36.妹君は目覚めた
「!」
リーゼロッテは勢いよく身体を起こした。
いつものユリウスの屋敷、いつもの自室だ。
月明かりひとつない闇の中だが、慣れ親しんだ場所だと分かりあれは夢だったのだと彼女はようやく理解できた。
ほっとしたのもつかの間、嫌な汗が流れる。
息が乱れ、何度も吸い込もうとするが、うまくできない。
ヒューヒュー、と変な音が喉から漏れる。
音を必死で抑え込もうと、胸の前に手を当てても一向に治まる気配がない。
(誰か……)
声を出そうも息が吸えない。声にならない声が口から洩れただけだ。
身体をくの字に曲げた彼女はふと、サイドテーブルに薄目を向ける。
深海色の煌めきがうっすらと目に入る。
バレッタだ。
夜の闇の中でも自力で光っているように見えるそれに、彼女は必死で手を伸ばす。
ようやっと届いたバレッタを胸に抱き締めるように、必死に深呼吸をした。
(ユリウス様……)
夢を打ち消すように、彼のことを思い浮かべる。
彼の少し困ったように眉尻を下げる笑顔。
勇しく、守ってくれる力強い腕。
甘く痺れるような声。
そして──「そばにいろ」という言葉。
呼吸が次第に落ち着きを取り戻してくる。
真っ青な彼女の肌に、少しずつ色みが戻ってきた。
「……ユリウス様……」
息を長く吐き出し、掠れた声で彼の名前を呼ぶ。
開いた手にはバレッタが食い込んだ痕がくっきりと残っていた。
完全に落ち着いた頃には、もう起きなくてはいけない時間だった。
なぜあんな夢、しかもディートリンデが子供だった頃の夢を見たのか、薄ぼんやりとした頭で考えてみたが考えはまとまらなかった。
(きっとユリウス様に口付けなど考えてしまったから……罰が下ったのだわ)
──立場を忘れそうになった、罰。
ユリウスと過ごす毎日は、ハイベルク家で過ごすそれより楽しく、充実している。
このままずっとここでユリウスと過ごしたいなどといつからか思い上がってしまっていた。
それを戒めるために、彼女が夢に出てきたとしても不思議はなかった。
ぼうっとした頭で使用人控室に顔を出すと、既にザシャがてきぱきと準備をしている最中だった。
「あ、……あんたか」
誰かと間違えたのか、ザシャは一瞬浮かんだ笑顔を消して仏頂面になる。
リーゼロッテもまた、昨日のことを思い出し、どこかギクシャクしつつも頭を下げた。
「……おはよう、ございます」
「……おう」
重苦しい沈黙が落ちる。
ザシャは彼女に関わりたくないかのように背を向けて準備を続ける。
(いけない……私も準備しなくては……)
そう一歩踏み出した瞬間に、くらり、と目の前の風景が揺れた。
(あ……)
倒れる、と彼女はどこか冷静に自分の状況を理解した。
しかし衝撃に構えるほどの冷静さはなく、そのまま崩れ落ちるように倒れ込む──。
が、待てども待てども衝撃はこない。
「大丈夫か?」
頭上からかけられた声にはっとして見上げると、ザシャが片腕で彼女を身体を抱えていた。
「あ……」
「……無理すんな。あんま寝てないんだろ。少し休んどけ」
ぶっきらぼうにそう言うと、ソファに彼女を横たえた。
「なんで寝てないって……」
「いやあんたクマすげぇぞ。しばらく寝とけ。仕事が回らなくなったら起こす」
「でも……」
身体を起こそうとするリーゼロッテを、ザシャは押さえつけるようにブランケットをかけた。
「あのなぁ……今はオレがたまたま、本当にたまたまあんたの方見たから無事だったけど、誰もいないところで倒れたら悲惨だぞ。階段だったら落ちてんぞ」
分かったら大人しく寝とけ、と付け加えた彼はリーゼロッテに背を向けた。
彼の優しさは素直に嬉しい。
嬉しいがそれでもこの状況では素直に受け取れない。
(寝ろ、と言われても……)
お嬢様育ちの彼女には、同じ空間に異性がある状態で無防備に寝るなどとてもできない。
まして昨日ザシャと身体が触れ合ったばかりだ。
逆に目が冴えてきてしまった。
「あの……やっぱり大丈夫です……」
身体を起こした彼女に、ザシャは「……あんま無理すんなよ」と呟いた。
リーゼロッテが野菜束を運ぼうとしていると、ザシャがまごまごと声をかける。
「昨日……は、ごめん……調子乗った」
「いえ、その……私も少し驚いてしまって……」
ぽつりと呟くような声の彼に、リーゼロッテは両手を振った。
あの時を思い返して、彼女の身体が微かに震える。
彼女の反応に触発されてか、ザシャは彼女に手を伸ばしかけた。
その手をぐっと握りしめ下ろすと、彼はその瞳を彼女に真っ直ぐ向ける。
「……あの、さ……オレ……オレはあんたが……」
「大変です!」
玄関の方がにわかに騒がしくなる。
声から察するに、見習い騎士の誰かだろうか。
二人は顔を見合わせると、玄関の方へと向かった。
「大変です、隊長!」
「何があった!」
一足早く着いたであろう隊長の声が響く。
その声からも、ただ事でないことが分かる。
「何事だ」
ユリウスの声が聞こえたところで、ちょうど二人も玄関にたどり着いた。
走ってきて間もないのか、見習い騎士は肩を上下させながら敬礼をすると、悲鳴に近い声を上げた。
「ここから一番近い大規模亜人集落……誰もいません!」




