43.弟君は迷う
今にも降り出しそうな曇り空の下、見張りを交代したアンゼルムは一人、馬に跨りユリウスの屋敷へと向かっていた。
もう少し人員がいれば常時二人一組で行動できるのだが、そこまで余裕があるわけではない。
見張りは二人で、一人ずつ交代で休憩に入るローテーションを組んでいた。
(……いつまで続くんだろうか……)
アンゼルムは深いため息をついた。
昨夜はずっと亜人集落の前で立っていた。
どんよりとした空を見上げるたびに、気怠い気分になる。
身体の疲労感は少ないものの、亜人からの物珍しそうな視線や、時折何か物言いたげな視線を受け続けた結果気疲れしてしまった。
実際亜人と会うのは初めてだったが、元々繊細なところがある彼は、こうも亜人からジロジロ見られると警護対象としてもうんざりしてしまう。
このうんざりがいつまで続くのかも見通しがつかず、馬に揺られながら彼はどんどん憂鬱な気分に染められていく。
いつもなら街道ということもあって人通りも多いのだろうが、あいにくの天気ということもあってかそれはまばらだ。
特に、辺境伯の屋敷の方面から来る人は少ないのか、すれ違う人も片手で足りるほどしかいない。
人の往来があれば、馬を御すのに集中できるのだが、それもないとなると気分はどんどん落ち込んでいく。
(……いや、姉さんのためだ。これくらいどうってことない)
微かに首を振ると美しい姉のことを思い浮かべる。
彼女の母──いや彼にとっても母だが──はアンゼルムを出産した後、体調を崩してそのまま逝ってしまった。
それ以来、何かと彼を気にかけていたのは彼女と乳母だ。
その乳母も、幼い頃に実家の仕事を継ぐとかで居なくなってしまったので、実質リーゼロッテが彼を面倒見てくれていたようなものだ。
母を亡くした元凶であるにも関わらず、彼女はアンゼルムに優しく接していた。
だからこそ、彼は彼女をずっと慕っていた。
慕っていたからこそ、あの家での彼女への処遇がずっと気に食わなかった。
それを変える力を得るために、早くから魔力制御を覚えた彼は騎士養成学校に入学したのだ。
最後に会った彼女はその大きな瞳に大粒の涙を溜め、それでも気丈に送り出してくれた。
それからあの家の中で何が起こっていたのかは想像を絶するが、自分さえ強くなれれば将来的に彼女を守れると日々訓練に邁進していた。
まさか長姉に嵌められてこんな場所に身を堕とすことになろうとは思いもよらなかったのだ。
(……あの時僕がいれば……)
ぎり、と奥歯を噛み締める。
自分がいればきっと彼女を守れたはずだ。
なんの根拠もないが、少なくとも彼女がたった一人で追放されることはなかった。
心配で心配で夜も眠れなかった頃、ちょうどこの任務が与えられた。
これで姉に会える、きっと姉も喜んでくれる。そう思っていた。
(姉さんも姉さんだ。あんな奴に絆されるなんて……)
百歩譲って彼女が辺境伯を頼らざるを得ないのはわかる。
ここを追い出されたら行き場がないのだから、媚を売らないといけない。
だから姉のユリウスに対する態度は打算的なものだ。そう言い聞かせた。
それなのに、ユリウスが彼女に向ける何も分かってないような視線にイライラする。
いくら国の英雄だからといって、姉にあんな易々と触れるような軽い男がそばにいるなんて姉の今後に良くない。
姉が倒れた時も、すぐに駆け寄るあたり下心が見え見えで気に入らない──端的に言えば、嫌いだ。
(さっさとこんな任務終えて、見習いが取れればハイベルク家から離れて家を持つことも可能だ。そうすれば姉さんと一緒に住めるはず)
騎士として身を立てて、父が死んだらハイベルクを堂々と継げばいい。
もしディートリンデが罪を認めて没落したとしても、あれだけ変な噂のあるユリウスが辺境伯に収まるほど、騎士の世界は実力主義だ。なんとでもなる。
姉との生活を想像して、徹夜と精神的な疲労から僅かに解放された──と思ったその時だった。
「ザシャさん……っ!」
正面から悲痛な叫びが微かに聞こえ、よく目を凝らす。
薄いピンクのメイド服に、遠目からもよく分かる濡羽色の長い髪。
ユリウスに対して決していい感情は持ってないが、黒髪に映えるあのメイド服に関してはよく分かっているじゃないか、と密かに握手を求めたい衝動に駆られている。
「姉さん……?」
しかし何か様子がおかしい。
こちらには目もくれず一心不乱に走ってくる。
いや、何かを追いかけているのか。
(そういえば、辺境伯と言い争っていた使用人はザシャという名だったな……)
随分と憔悴した様子だったが、それを何故姉が追いかけているのか。
アンゼルムは道の脇に座り込んでしまった姉に声をかけようと馬を早足にさせる。
「…………んぅ……!」
くぐもった声が聞こえた気がした。
同時にリーゼロッテの足が不規則に宙にバタつく。
ガサガサと茂みが揺れる音が聞こえ、森を何かが移動する音が聞こえた。
──襲われている。
そう認識するまで時間はかからなかった。
アンゼルムは馬から飛び降りると、リーゼロッテがいたであろう茂みの前に駆け寄る。
やはり誰もいない。
いや、薄ピンクのヘッドドレスが植え込みに引っかかっていた。
茂みに引き入れた時に取れてしまったのだろう。
「姉さん……!? くそっ!」
彼はそれを握りしめると、暴漢の行方を追うべく森の中に押し入った。
大小様々な樹木が乱立している森の中では、とてもではないが馬で移動することは難しい。
この薄暗い中で見つけられるのか、と焦る彼の視界に、キラリ、と光るものが見えた気がした。
(……! 姉さんの髪飾り!?)
反射的に走り出すアンゼルム。
(焦るな、落ち着け、僕が焦ったら姉さんが……!)
煌きに誘われるように必死に足を動かす。
しばらくして、未舗装のとても道とはいえない細道に停められた幌馬車を発見した。
その前に屈強な男が五人、その中の一人にリーゼロッテは抱えられていた。
猿轡を嵌められて声が出ないようだ。
呻き声が微かに聞こえる。
アンゼルムは木の陰から彼らの様子を窺った。
見習い騎士は二人一組が鉄則だ。
いつもならば報告役と尾行役で分かれることができるが、今彼は一人だ。
その上、相手は五人。
見たところ身のこなしに多少の隙はありそうなものの、五人一気に相手するとなると流石に苦戦するだろう。
それに加えて、暗緑色の布で覆われた幌馬車はかなり大きい。
中を見ることはできないが、馬車の中にも仲間がいるかもしれない。
こちらは馬がいないため尾行もできない。
となるとここで馬車の向かう方角を確かめたのち、テオに判断を仰ぐべきだ。
(分かってる。分かってるけど……)
自分の最愛の姉がすぐそこにいる。
今を逃せばもう彼女と二度と会えないかもしれない──そのことがいつも冷静な彼の判断と足を鈍らせた。
「おい! 早くしろ!」
「女はふん縛っておけ!」
「こら! 暴れんな!」
男の一人が、抵抗するリーゼロッテに手を上げようとした。
(姉さん……!)
「やめて。その女は無傷で連れてこいって命令よ」
聞き覚えのある声が、男を制する。
幌馬車を軋ませ降りてきたのは、やはり彼が、いや彼女も見知った人間であった。
「……ダクマー……?」
口が裂けたように大きく、太々しい態度の彼女──姉に嫌がらせしていた奴の顔を忘れるものか。
(するとあれはハイベルクの……? でも今更姉さんを辺境から動かして何になる……?)
戸惑いながらも思考を巡らせるが、とても父親の命令とは思えない。
「あんた何してんだ」
背後から急に聞こえた低い声にアンゼルムは戦慄が走った。
しかし、声に敵意はない。
ゆっくりと振り返ると、クセの強そうな茶色の巻毛に三白眼の男が茂みに隠れてしゃがんでいる。
鼻から下をスカーフのような布で覆っているせいか、目つきが悪いのがさらに強調されていた。
(確か……ザシャとかいう使用人……全然気配がなかった……)
「あれあんた確か……どっかで見たんだけど思い出せねぇや。それより、あんた見習い騎士だろ?」
ザシャの指摘に、「見習い騎士のくせに一人なのか」「見習い騎士なのに助けに入らないのか」と続くような気がしてアンゼルムはぎくりとした。
しかし続く言葉は予想に反して全く別のものだった。
「俺が時間を稼ぐ。あんたは早く屋敷に帰ってユリウス様に知らせろ」
「……は?」
あまりに予想と違いすぎて呆気にとられる。
(何を言っているんだこの人)
「……いや、あなたが屋敷に戻って知らせてください。その方が確実だ」
「確実じゃねぇよ。俺はただの使用人……元使用人だ。見習い騎士のあんたとは言葉の重みが違う。それに俺とユリウス様が揉み合ってんの、あんたらどうせ見てただろ? 俺じゃ信用なんかされねぇよ」
言われてアンゼルムは返答に詰まった。
あの場に残っていたのはアンゼルム一人であったが、ザシャが戻らなかったことで様々な憶測を呼び、「ユリウスがザシャを追い出した」ことになっていた。
ならば逆恨みでユリウスを嵌めるのではと思われても仕方がない。
幌馬車の方を垣間見る。
どうやらダクマーの一声で、リーゼロッテが乱暴されることはなくなったらしい。
が、どの道荷馬車に乗り込まれてしまえば終わりだ。さすがに走る馬には追いつけない。
「……大丈夫、なのか? あなたは使用人、だろう?」
ただの使用人が時間稼ぎなどできるはずがない、とアンゼルムは半信半疑だ。
ザシャは幌馬車の様子を窺うように目を細めると、口元を引き締めた。
「あんたの家がどうか知らねぇけど、ここは辺境だぞ。使用人が主人の世話だけしてりゃいい土地じゃねぇんだよ。分かったら早くユリウス様んとこに行け。俺らが仲良く話してる間にあいつ誘拐されんぞ」
あっさりと言い放った彼に、アンゼルムは押し黙った。
確かに、先ほど背中を取られた時気配が全く感じられなかった。
自分より確実に手練れだろう。
彼ならばもしかしたら、と思わせる妙な説得力を感じる。
しかし──。
目の前で姉が拐かされるのを、自分は助けに行くことすらできないのか。
アンゼルムは両の拳を握りしめた。
「……分かりました。姉上を……頼みます」
アンゼルムが頭を下げると、ザシャは「そうか、あいつの……」と小さく目を見開いた。
「……ああ。まかせろ。……あとひとつ、伝言を頼む。『谷落とし』だ」
「『谷落とし』?」
聞いたことのない単語に、アンゼルムは首を傾げた。
ザシャの瞳は真っ直ぐに彼を見つめている。
その瞳はどこか必死さと粟立つような獰猛さが隠れているような気がして、アンゼルムは気圧された。
「ああ、それだけ言えばユリウス様なら分かる……じゃあな」
「……ご無事で……!」
ひらり、とひとつ手を振ると、彼は跳んだ。
それを合図にアンゼルムは来た道を戻るべく走り出す。
なるべく早く、戻って来れるように。彼らを助けられるように。
振り返らずに走る彼の背後で、獣の咆哮を聞いた気がした。