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4.妹君は真面目にお掃除した

 ユリウスと対面し、リーゼロッテは困惑していた。


 恐ろしい数々の噂を持つ辺境伯が、実は二十四歳の成人男性とは思えない子ども同然の体格の持ち主だった、などという噂は聞いたことがない。


 もし実際にそうであるなら、その噂がいの一番に社交界を駆け抜けるに違いない。


(もしや私はからかわれている……? いいえ、そんなことをしてもユリウスさ……ご主人様にはなんの得にもならないわ)


 リーゼロッテは心の中でご主人様と言い直した。


 追放された今はもう、使用人として生きていくしかないのだが、長年培った言葉遣いはそう簡単には消えてくれないらしい。


(確かご兄弟はいらっしゃらなかったはず……いえ、ご親戚は……どうだったかしら……?)


 混乱する頭を必死に動かすが結論は出ない。そもそも社交場ですらまともに顔を合わせたことがない。


 急遽辺境伯に仕えることになり、彼について調べる間もなかった彼女が正解にたどりつけるような問題ではなかった。


「なにをボーッとしてるんだい?」


 不意に降った野太い声が、混迷を極めるリーゼロッテの意識を引き戻した。


 反射的に見上げると、でっぷりとした身体に茶髪の大女が腕を組み、仁王立ちしていた。この屋敷の一番の古株である中年のメイド長のデボラだ。


 今日からリーゼロッテの教育を担当するということなのだが、貴族にはいなかった大きな声とあけすけな物言いのこの人物に、彼女は少しだけ恐怖心を覚えている。


 どうやらユリウスに挨拶し扉を閉めた後、しばらくぼんやりと立っていたいたらしい。「変な子だね」と毒づくデボラに、リーゼロッテは申し訳なさそうに謝った。


「ま、仕事さえちゃんとしてくれりゃいいさ。……着いて早々で悪いけど、ついてきな」


 あっけらかんと言うと、デボラは(きびす)を返した。リーゼロッテは慌ててついていく。


 デボラの歩みはリーゼロッテのそれよりも速い。というのもデボラの体格が男性顔負けのがっしり体型だからだ。


 社交界の中でも小柄な方のリーゼロッテとは、そもそも手足のリーチが違いすぎる。はしたない、と思いつつもつい小走りになってしまう。


 しかし、ここを追い出されたらもうリーゼロッテに行き場はない。みっともなくとも必死についていくしかなった。


 そうしてついた場所は──。


「……玄関ホールを掃除……ですか?」


 伯爵家の玄関ホールよりやや広く、白亜の壁に整然と組まれた石造りの床に、数は少ないものの派手すぎず繊細な装飾がなされたインテリアが並んでいる。


 吹き抜けの天井から下がる燭台付きシャンデリアが明るく照らし、ホール全体に温かい印象を与えた。


「ああ、あんた元令嬢なんだろ? なんにもできないって聞いてたから、まずは簡単な掃除でも覚えてもらおうかと思ってね」


 物がやたらある所よりこういうだだっ広い場所の方が初心者にはやりやすいだろ、とぶっきらぼうに付け加えると、立てかけてあった(ほうき)と雑巾をリーゼロッテに手渡した。


 おずおずとそれを受け取ると、戸惑いつつも掃除に取り掛かることにした。







 教えると言っても、デボラはリーゼロッテの仕事ぶりに全く口出ししてこなかった。


 ただ監督官のように掃除する彼女をじっと見つめるだけだ。視線を感じつつも必死に手を動かし続けた。


 ひとしきり掃除したリーゼロッテが顔を上げると、既に掃除が終わった部分を眺めるデボラと目が合った。


 無表情でまじまじと見つめてくるデボラに、なにかしでかしてしまったのではないかと不安に駆られる。


(どうしましょう、もしかしてどこか至らない点があったのかしら)


 箒を持つ手に力が入る。


「あんた……ホントに御令嬢かい?」


 デボラの問いに意表を突かれたリーゼロッテは、一拍置いてぎこちなく小首を傾げた。


 聞けば今まで何人もの貴族令嬢が奉公人としてやってきては、デボラや他の使用人を見下し、掃除洗濯もそこそこに、ユリウスに取り入ろうとばかりしていたらしい。


 デボラ自身、好き放題振る舞う貴族令嬢たちには辟易していた。


 少なくとも、聖女に害意を成したとされるリーゼロッテを奉公人として受け入れると聞いた時さえ、口には出さずとも「またか」とうんざりする程度には。


 そんなデボラの気持ちをよそに、リーゼロッテは文句も言わず粛々と掃除をこなした。その上その仕上がりは、長年使用人として勤めるデボラさえも舌を巻くものだというから驚きだ。


 手放しに褒められた経験が乏しいリーゼロッテは、困惑したように視線を地に這わせる。


(こういう時、どんな顔でどう返せば……)


 そもそもリーゼロッテがなぜベテランの使用人を唸らせるほどの掃除ができるかというと、長年のディートリンデの嫌がらせにある。


 彼女はリーゼロッテの善行を自分のものにするだけでなく、よくリーゼロッテの自室を荒らした。


 物を壊すに飽き足らず、部屋全体に小麦粉を撒かれたことも、服全部を安いワインで汚されたこともあった。


 その度に父や継母(ままはは)に訴えたが、何度も何度も繰り返されたそれに、次第に父親もまともに取り合わなくなった。


 ついには「自分で汚したのだろう、自分で片付けなさい」と、使用人たちが部屋に出入りすることを禁止した。


 途方に暮れたリーゼロッテを助ける者は当然いない。


 しかし荒れたままの部屋では過ごせない。なにより少しでも汚れていたら、きっと両親は彼女を更に鬱陶しく思うだろう。


 嫌がらせがある度に彼女はただ黙々と掃除や洗濯、裁縫、片付けをし続け、いつしか使用人以上の腕を身に付けた──いや、身に付けざるを得なかったというわけだ。


 デボラの疑問に正直に答えれば、今後彼女に変な気を遣わせてしまう。かと言って、その場でうまい嘘をつけるほどリーゼロッテの口は達者な方ではなかった。


(どうしましょう……)


 苦い思いが絡みつきうまく返答できないリーゼロッテの様子に、デボラは「ま、いいさ」と肩を(すく)めた。


「デボラ」


 唐突に中性的な声がホールに短く響く。


 リーゼロッテが振り向くといつの間にそこにいたのか、コートの下に軍服を身に着けたユリウスが階段を降りてきた。


 端に避けて玄関までの道をあけるデボラに倣おうとするが、「あんたは玄関の扉開けて」と小さく指示が飛ぶ。


「ユリウス様、どうなさいましたか?」


 先ほどまでの砕けた口調をガラリと変えたデボラが静々と問う。


(やはり彼が正真正銘の辺境伯なのだわ)


 ではなぜ子どもの姿なのか、とリーゼロッテは訝しんだが、それを屋敷に来たばかりの彼女が誰かに聞くには些か不躾な質問に思えた。


「今から少し出る。帰りは遅くなる。緊急の用件があれば騎士団の方に連絡してくれ」


「かしこまりました。いってらっしゃいませ」


「い、いってらっしゃいませ」


 用件を手早く伝え、出て行こうとしたユリウスは、頭を下げる彼女の前ではたと立ち止まった。


「リーゼ、顔を上げろ」


 戸惑いながらも顔を上げるが、彼の鋭い視線にいたたまれなくなった。


 今の彼女は膝丈の黒ワンピースに白のエプロンというスタンダードなメイド服を着ている。ハイベルク家のメイドの古いお仕着せだ。


 道中、馬車の中でほつれや穴は直せたが、それでもデザインの古さや毎日のように袖を通したためにできた布地のテカりはどうしようもない。


 しかしほとんどの服を八つ裂きにされ、新しい服を買うお金も時間もなかったリーゼロッテには贅沢も言っていられない。


(わ、私は壁……私は壁……)


 心の中で呪文のように唱え、幾分か落ち着きを取り戻す。


 彼はリーゼロッテより少し背が高いくらいだが、鋭い眼光や(まと)う雰囲気がそう感じさせるのか、実際よりも大きく見える。


 そうして微かに息を呑む音が聞こえ、彼はぽつりと「違うな」と呟くと、デボラを呼んで何かを言付けた。


 その様子に一度落ち着きかけた心がまたもざわつき始める。


(違う……まさかこの屋敷に私の存在自体が合わないという意味では……)


 気もそぞろにユリウスを送り出すと、背後に立ったデボラがポンと肩を叩いた。その顔はニコニコ、と言うよりもニヤニヤとしている。


 まるで何かいたずらを思いついた幼子のような表情に、リーゼロッテは顔を引きつらせた。


「じゃ、そういうことだから」


 と、半ば強引に使用人控室へと連れて行かれたのだった。

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