50.料理人は耐える
水の滴る音が聞こえる。
小さく、しかし反響するその音は、不規則な拍子を打って淡く消えた。
「…………ぅ……」
肩が硬く冷たいものに接している。
微かに呻いたザシャの額に、ひんやりとした何かが優しく触れた。
ゆっくりと目を開けると、おぼろげながらその何かの輪郭が見えてきた。
薄いピンク色の布切れと、その奥に心配そうに、しかし彼の呻きにそばだてるように耳を寄せる彼女──リーゼロッテの顔があった。
「……あ、んた……」
「ザシャさん……!」
渇きからくる掠れ声だろうか、声がうまく出ない。
腕を動かそうにも後ろ手に枷をはめられ、身動きすらままならない。
咳き込んだ彼の背をリーゼロッテは摩る。
手のひらの熱が直接肌を伝わり、ゆっくりと喉のあたりのつかえが無くなっていくのをザシャは感じた。
「……大丈夫、ですか……?」
「……ああ、大丈夫、だから……離れて、くれ」
途切れ途切れ言うと、彼は彼女の手から逃れるように再び壁にもたれた。
ザシャの言葉に彼女は手をこわばらせ、俯く。
ところどころ苔むした壁の硬い感触が何も身につけていない上半身に、ほんの少し不快感を与える。
(……獣化……解けたんだな。当たり前か……寝ながら食いつくようなマネしなくて良かった……)
彼は内心ほっとした。
しかし同時に後悔が襲ってきた。
あの時、庭にいるリーゼロッテと目が合った時、不味いと思った。
彼女はおそらく、弱っている人間を見捨てられない。
ザシャの悩みの種が彼女自身だと気付いてなくとも、きっと放っておいてくれないだろう。
亜人失踪の解決の糸口を伝えに行かなければ良かった。
辺境の亜人のことなど放っておいて、ひとりでひっそりどこかの街で暮らせばよかったのだ。
そうすれば彼女に追われることも、妙な連中に捕まることもなかったはずだ。
気を失っている間に吸い込んだ『谷落とし』の甘ったるい匂いが思考を鈍くする。
リーゼロッテの香りが加わり、抗えない衝動が彼をじわりと浸食していくのがわかった。
妙な高揚感が身体中を断続的に駆け巡り、身体が火照る。
受けた矢の傷の疼きすら心地よく感じ、それらから逃れようとザシャは周りを見回した。
石造りの牢は薄暗く、狭く、窓ひとつない。
空気は淀み、鉄格子の向こうに灯る燭台の光が頼りなく揺らいでいた。
蝋燭の煤ける臭いも混じり、お世辞にもあまり良い環境とは言えない。
「ここは……どこだ」
快楽に堕ちようとする身体に抵抗するように、口を動かす。
なにかどうでもいい別のことを考えなくては、あっという間に意識が乗っ取られそうだった。
「私の元婚約者……ボニファーツの別荘……の、地下室みたいです……」
「……貴族様の屋敷の地下室は……牢屋なのか……?」
「い、いえ。他の家がどうかは分かりませんが……少なくともハイベルク家にはこんな牢屋はなかったので家によるとしか……」
「てことは……物騒な家、なんだな……元婚約者……」
本当にどうでもいいことを聞いたからか、話は途切れ、沈黙が落ちた。
リーゼロッテはザシャの喘ぐような呼吸を心配そうに見つめていた。
「すまねぇ……俺がもう少し……強けりゃ、あんたも捕まらず……済んだのにな……」
「い、いえ……そんな……わたしの方こそ逃げずに……すみません」
「……なんで、逃げなかった……」
問いながら彼は答えを聞かずとも想像できた。
分かっていても、本人の口から聴きたい。
その想いには薄ぼんやりとした頭では抗えなかった。
「逃げたら、ザシャさんが……」
目を伏せて口ごもった彼女は、きっと彼の予想通りの言葉を飲み込んだのだろう。
その反応に、ザシャは思わず苦笑した。
「……死んでたな……はは……あんたのおかげで……命、拾いした、けど……いつまでかな……」
「ザシャさん……」
盛大に咳き込んだザシャの背中を彼女は再び摩り始める。
その深海色の瞳が、薄暗い中でも押し潰されそうな色に染まっているのがわかる。
それでも彼女は手を止めず、咳が止まるまで甲斐甲斐しく摩り続けた。
「怖かねぇの……?」
思わず疑問が口をついて出た。
その言葉に、目を丸くした彼女は首を傾げる。
素肌を晒した脇腹をくすぐるように、彼女の髪が一筋落ちた。
「見たろ……俺……人狼、なんだよ……」
人狼、の言葉で彼女の手がぴたり、と止まる。
怯えか、と思いきやその表情は微妙に困惑が強かった。
「その……すみません。人狼、のことをよく存じ上げなくて……」
「……そうか……」
それもそうだ。
人狼の血が絶えて何百年も経っている。
辛うじて古い文献や奇特な研究者、人狼の子孫に語り継がれているくらいで、普通のヒトは知識としても触れたことのない存在だろう。
「人狼は……大昔、魔王がいた頃に……多かった亜人だ……見た通り、狼の化け物に、姿を変える……普段はただの亜人だけど、な……」
「……」
リーゼロッテは一瞬息を呑むと、小さく頷いた。
魔王、と言っても何百年も前に勇者に討ち滅ぼされた存在だ。
その魔王に、当時の亜人たちは付き従う存在だった。
ヒト共通の敵、巨大な敵がいない現在の世では、もはや伝説か神話扱いしかされてないような話である。
ザシャは話を続ける。
「俺は人狼を、先祖に持つ……オオカミ亜人の子孫、だ。たまに……オオカミ亜人から先祖返り、で……俺みたいな人狼……生まれるらしい……」
言葉を吐き出すたびに、息が詰まるような思いがした。
息がうまく吸えないのに、吐き出すのが止められない。
(多分、俺は……聞いてほしいんだ。あんたに)
壁にもたれながら、息を整える。
「なぜ、今は……人狼はいないのでしょうか……」
彼女は慎重に、ゆっくりと口を開く。
荒い息遣いだけが牢に響いた。
「絶滅、したからだ」
息が整わないまま吐き捨てられた言葉に、リーゼロッテは眉尻を一層下げる。
「勇者様に滅ぼされた……?」
リーゼロッテの言葉に、ザシャは首を横に振った。
神話で語られる話では彼女の言った通りだ。
当時の亜人は魔王共々、滅された。だから今は比較的性格が穏やかな亜人しかいない、と。
しかし実際は違う。
人狼であるザシャが、その理由を一番よく分かっていた。
「……自滅、したんだよ……」
「自滅……?」
人狼の強さとはあまりに不釣り合いなその言葉に、リーゼロッテは怪訝な顔で繰り返した。
その表情にザシャは思わず苦笑しかけたが、同時に真実を伝えるべきか躊躇った。
真実を知ればきっとリーゼロッテは困る。
それにこれはザシャの問題であって、それをいちいち気にするであろう彼女を見るには忍びない。
「人狼は……」
(……本当のことなんて、あんたは知らなくていい)
あんな真実は重すぎる。
言いかけた彼は、真意を隠そうと回らない頭で考える。
「…………人狼は……食欲が、強い……食糧がなけりゃ……共食い、する……」
「……!」
息を呑んだリーゼロッテの表情に、やはり真実を伝えなくて良かったとザシャは思った。
「だから……ぅう…………」
「……ザシャさん!?」
突然苦しみ出した彼は、伸ばされた細い腕を拒否するように身を捩った。
「寄るな……! 絶対……絶対近寄るんじゃねぇ……!」
「ザシャさん……」
伸ばした手はそのままに、リーゼロッテは呆然と呟く。
呼吸に『谷落とし』の匂いと彼女の香りが混ざり合い絡めとられるような感覚に、ザシャはくらりとした。
必死に意識をつなぎとめようと、滾る瞳を彼女に向ける。
ショックを受けたような彼女に、彼の良心は酷く傷つくがそんなものは些末なことだった。
(ごめん……俺にはこれしか……できねぇ……)
「……なんだその目は……憐みか……? そんなの……要らねぇんだよ……!」
(今は……こいつを少しでも遠ざけねぇと……)
「あんた……あんたは、ユリウス様に……守られて……馬鹿みたいに笑ってりゃ、いいんだ……! 俺に……俺みたいな化け物に、構うんじゃ、ねぇ……!」
肩で息をしながら吐き捨てるように言葉をぶつけると、ザシャは膝を抱えて丸くなった。
足につけられた枷がごりごりと音を立て引きずられる。
枷が皮膚に食い込んだのか、ずきん、と痛みが走ったが、そんなものはお構いなしだった。
なんでもいい。
彼女が自分から離れてくれればそれでいい。
ザシャは止めどなく寄せる衝動を苦悶の表情でひた隠しにする。
彼女は眉を下げ、伸ばしかけてとどまった手を握りしめた。
その手をそっと広げると、彼の身体を包み込むように両腕を回した。
「……やめろ……」
ぴくり、と身体を震わせたザシャはしゃがれた声を微かに上げた。
それにも関わらずリーゼロッテは身体を離さない。
「ザシャさんは……化け物じゃないです。ザシャさんは少し怒りっぽいけど優しいザシャさん、です」
「……やめろ、離せ……!」
「離しません!」
珍しくはっきりと言い放った彼女の声がザシャの耳に反響して残る。
一瞬驚いたように目を見開いた彼は、すぐさま尖った声を作る。
「なんだよ……っ……あんた、俺はあんたに触られたくないんだよ……分かれよ! なんでだよ……!」
「ザシャさんが……ザシャさんが悲しそうだったから……」
虚をついた言葉に彼はたじろいだ。
悲しい、なんてことはないと思っていた。
皆に危害が及ばないよう、人狼である自分が身を引く場面など今まで何度か経験している。
今のように相手を突き放せばそれで皆離れていった。
その度になんてことはないつもりでいた。
これでいい、と納得させてきたのだ。
それなのに目の前の一人の女が、納得できない気持ちを引き摺り出す。
「あんたを、食いたい……食いたくて食いたくて仕方がない……!」
気がつけば、ひた隠ししてきた本心と共に彼女と顔を突き合わせていた。
彼の必死な表情を静かに見つめた彼女は、やがて穏やかな笑みを浮かべた。
「……食べていいです。それで、ザシャさんのお腹が満たされるなら……」
「良かねぇよ! 俺は……! あんたを食いたか、ない……殺したく、ない……」
今まで隠してきたことを全てぶちまけるように、悲痛な想いを吐露する。
彼の苦悩に、リーゼロッテは彼の小さくなった背を撫でた。
「……ザシャさん、私は人狼のことは知ったばかりですが……ザシャさんのことはお屋敷にお世話になり始めてから存じています。全く知らない人狼に食べられるのは嫌ですが……ザシャさんになら食べられても大丈夫です」
食べられてもいい。
彼女の言葉が理解できず、何度か口の中で反芻する。
やはりもう、時間がない。
焦点の合わない瞳で彼女を見つめる。
口が痺れてきたのか、口元に唾液がつう、と落ちた。
「……何……言って……」
「本当ならハイベルクの家を出た時にきっと私は死んでたんです。それをユリウス様に助けられて、皆さんに出会って、生きながらえてたようなものです。私は……これからきっとボニファーツ様に……」
彼女はそのふくよかな唇をきゅっと締めた。
ほんの少し俯いた瞳が揺れる。
彼女の身体が恐怖に耐えるように強張るのが分かった。
手足を縛る枷さえなければ涙でもなんでも拭うのに、とザシャはあと僅かで欲求に支配されそうな頭で思った。
「ここで死ぬのなら……私はザシャさんに食べられたい」
静かに耳元で囁くような寂しい声に、ザシャは息が止まりそうになる。
その声は表も裏もなく、ただ真っ直ぐにザシャの胸に入り込んできた。
「馬鹿……!」
思わずそう叫んでいた。
掠れることもなく放たれた言葉に、リーゼロッテは目を見開いた。
「んなこと……やめろ……! 俺は……あんたの、リーゼの死を望んでなんかない……!」
甘い匂いと、彼女の麗しい香りと、彼の衝動が一気に霧散する──。
ずっと付き纏っていた重たい霧が晴れたような感覚が確かにあったが、今の彼は目の前の彼女に一直線でそれがなんだったのか分からなかった。
「生きてここを出るぞ……! そのボニファーツってやつを伸して……リーゼを生かしてやる」
「ザシャさん……」
彼の奮い立たせるような言葉に、リーゼロッテもまた力強く頷いた。
「……だからちょっと離れろ」
「す、すみませんっ」
慌てて離れながらも、リーゼロッテはくすりと笑った。
突き放すような言葉を言いつつも、そこに優しさが含まれている、いつものザシャだと。
その笑みの意味にうっすらと感づいたザシャは気まずそうに肩をすくめた。
「……変なやつ」
「……すみません……」
「ま、いいや。……なぁ、リーゼ」
「はい」
すぐさま返事をした彼女をザシャは愛おしそうに見つめた。
(こんなに……人狼でも穏やかな気持ちになれるもんなんだな……)
不思議と今まであった衝動がコントロールできるほどに小さくなっている。
『谷落とし』の効力も同時に切れたようだ。
「……ここを無事に出られたら……伝えたいことが、ある」
初めての感覚にほんの少し戸惑いながらも、彼は彼女に告げた。
きょとん、としたリーゼロッテの仕草に目を細めると彼は幾分か、すっきりしたように大きく息を吸い込んだ。
彼女が口を開こうとしたその時だった。
ぎぃ、と立て付けの悪い扉の音が聞こえ、硬い靴音が地下室に響く。
二人は寄り添うように身構えた。
緊張が走り、リーゼロッテはザシャを庇うように前に出る。
その背中が、ザシャには心強くとも歯痒くとも思えた。
(枷さえなけりゃ……!)
やがて靴音は鉄格子の前で止まる。
追手の中でもリーダー格だった男が、燭台を手につまらなさそうな顔で二人を見下ろしていた。
「二人とも出ろ。ボニファーツ様がお呼びだ」




