41.お姉様は嘲笑される
王太子フリッツは、遂にこの日が来てしまったかとため息をついた。
創環の儀──王族とその婚約者がお互いの魔力で指輪を作る、内々に行われる儀式だ。
その見届け人として宰相と聖女が同席することになっている。
マリーにあの女と共同で行う作業など見せたくはなかったが、それでも国王の崩御もいよいよ近くなり、宰相にも急かされている今、行わないわけにはいかなかった。
先に儀式が行われる王城地下に着いたフリッツは大きくため息をついた。
「フリッツ様、大丈夫ですか?」
聖女マリーが彼の顔を覗き込む。
ピンクゴールドのふわりとした巻き毛が揺れた。
彼は彼女の髪を撫でて口付けたい衝動に駆られたが、粛々とした表情で抑え込んだ。
「大丈夫だよ、マリー。私の方こそごめん。こんなことに付き合わせてしまって」
「いいえ、フリッツ様が幸せになられること、マリーは嬉しく存じます」
ほう、とため息が漏れそうな笑みの彼女が彼には我慢して笑っているように見えた。
本来ならば自分を貶めようとした人間となど顔も合わせたくないだろう。
それでも過去の件を一旦腹の内に収めて来てくれたのだ。
そんな健気な彼女の愛情を感じたフリッツは熱い視線を彼女に送った。
「マリー……」
彼女に手を伸ばそうとしたその時。
「お待たせしてしまいましたか? フリッツ様、それと……マリー様」
扉が開き、高飛車な声が響き渡る。
その聞き覚えのある彼女の声に、フリッツは渋い表情を作った。
この不快な声は振り向かなくともわかる。
「……花のようだね、ディートリンデ」
「ありがとうございます、フリッツ様も素敵ですわ」
声の主──ディートリンデに声をかけると、彼女は笑顔を作り恭しく淑女の礼を返した。
彼女が身につけているのは簡素な白のワンピースドレスだ。まさに花嫁の色である。
フリッツもまたシンプルな白のタキシードに身を包んでいる。
これが式となると様々な装飾がなされ豪奢になるが、儀式ではこの様相と決められていた。
真っ白なドレスを着る彼女は本当に花のようだ、とフリッツは思った。
薄暗い地下の中で光ってすら見える。
何も知らない人からすると、目を引く美人の彼女は無垢で純粋な女性にしか見えないだろう。
そしてたちまち、時折妖艶な表情を見せる彼女の虜になるのだ。
しかし、彼の目には善良そうな顔をして獲物を罠にかけ食す禍々しい食虫花にしか見えない。
嘘は決して言っていないが、褒めてすらいない。
それを素直に褒め言葉と受け取るディートリンデのことを滑稽とすら感じている。
嬉しそうに微笑んでいた彼女は、はたとマリーに目を向けると一瞬冷たい目をした。
「……ですが、本来私のエスコートはフリッツ様ではなくて? 何故マリー様とお二人で先にいらっしゃったのかしら?」
「本来のエスコートは君の父君だ。それが体調が悪くどうしても来られないということだから宰相に頼んだまで。聖女は王族がエスコートする決まりだ」
将来王妃となる者なら知っているはずだが、という皮肉はあえて飲み込んだ。
マリーに聞かせたくなかったからだ。
たとえ一時でも、彼女にディートリンデと結婚するなどと思われたくない。
「……そうでしたわ。私とした事がうっかりしておりました。申し訳ございません」
しずしずと頭を下げたディートリンデは美しい。
美しいが、それはすべて計算し尽くした美しさだ。
マリーの心根から醸される美しさとは比較にならない。
無言で睨め付けるようにディートリンデをじっと見つめると、彼女は嘘くさい微笑みを浮かべた。
「そろそろ始めてもよろしいでしょうか」
おほん、とわざとらしい咳払いをした宰相が二人を祭壇へと促す。
「では……フリッツ様、エスコートをお願い致しますわ」
マリーへの当て付けのように刺々しく言葉を発した彼女は涼やかに微笑んだ。
その微笑みがさらにフリッツを苛立たせる。
渋々、しかし表情には出さず腕を差し出すが、へばり付くようにねっとりと腕を絡めたディートリンデに怖気が走った。
早くこんな儀式、終わりにしてやる──その一心で歩みを進めた。
「……やっと、でございますね。儀式を延期されていたときはどうなることかと思っておりましたが、こうして儀式の日を迎えられましたこと、ディートリンデは嬉しく思っておりますわ。ずっと、ずっとお待ち申しておりました」
感慨深く語らう彼女に、フリッツは何をいけしゃあしゃあとと顔を引きつらせた。
「……延期になったのは誰のせいだ」
「あら、それは私の不肖の妹のせいですわ? ですが聖女様ももう怒っていらっしゃらないとのことでしたし、そろそろ妹も辺境から帰ってきてもらわないとですわね。結婚式には是非とも出席してもらわなければならないですし……」
「……そろそろ口を閉じろ。早く終わらせるぞ」
「まあフリッツ様。早く指輪を作りたいのですわね。私も同じ気持ちですわ」
「いい加減黙れ」
たまらず憎しみのこもった視線で睨みつけるが、彼女は見向きもしない。
ただ口に笑みをたたえてフリッツの命令に応じるように沈黙した。
祭壇は数段の階段登ったところにある。
長方形の台座の上にそれぞれの左手をかざし、魔力を注ぎ指輪を作る。
その指輪が結婚という契約の証になるのだ。
故にこの儀式の重要度は高い。
二人は台座に手をかざすと魔力を注ぎ始めた──はずだった。
「……あれ……? なんで?」
ディートリンデが珍しく狼狽ている。
というよりも、フリッツは彼女が焦った声を上げるのを初めて聞いた。
いつもすまし顔で、時折マリーや自分を、いや世界を嘲笑うような笑みを浮かべる彼女が、慌てている。
その高笑いしたくなる事実が、彼に何が起きたのか確認させることをほんの少し遅らせた。
「どうして、どうして魔力が……! フリッツ様!」
ディートリンデがその眉尻を下げ、彼の腕に飛び込んだ。
油断していたせいかそのまま二人でバランスを崩し、尻餅をついてしまう。
この女……! と激昂しそうになった彼は、その言葉を飲み込む代わりにディートリンデを突き飛ばすように引き剥がした。
「……何があった」
「私の目には……失礼ながら殿下の魔力しか確認できませんでした」
要領を得ない彼女に代わり、宰相が彼の疑問に答えた。
宰相の後ろで、マリーも遠慮がちに頷いている。
どういうことだ。
フリッツは訝しんだ。
あれだけ指輪を作りたい、結婚したいと言っていたディートリンデが意図的に魔力を使わなかったとは考えにくい。
フリッツの魔力は正常に台座に流れ込んだことを見るに、台座の不具合という可能性も低いだろう。
しかし彼女が魔力を注ごうとしても注げなかった、ということは──。
「……ディートリンデ。もしかして、魔力が消えたのか?」
彼の指摘に、混乱していた彼女の顔が一気に青ざめた。
かと思いきや瞬時に真っ赤になると、わなわなと震え出す。
「ち、違いますわ! 成績上位で卒業した私の魔力が消えるなど、あり得ませんわ! あってはならないことですわ!」
ヒステリックに叫ぶと、マリーに照準を合わせた。
「そ、そうですわ! マリー様ですわ! やはりハイベルクのことを許しておられなかったのですね!? マリー様が私の魔力だけ弾くよう、台座になにか細工をされたのですわ!」
震える手でマリーを指差す彼女に、フリッツは卒業パーティーの時のことを思い出した。
そういえばあの時は妹をすんなり差し出した。
しかし、あの時こんなにも狼狽していただろうか。
むしろ予想通り、計画通りといった表情で嬉々として妹を指し示していたように今更ながら思った。
「そんな……、違います。私ではありません」
マリーの否定する声に我に返ったフリッツは、ひとつ咳払いをすると彼女を守るように立ちはだかった。
「ああ、違うとも。いくら聖殿から近いとはいえ、ここは王族の許しがなければ入ることさえ叶わない。細工などできない」
「私めにはディートリンデ様の魔力自体が発動しなかったように見えましたが……」
フリッツに続いて宰相が口を開くと、ディートリンデは彼をきっ、と睨みつけた。
「いえ、これは台座がおかしいのです! 長い間使ってるせいで女性側の魔力を受け付けない不具合でも出てきたのではないですか!?」
無茶なことを言い出した彼女に、フリッツと宰相は顔を見合わせた。
お互い、何も言わずとも考えていることが表情からわかる。呆れだ。
未来のこの国の王妃としてあるまじき子供じみた振る舞いに、もはや怒りを通り越して呆れしか浮かばない。
ふと、フリッツの視界の端に所在なさげに佇むマリーの姿が入った。
……これは立場を分からせる絶好の機会ではないか。
フリッツは人知れず口端を吊り上げた。
「……では確かめてみるか。マリー」
「は、はい」
「こちらへ」
急に呼ばれて不安そうな彼女に微笑むと、彼女の腰を引き寄せた。
「ふ、フリッツ様?」
「ちょっと、フリッツ様?!」
「マリー、どうやらディートリンデは台座の不具合が気になるらしい。私と一緒に魔力を注いで確かめてもらえないだろうか?」
ディートリンデから上がる抗議の声を無視し、彼はマリーに語りかける。
マリーは逡巡するように視線を方々に巡らすと、小さな声で「……分かりました」と答えた。
あまりに愛らしいその慎ましさに、そのまま抱きしめたい衝動に駆られたがぐっと堪えた。
「フリッツ様! おやめください!」
「……宰相」
「は」
「終わるまで押さえておけ」
「……御意」
食ってかかる勢いのディートリンデを、宰相がうんざりした表情で羽交い締めにする。
戸惑うマリーに「今は集中しよう」と声をかけると、彼は台座に魔力を注入した。
フリッツの緑の魔力と、マリーの黄色の魔力が混ざり合い、台座が煌々と輝き出す。
やがて光が収まり、台座の上には二つの銀に輝く指輪が仲良く並んでいた。
「……できた」
フリッツの口元に笑みが浮かぶ。
台座が正常だったと証明できた笑み──ではなく、愛しのマリーとの指輪を作れた喜びが溢れる。
もはや彼にはディートリンデが悔しい思いをしていようが、ショックで項垂れていようが、怒りに震えていようがどうでもよかった。
この二つの指輪が、マリーと自分との愛を証明してくれる。
そのことが嬉しかった。
フリッツは二つの指輪を手に取ると、愛おしそうに見つめた。
「フリッツ様……あの……」
言い淀むマリーは居心地悪そうにちらちらと抱かれた腰あたりに視線を向けている。
「ああ、すまない」
本当はもっと抱き寄せてしまいたかったが、彼女もこれ以上ディートリンデの不興を買いたくないだろう。
嫉妬深い彼女ならばたとえ聖殿に守られたマリーにも手を出してくるに違いない。
大変名残惜しかったがその手をぱっと離した。
「さて……台座に不具合はなかったようだが」
「…………」
ディートリンデはただじっと耐えるように立ち尽くしている。
それもそうだろう。
この国では貴族、特に男子は魔力が必須だ。
魔力がなければ貴族同士や王族との契約ができない。
そのため、たとえ長男であっても魔力が完全になければ相続権が発生しなかった。
女子はそうでもないが、それでもこれは王族との婚姻だ。
王妃の魔力を要する公務などもある。
王妃が魔力を持たないなど、あってはならないのだ。
非常に滑稽だ。
あのディートリンデがなす術もなくただ棒きれのように立っているだけ。
彼女の姿に気を良くしたのか、フリッツは口を開いた。
「指輪は作られた……創環の儀はこれで終了でよいか?」
「殿下……?」
「ディートリンデ嬢もきっと、不本意な結果に終わったことだろう? とりあえずこの指輪を予備として置いておこう。なに、また秘密裏に創環の儀を行えば良いではないか。今日は調子が悪かったのだ」
とびきり優しくディートリンデに言い含める。
それでも彼女は唇を噛んで俯いただけだった。
彼が知る上では、一度魔力を失った人間が再び魔力を得ることなど不可能だった。
未来の王妃となるべく勉強してきた彼女もそれは知っているだろう。
もう一度、いや何度創環の儀を行おうが失敗する。
失敗する姿を見て、少しでも積年の恨み、溜飲を下げたい。
婚約解消するのはそれからでもいい。
なにも焦る必要はない。
もう彼女の負けは決まっているのだから。
──ああ、今日はすこぶる気分がいい。