きを……でなければ私がこの場で彼を斬ります。ユリウス様に貴族殺しの汚名を着せるわけにはいきません」
彼の手をしっかりと包み込む。
その温かさにユリウスははっとしたように彼女を見つめた。
(やっと……こちらを見てくださった)
彼の反応にリーゼロッテは悲しくも安堵の微笑みを浮かべた。
彼女の表情に考え込むように視線を落としたユリウスは、ゆっくりと剣を下ろす。
「………命拾いしたな。リーゼに感謝しろ」
気の抜けたようにがっくりと肩を落としたボニファーツは、小さく「は……はい……」と呟いた。
吐き捨てたユリウスの瞳からは、先ほどまでの殺気は潮が引くように薄まっていた。




