42.妹君は祈る
(今日は一段と荒れていらっしゃる)
ディートリンデ付きのメイド、コルドゥラはカーテンや花瓶、椅子などありとあらゆる物が派手に割れ、転がった部屋の片隅で無表情を貫いていた。
その荒地の中心には彼女の主人が怒り狂っていた。
少しでも声を上げようものなら、癪に触ったと言いがかりをつけられて標的にされる。
故に彼女はじっと、何でもないような顔で時折来る流れ弾も黙って受け止めなくてはならなかった。
しかし最近はここまで荒れることはなかった。
もちろん、謹慎を申し付けられた時も荒れてはいたが、クッションやぬいぐるみなどの比較的柔らかいものに当たっていた。
食器など、ついうっかりコルドゥラが手を滑らせて割ってしまった物以外、壊れたものはない。
リーゼロッテがいた頃は、現在の惨状と同じような荒れっぷりを見せることが多々あった。
その殆どが、リーゼロッテのせいになっていたわけだから最近の大人しさの理由は分かる。
だが今日ばかりはよくわからない。
謹慎を解かれた彼女は意気揚々と創環の儀へと出発した。
コルドゥラも同行したが、儀式の間は控え室という名の軟禁を受けていたため、儀式でなにがあったのかはわからない。
ただひとつ、儀式が終わって帰ってきた彼女の様子は一言では言い表せないほどだった。
怒りや悲しみ、憎悪、嫉妬、羨望……負の感情をすべて混ぜ合わせ火にかけたような、末恐ろしいものを彼女から感じた。
(儀式で何かあった、はず)
コルドゥラは訝しんだが、あまり詮索して悪目立ちするのも良くない。
そもそも聖女迫害の件以来ディートリンデ、いやハイベルク家の王家からの覚え自体良くはないのだ。
たとえ病欠の当主がいたとしても、詳しいことは何も教えられなかったに違いない。
それにわざわざ詮索せずとも、彼女にはいずれ答えの方から転がり込むだろう。
今のところは恙無く終了したとして振る舞っていればいい。
「………………ねぇ、そこのあなた」
ひとしきり暴れ切ったのか、ディートリンデが肩を激しく上下させながらコルドゥラに声をかける。
「どうかされましたか、お嬢様」
すかさず返事をする。
(貴女がどうかされてるのは見れば分かることだけど)
冷たい視線を瞳の奥に押し込め、俯き加減で控える。
「……ダクマー、は……まだ帰ってないのかしら?」
「はい」
「……随分と遅いのね。お仕置きが必要かしら。ねえあなたどう思う?」
底冷えするような声色の彼女に、コルドゥラはあくまで冷静に自分の考えを述べた。
「恐れながら、ここから辺境伯領までどんなに早くとも二日はかかります。加えてあちらはそろそろ雨季に入りますので、足止めを受けている可能性は存分にあるかと思われます」
「ふぅん、そう。いいわねぇダクマーは。庇ってくれるいい同僚がいて」
さして興味もなさそうに、しかしどこか苛ついた声で皮肉を言うディートリンデに、コルドゥラはまたか、と内心ため息をついた。
ダクマーを庇うつもりは毛頭ない。
私怨で主人に仇なすような使用人など仕事の邪魔にしかならない、とコルドゥラは思っている。
しかし、わざわざダクマーを貶めるようなことはしない。
そこまでする価値が彼女には見出せない。
ディートリンデはコルドゥラから視線を外すと、比較的被害が少ないソファに身体を預けた。
彼女はコルドゥラに意見を求めることが度々あった。
といっても、意見を求めるだけで何もしない。
時折こうして皮肉を浴びせてくるくらいだ。
かといって、気に入らないと切り捨てられることもない。
意見を求められている限りは処罰されないと理解している。
だからコルドゥラも私見をできるだけ排除してはいるが、遠慮せずに考えを述べることができた。
無意味なことを嫌いそうな彼女が無意味な会話をしている──特にリーゼロッテが出て行ってからこういった会話が増えたような気がする。
(……迷っておられる……? いやまさか……)
コルドゥラは、彼女が何か指針のようなものを失っているように感じていた。
「……………ねぇ、私とリーゼロッテって似てるわよね」
ソファに埋もれたディートリンデは暴れ疲れたのか、横たわった人形が如くだらり、と四肢の力を抜いた。
だらしがなく幾分か扇情的なその姿に、コルドゥラは微かに眉をひそめる。
「はい。外見は瓜二つかと」
「……そうよねぇ」
「……」
不穏な沈黙が流れる。
こういう時は目を伏せていても分かる。
ディートリンデはさぞ毒のある妖花のような微笑を浮かべているに違いない。
どこか嬉々とした彼女の声の余韻が不気味に残った。
「……せっかくの双子だもの、ねぇ」
コルドゥラにも届いた呟きは断片的すぎて、彼女には理解することは難しかった。
エルを見送った後、リーゼロッテはしばらく形見の木を見上げていた。
彼女からは気にするな、とも取れる励ましをもらったがやはり少し落ち込みはする。
この上なく幸せなことに、ユリウスに大事にされている、とは思う。
ただ彼女が力を行使することを彼は良しとしない。
おそらく、彼女が正常に力を使えるなら彼も拒みはしなかっただろう。
現状、暴走せずに力を使う方法となると彼に吸い出してもらうしかないのだが、それが高いハードルとなっていることは明白だった。
(私がもっと、力を制御できれば……)
自分の不甲斐なさが嫌になる。
しかし下を向いてばかりでは、結局ハイベルク家を追い出された時となんら変わりがない。
ユリウスを助けようとテオやエルが奮闘しているというのに、自分はこのまま大きな力を持て余したまま、使えないままで良いのだろうか。
──それではダメだ、とリーゼロッテは首を振った。
今はできなくとも、いつかまた同じような状況になった時、ユリウスが取れる選択肢は一つでも多い方がいい。
ならば少しでも早く制御できるようになりたい。
リーゼロッテは幹に触れた。
硬く、少しひんやりした感触が伝う。
風もなくざぁ、と枝が揺れ、葉の数枚が落ちてくる。
青々としたその葉の一枚を拾い上げ、天にかざした。
エルは言った。自信をつけろと。
この木は自分の力を使った結果だ。
(ほんの少し、少しでいいのです……私が……私を認めることを許してください)
葉を抱きしめるように胸元に寄せると、強い風が吹き荒れた。
髪は乱れ、落ちていた葉を全てさらっていってしまう。
その葉のいく先に視線を向けると、門のあたりに人影があるのが見えた。
親譲りの茶色の巻毛に手足の長い細身の長身、ほんの少しふて腐れたような三白眼──。
(あれは……!)
彼女が声をかける前に、その人物は背中を向けて慌ただしく逃げ出した。
「ま、待ってください!」
リーゼロッテも慌てて駆け出すが、普段走ることなどほとんどない。
あっという間に相手の背中が小さくなり、追ったところでとても捕まえられそうになかった。
それでも追いつかなければ、と思った。
門から屋敷を見る表情が、心なしか寂しそうで、泣きそうだったから。
今追いつかなければ、二度と彼は帰ってこない、そう感じた。
「待って……! ザシャさん……っ!」
走りながら息の上がった声で必死に叫ぶ。
声が届いたのか、その人物──ザシャは一瞬、足を止めた。
遠すぎて表情は分からないが、たじろいでいるように見える。
逃げるか留まるか、足踏みするように迷った彼は、逃げることを選択したらしい。
街道から森へと入っていってしまった。
「ザシャさん……っ!」
何度も何度も、走りながら呼びかけるが、彼が出てくることはなかった。
リーゼロッテは街道の端でへたり込むと、肩を上下させる。
靴擦れでも起こしたのか、踵のあたりがじんと痛んだ。
腰を下ろしてしまったせいか、疲れがどっと襲ってくる。
もう一歩も動けない。
「ザシャさん……」
ぽつり、と呟いた瞬間だった。
「………んぅ……!」
背後の茂みから伸びた手に口を塞がれたリーゼロッテは、抵抗する間も無く茂みの中へ消えた。