51.元婚約者は歪んでいる
縛られ、跪いたかつての婚約者と人狼を前に、ボニファーツは満足げに見下ろした。
一人で過ごすには広すぎる彼の自室には、彼ら三人の他、ゴロツキのような見た目の男たちが数人佇んでいた。
今から何をされるのかと、不安げに見上げてくる彼女のゾクゾクするような視線がより彼の笑みを深くさせる。
「リーゼロッテ……会いたかった」
彼のわざとらしい微笑みに、ザシャは不快感をあらわにさせる。
抵抗できないようにと、リーゼロッテの背後には剣が突きつけられていた。
少しでもザシャがおかしな動きをしたら、後ろに立つ男たちに彼女は刺される。
屈強な人狼が表情でしか抵抗できない様をボニファーツは鼻で嘲笑った。
「どうした? 浮かない顔だな。君は僕に……会いたくなかったのかな?」
「……どうして……こんなことを」
覗き込むように首を傾ける彼に、リーゼロッテは恐怖を押し殺した声で問う。
「ああ。君にちょっと死んでもらおうと思って」
事もなげに言い放つ彼に、二人は言葉を失った。
「考えてもみてくれよ。君が勝手に聖女なんかを迫害してくれたおかげで僕まで共犯者って言われてるんだ。おかげでこっちは次の婚約者も決まらない。いい迷惑だ。だから迷惑料を貰いたくなってね」
「それで……そんなことで……?」
「そんなこと……そんなことだって?!」
ボニファーツの顔から微笑みが消えた。
朗らかな笑みをたたえた青年は、瞬時に怒りに染まり憎悪を滲ませた。
あまりの豹変ぶりに、二人の背が揺れる。
「あーあ……君がちゃんと謝ってくれるなら、僕も優しく苦しまないように殺せって言ってあげられたのになぁ……」
「……っ」
リーゼロッテの背に剣が押し当てられる。
冷たい感触に、彼女は身を硬くした。
「……あ、そうそう。これに署名を」
思い出したかのように、ボニファーツは机の上から一枚の紙を彼女の前に置いた。
半透明に見えるほど薄っぺらく頼りないその魔法紙は、貴族間の契約時によく使われている。
彼らの婚約時にも同じものが使われた。
しかし当時と違い、その文面は全く違う恐ろしいものだった。
「……こ、れ……」
「ああ、君が全て一人でやった、死をもって償う、という書面だよ。これに君が魔力を込めて署名をしてくれたら、僕は非常に助かる」
にっこりと笑った彼に、リーゼロッテは青い顔で震えた。
この人は何を言っているんだろう。
あまり好きにはなれなかったが、両親の決めた相手だからと理解するよう努力はしてきたつもりだった。
しかし、目の前の元婚約者は全然知らない、全くの別人のようだ。
こんな狂気を、彼はずっと隠してきたのだろうか。
「こんなことをしても……文と署名で筆跡が違うからすぐにバレます。きっと……きっと王家の方々も気づかれますよ……?!」
「いいんだよ。大事なのは自分が悪いと書かれたコレに君の魔力入りの署名がされていた、それだけで遺書として十分。疑う人間はいても……本人は死んじゃうんだから真実なんて分からない」
「嫌です……私にはできません」
「……」
顔を背けた彼女を静かに見下ろしたボニファーツは、男たちに顎で指示する。
リーゼロッテに向けられた剣はそのままに、新たにザシャの首に剣が当てられた。
乱雑に押し当てられたからか、少し切っ先がかすった首から血が一筋ゆっくりと流れた。
「ザシャさん!」
「リーゼロッテ、君がもし署名してくれないなら君が大切にしている人狼の首が飛ぶよ?」
「……」
彼女は血の気の失せた顔で、ザシャと魔法紙を見つめた。
からからに乾いた口からは、何の音も発せない。
「……リーゼ、俺のことはいい。書くな」
ザシャは横目で剣を意識しながらはっきりと言った。
「……ダメです……っ……それじゃザシャさんが……」
「……へぇ……」
ひりついた声を上げたリーゼロッテに、ボニファーツは冷笑した。
何かに納得するように頷いた彼は、二人を交互に見つめる。
「ま、いいや。人狼は殺して」
「は……?」
他人事のように男たちに指示するボニファーツに、男たちにも戸惑いが生まれる。
「聞こえなかったか? 人狼は、殺して」
「で、ですが……人狼は……」
リーダー格の男が困惑をあらわに口ごもった。
男たちを見渡すと、ボニファーツは変わらぬ笑みで手を差し出した。
「じゃあ、それ貸して?」
戸惑いながらも言われるがままにリーダー格は剣を逆さにすると、柄がボニファーツに向くように手渡す。
その瞬間、彼の瞳がゆらり、とおどろおどろしい色を帯びるのをリーゼロッテは感じた。
「人狼、殺してくれる?…………こんな風に」
「ぐぅっ!?」
受け取ったそのままに、彼はリーダー格の男の胸を深く突き刺した。
あまりに突然のことに、その場にいる全員が言葉を失った。
肋骨の間を縫うように刺したその剣を押し進めるようにボニファーツは力を込める。
「な、ぜ……」
口から音とともに血が溢れ出す。
「なんでって……人狼の殺し方がわからないのかと思って。僕は亜人なんか触りたくないし、君らにやってもらわないと困るんだけど……って聞いてない、か」
剣を一押しすると、数歩下がったリーダー格の男は崩れ落ちた。
深く刺さった根元からは血がみるみるうちに滲み、その光景にリーゼロッテは声なき声を上げ、目を背けた。
「じゃあ……殺してくれる人」
平たい声でボニファーツが問うと、男たちは震えるように何度も頷き、ザシャの首を薙ごうと力を込めた。
「待ってください!」
彼女の声を待っていたかのように、ボニファーツが手で制すると剣はぴたり、と止まる。
何の感情も感じられない彼の薄い笑みに恐怖を覚えながらも、彼女は声を絞り出した。
「……書きます……署名」
「リーゼ! やめろ!」
「……代わりに彼は……助けてください……お願いします……」
後ろ手に縛られながら、リーゼロッテは頭を可能な限り下げた。
その姿に、ボニファーツは嬉々として腰を下ろすと、彼女の頭を撫でる。
触れられるたびに芯からぞわり、と慄然とした思いが湧き立っていくのを感じ、彼女は身体を震わせた。
「……いいよ。ちゃんと書いてくれたら」
耳元で囁いた彼は、彼女の縄を解かせた。
微かに震える手にペンを持たせられた彼女は、震えを抑えながら水の魔力を込めて署名する。
「リーゼ!」
ザシャの止める声も虚しく、署名を終えるとそれをボニファーツに差し出す。
彼は魔法紙をひったくるように受け取った。
その緑色の瞳は、歓喜と興奮で満ちている。
「これで……これで僕も……」
「約束です。ザシャさんを……」
「ああ。約束だ……人狼から剣を」
ボニファーツが命じると、ザシャの首に当てられた剣は収められたが、それ以上のことは何も起きない。
ただ男たちのニヤニヤとした気色悪い笑いが起きただけだった。
「……どういうことですか……? 助けてくださると……」
「約束通り、今は殺さないであげるよ。次はどうなるか分からないけど」
「そんな……話が違います!」
「……ああ、煩いなぁもう」
堪らず声を振り絞った彼女に、ボニファーツはその細く白い首に手をかけた。
力を込めるごとに彼女は息苦しい苦悶の表情から、抵抗すらできない救いのない状況への悲嘆の表情に変わる。
「……ああ、その顔いいな……美しい……」
ボニファーツはその瞳に浮かぶ狂気を隠そうともせず、恍惚とした表情を浮かべた。
首を締める手を緩めると、リーゼロッテは身体を折り曲げ酷く咳き込む。
喘ぐように空気を吸い込む彼女を見下ろし、ボニファーツはわざとらしく考え込むそぶりを見せた。
「そうだな……自殺するほど思いつめてたなら、死に顔ももっと絶望感が欲しい。じゃなきゃみんな信じない。なら……」
彼は口端をにぃ、と歪めると彼女を抱き上げる。
そのまま奥のベッドに彼女をぞんざいに放り投げた。
「!」
「なっ……?! リーゼ! 野郎……!」
「人狼は押さえておいて」
これから起こることを理解したのか、ザシャが怒りの声を上げ彼女の元に向かおうとするが、屈強な男たちの体重をかけた押さえ込みで防がれてしまった。
両手足を枷で繋がれた彼になす術もなく、獣に似た唸り声が彼の口から漏れただけだ。
ベッド上を後退りする彼女にのしかかり、上から力ずくで押さえつけたボニファーツは狂気の笑みを浮かべる。
「な、何をなさるおつもりですか……」
リーゼロッテは抵抗しながらも震える声で彼を見上げる。
しかし女の細腕ではどんなに抵抗しようともびくともしなかった。
その恐怖に満ちた表情に、彼の内なる嗜虐心がさらにそそられる。
彼は手を彼女の頬に沿わすと、うっとりするように撫で上げた。
「何って……見たところ君と人狼は恋人か何かなんだろう? 恋人の前で僕に汚される……さぞかしいい顔をしてくれるだろう……ね!」
「きゃっ!」
頬から首へ、そして胸元へ降りたその手が、リーゼロッテのメイド服を引き裂く。
きめ細やかな色白の肌が露わになり、彼女は両手で隠そうとした。
その手をボニファーツは残虐な笑みを浮かべながら引き剥がそうとする。
その瞳には色欲など欠片もない。
ただ目の前の獲物を甚振りたい。
絶望感の中で嬲り殺したい──身が縮み上がるほどの明確な殺意しか感じられなかった。
「やめてください!」
「リーゼ! クソっ……やめろ! このクズ男が!」
ザシャは必死に起き上がろうとするも、数人で押さえ込まれては身動き一つ取れない。
動けば動くほど強く押さえ付けられるが、それでも彼は諦めずにもがいていた。
「やめて!……ユリウス様……!」
半ば悲鳴のような彼女の叫びに、ボニファーツは一瞬動きを止めた。
身体を離し、彼女を見下ろすと小馬鹿にしたようににやり、と笑う。
「ユリウス? ははっ。辺境伯が君なんか助けに来るわけないだろう……諦めろよ」
声を低くした彼は再び彼女の首元に顔を埋めようとした。
──しかしそれが叶うことはなかった。
「な……」
ボニファーツの喉元に白く光る長剣が真っ直ぐに当てられていた。
リーゼロッテはゆっくりと、剣の柄へ、その持ち主へと顔を向け息を呑む。
(助けに……来て……くれた……)
驚いたのか、ほっとしたのか、嬉しいのか、彼女の瞳が溢れそうな程に潤んだ。
「汚い手でリーゼに触るな。下衆が」
突きつけた剣と同じ白く透き通るような気品ある髪の主──ユリウスは、氷のように冷たく、厳しい声で言い放つ。
ほんの少しの間離れただけなのに、その毅然とした態度が、凛とした佇まいが、鋭い瞳が、全てが懐かしい気がする。
「ユリウス……様……」
安堵のため息とともに呟いた彼女の瞳から、大粒の涙が一粒流れ落ちた。