37.料理人は歯痒い
「一番近くの大規模集落って…………!」
誰も止める間も無く、ザシャは跳ぶようにかけると見習い騎士に食ってかかった。
「お、おい君……!」
「うるせぇ! 黙ってろ!」
隊長が慌てて止めるが振り解かれる。
見習い騎士の胸ぐらを掴んだザシャは、必死の形相で彼を揺らした。
「一番近くの大規模集落って街道沿いのあの集落か!?」
「そ、……そうだ。さっき見回りついでに集落内も見ておこうと中に入ったら……人の気配が全くなかったんだ……」
あまりの剣幕に戸惑う見習い騎士を、なおも噛みつく勢いで言い連ねる。
「なんかの間違いだろ? オレは昨日、あの集落で知り合いと会話したんだよ。あの集落が気に入ってるって言ってたんだ!」
「ザシャ」
ユリウスが彼の肩をしっかりと掴んだ。
「……落ち着け」
鋭い瞳を向けるザシャを冷静な表情で受け止めると、ユリウスは方々に指示を出し始めた。
「ひとまず、状況確認をしたい。ザシャは同行しろ。話は道中聞く。そこの、馬を用意してくれ」
「御意!」
慌ただしく散開する見習い騎士たちの中で、半ば呆然としていたリーゼロッテの視界がぐにゃり、と歪む。
(あ……また……)
全身から急激に力が抜けたように、彼女は後ろに向かって昏倒した。
意識を手放す直前、ユリウスが珍しく慌てた表情で駆け寄ってくるのが見えた気がした。
もう何度目だろうか。
僅かな物音に目を開けると、シミひとつない白塗りの天井が目に入った。
いつもの自室の天井だ。
「気がついた?」
少し高めの、聞き覚えのある声がかけられる。
声の方に顔を向けると本をぱたり、と閉じたテオが微笑んでいた。
「テオ……様……?」
「あ、いいって。まだ起きちゃダメだ。倒れたんだから」
身を起こそうとした彼女に、テオは身振り手振りで制した。
リーゼロッテは倒れる前の微かな記憶を掘り起こす。
確か玄関ホールで近くの集落の亜人がいないと騒ぎになっていたが、そこから先はうろ覚えだ。
しかし緊迫した雰囲気で、人が集まっていたことだけは分かる。
あの騒ぎの中で更にリーゼロッテが倒れたとなると、すぐにでも出発したかったであろうユリウスに多大な迷惑をかけたのではないだろうか。
(なんてことを……)
リーゼロッテは上掛けに顔を埋めた。
「あの、ユリウス様は……」
「彼なら今頃集落についてる頃かな。僕らはお留守番」
一瞬考えるそぶりを見せたテオは、軽くウィンクした。
テオのおどけた表情に思わず笑みが溢れるも、反面出かけてしまったのかと寂しい気持ちもある。
(駆け寄ってくださったのも……夢……だったのかも……)
一瞬落ち込みかけたが、すぐに首を振った。
彼は辺境伯だ。
辺境伯として仕事をまっとうするのは当たり前のことである。
「でもどうして……」
「僕がここにいるのかって顔だね」
したり顔で頷いた彼は続けた。
「見習い騎士の派遣が決まっちゃったからね。僕はユリウスの補佐役としてこの件に関わる。途中で子供の姿になられても困るからね。しばらくこの屋敷にも逗留させてもらうつもりだよ」
「そう……ですか……」
あっけらかんと言い放つ彼に、リーゼロッテは曖昧に頷いた。
軍属でもない彼女にはテオの実力がどの程度なのか分からないが、それでもユリウスが補佐と認める程には強いのだろう。
少なくとも、留守を預ける程度には。
「喉が渇いたかい? と言っても、僕はユリウスみたいにお茶は淹れられないんだけどね」
どこか楽しむような彼の気安い口調に、リーゼロッテは思わず疑問を口にする。
「どうして……ユリウス様がお茶を淹れられると……」
その質問に、一瞬ぴたり、とテオが固まったように見えた。
(わ、私また何か聞いてはならないことを聞いてしまったのでは……)
昨日失敗したばかりではないか、と彼女は自分の無神経さが嫌になる。
「あー…………実はご両親が亡くなってからうちの家で彼を預かってたんだよねー……彼と知り合ったのもその時でさ」
珍しく言いにくそうに口ごもった彼に、リーゼロッテは小首を傾げた。
そういえばユリウスも歯切れ悪く「許されれば話す」と言っていた。
(もしかしたらテオ様のお父様から口止めされている……? でもなんのために……?)
諸々の疑問は浮かぶが、テオの家の当主がそれほど厳格な性格なのだとしたら、ユリウスがあまり口が固そうにない彼に秘密を教えたのも分かる気がする。
「ま、その話はいいとして。病人はもう少し寝てなさい、ってね?」
話を切り上げられた──と彼女は感じたが、それでも寝不足の身体は睡魔には勝てない。
テオが退室した後、再び瞳を閉じた彼女は安らかな寝息を立て始めた。
「……君はこの国……僕にとって大切な人間だからさ」
人当たりの良い笑みを消したテオの呟きは、扉を隔てたリーゼロッテにはもう聞こえなかった。
集落についたユリウスたちは丁寧に見回ったが、結局人影ひとつ見当たらなかった。
(ザシャの話からして、失踪の線は薄い……やはり誘拐か……しかし)
集落中の家という家をくまなく調査したが、荒らされた形跡はない。
むしろつい昨日までそこで誰かが生活していたように、テーブルには食べかけの食事や読みかけの本が置き去りにされていた。
亜人だけがすっかり居なくなっている。
一言で誘拐とも言い切れない状況に、見習い騎士たちからの報告を一通り受けたユリウスの表情は険しいものになっていった。
もう一つ、懸念材料がある。ザシャだ。
言葉少なく項垂れたザシャは、集落の入り口から動かない。
集落に到着してから、彼は集落内で見習い騎士たちと一緒に住民を探していた。
しかし、ついに一人も見つからないと知ると広場で呆然と立ち尽くしていた。
あまりに憔悴していたため、見習い騎士に抱えられてここまで連れてこられたくらいだった。
見習い騎士たちが捜索している間、彼に声をかけたが、
「ユリウス様……甘い匂い、しませんか……?」
と脈絡もない一言を返されただけだ。
もちろん甘い匂いなど感じられず、ただ前日に降った雨とそれに打たれた草木の萌える強烈な匂いしか感じられなかった。
(連れて来たのは失敗だったか……いや……もしかしたら)
ユリウスは彼から視線を外すと「先に屋敷に戻れ」と見習い騎士たちに命じた。
ぞろぞろと、どこか力なく集落から離れる彼らの中で、アンゼルムはユリウスを睨んでいた。
「ザシャも戻るぞ」
「………ユリウス様は……いいんですか」
ぽつりと呟いたザシャの言葉に、ユリウスは微かに眉をひそめた。
ザシャがふらりと立ち上がる。
俯いた姿勢からは彼の表情は見れないが、少なくとも声色からいい感情は持たれていないことだけは分かる。
「何がだ」
「あいつ……リーゼロッテのことですよ。いいんですか、あんなよく分からない男に任せて」
(よく分からない男……テオのことか)
言い得て妙だな、とユリウスは内心苦笑した。
確かにテオは掴みどころがない。
が、実力はユリウスと並ぶほどの力を持っている。
この件が失踪か誘拐か分からない今、屋敷を任せるとしたら彼しかいない。
リーゼロッテに関して不審なことを言ってはいたが、彼女に嫌われてまで行動を起こすような馬鹿な男ではない──今のところは。
「……あの男は信用できる。少なくとも弱った女性に無理強いなどしない」
「だからって……!」
ザシャは怒りで歪められた顔を上げ、声を荒げた。
「私は領主だ。この地の民のためにいる」
冷静に言い切ったユリウスはザシャから顔を背けた。
その横顔が白く、冷たく感じたザシャは小さく舌打ちした。
先ほどからザシャから怒りを向けられているのは分かる。
しかし、ユリウスにはその怒りの根本が何なのかいまいち把握しきれない。
最初は集落を守れなかった悲しみか、と思っていたが、そうでもなさそうな彼の様子にユリウスは怪訝そうに見つめた。
「ザシャ……大丈夫か?」
「……ユリウス様……私を……いや、オレをあの屋敷から追い出してくれ」
吐き捨てるような言葉に、ユリウスは一瞬言葉を失った。
「……何を言っている」
「……あんたはあいつを見ないフリしてるし、あいつは……オレの事なんか見ない……! わかってんだよそんなこと!!」
腹の内から吐き出すような叫びが集落に響く。
自分の胸を掻き毟るように掴むと、ザシャはその場に膝をついた。
「何を言っているのか分からんが……」
「本気で言ってんのか? すっとぼけんな! なんで、今更……!」
「私は使用人に不遜な態度を取られたくらいで解雇するような人間ではない。わざとそんな態度を取ったところでザシャを解雇などしない」
彼の毅然とした態度に、ザシャはほぞを噛んだ。
まるでお前の考えなどお見通しだ、と言わんばかりの紫電の瞳が苛立たしい。
(なんでオレの考えは分かって、あいつの気持ちは分かんねぇフリしてんだよ……!)
ギリ、と歯噛みする音が頭に響く。
「……オレが……あいつを……リーゼロッテを食いたいと思ってたとしてもか……?」
俯いたザシャにも届くほどの、息を呑む音が聞こえた。
「……いつからだ」
極力冷静に声を低くしたユリウスだったが、握り締めた拳が熱く震えた。
「……昨日の夜、飯作ってる時。ロルフが来なきゃ噛み付いてた」
ザシャの呟きに、ユリウスは天を仰いだ。
(……顔色が悪かったのはそのせいか……)
もしロルフに呼びにいかせなかったら彼女は──。
最悪を想像し、ユリウスは苦々しい表情でザシャを見つめた。
「オレの言ってる意味……あんたなら分かってるよな。だから早く言ってくれ。出て行けって」
膝立ちの彼の胸ぐらをユリウスは乱暴に掴み上げた。
二人の怒気を孕んだ視線が絡み合う。
お互い何も言わない。言えない。そんな長い沈黙が続いた。
「…………チッ……」
先に視線を外したのはザシャだった。
ユリウスの手をぞんざいに振り解くと、彼は集落の中に消えていった。
「追わなくてよろしいのですか?」
木に寄り掛かったアンゼルムが、ユリウスに声をかけた。
その声色はどこか蔑むような声だ。
「……いい。余計な詮索はするな」
そう吐き捨てると、ユリウスは屋敷に着くまで一度も後ろを振り返らなかった。