35.妹君は彼女と邂逅す
書斎から出たユリウスは扉に寄りかかり口元を押さえた。
(私としたことが……)
リーゼロッテの手に触れた。
それはまだいい。お茶の淹れ方を教えただけだ。
ただその後がまずかった。
いつからこちらを見ていたのか、彼女の視線に気付いてしまった。
緑がかった青の瞳が潤み、より複雑で味わい深い色に図らずも彼は思ってしまった。
(……綺麗、なんて陳腐な言葉では足りない……)
そのままその瞳に吸い込まれるようにその唇を啄みたかった。
アンゼルムが扉をノックしていなかったら確実にそうなっていただろう。もちろん彼女が嫌がれば結果は違っただろうが。
ユリウスは口元を覆っていた手で前髪をくしゃりとかき上げた。
(もう彼女に不埒なことはしない、と決めたのだが)
抑えが効かない自分に苛立ち、拳を壁に叩きつける。
じん、とした痛みが広がるが、今の彼にはそれでも物足りない。
(……いや、今は辺境のことを考えろ)
彼は軽く首を振ると、歩き出した。
「……随分と、姉上と仲がよろしいのですね。閣下」
階段に差し掛かったところで影に潜んでいたアンゼルムが姿を現した。
「……覗きとは感心しない。それに、彼女は私の奉公人だ」
「違いますよね? 閣下は姉上の監視役でしかない」
思わぬ鋭い言葉に、ユリウスは内心たじろいだ。
監視役であることを知っているのはユリウスの他は王家しかいない。
全寮制の騎士養成学校に通い、詳しく事情を知らないであろうアンゼルムから指摘されるとはよもや思うまい。
「…………伯爵から聞いたのか」
思い当たる人物の名を出すと、アンゼルムは不愉快そうに眉間にシワを寄せた。
「誰があんな人でなしに…………いいえ、父の考えそうなことなど分かりますから」
激昂しそうになった声を必死に抑え、彼は余裕の笑みを作る。
人でなし、という部分だけはユリウスも心の中で同意した。
「王太子との婚約を進めるために姉上を辺境に療養目的で送る。熱りが冷めるまでと言いながら、無実を証明できない姉上にとったら実質永久追放です。加えて、王家への忠誠心が高い閣下が聖女迫害の大罪を犯した者を簡単に受け入れるはずがない。王家に話を通した上で受け入れているはず…………ですよね?」
「……なるほど。貴君は聡明だな」
ユリウスは素直に感心した。
アンゼルムのことは夕食時に教官から聞いている。
騎士養成学校設立以来、最年少で首席を取るほどの優秀な人物だと。
身体能力や瞬発力、状況判断力も申し分なく、伯爵家の嫡男で騎士として従事する期間が短いというのが唯一の欠点だと言われているという。
(今は確か十三歳か……将来が楽しみだな)
思わず目を細めるユリウスに、アンゼルムは苛立った。
「姉上を弄ばないでいただきたい」
強い口調で吐き捨てると、ユリウスをきっ、と睨みつける。
「姉上は人の悪意に敏感ですが、それ以上に人の優しさに飢えています。あなたのように、腹の底で姉上を疑いながら優しくするような中途半端な人間が一番姉上を傷つける。ましてやあのように姉上に触れるなど……」
捲し立てる彼に、ユリウスは戸惑った。
(これは……少々勘違いされているらしいな……)
アンゼルムには、ユリウスが監視役であることを逆手にとってリーゼロッテを口説く不埒者に見えるらしい。
監視役であったのは出会った頃くらいだ。今では監視など殆どしてないし、使用人たちも彼女を疑いなどしていない。
むしろ、誰も口にはしないが彼女の潔白を信じているくらいだろう。
「なにを勘違いしているのかは知らないが、彼女に傷など……この辺境にいる間はひとつも付けんよ」
「そこから先は?」
なおも鋭い質問が飛ぶ。
ユリウスは、彼は自分がどう答えようが及第点を与えないつもりだろう、と感じた。
それと同時に、リーゼロッテにこんなにも想ってくれる味方がいたのだとどこか嬉しく感じていた。
どうやら彼は長年リーゼロッテを無視し続けた父親とは違って、多少は人の心を持った人間らしい。
複雑な家庭環境の中で危ういほど真っ直ぐに育った彼の生育歴が気になるところではあるが、どこかリーゼロッテや自分と似ているところがあり憎めない。
彼女の味方ならば、監視役のユリウスを敵視しても仕方がないだろう。
仕方ないが、やるせない気持ちが胸の片隅にあるのもまた、否定しない。
「辺境伯は辺境にいるからこそ真価を発揮する……その点はあなたもよくご存じのはずです。ならばもし姉上が辺境外に出てしまったらあなたはどうされますか? 辺境の平和と姉上、どちらを取りますか?」
榛色の瞳が鋭く光る。
彼女によく似た顔立ちの彼に責められ、ユリウスはまるで彼女に責められているような錯覚を覚えた。
以前のユリウスなら迷わず辺境の平和を取っただろう。
多勢の平和のために一人を犠牲にする。それは広大な領土を預かる領主として正しい判断だ。
今もそれを選択すべきだと分かっている。
分かってはいるが、脳裏にリーゼロッテの姿がチラつく。
彼女ならば正しい選択をしても最終的に寂しそうに笑って許してくれるだろう──しかし。
「……それは」
「即答できない時点で答えは同じです」
言い淀んだ彼に、追い討ちをかけるようにアンゼルムは強く言い放った。
「あなたに姉上を任せられません。姉上は……僕が守る」
煉瓦造りの花壇に小ぶりの花が規則正しく並び、植え込みの奥にはガラス張りの小さな温室がある──。
ハイベルク家の庭だ。
なぜ自分がこんな場所にいるのか分からない。辺境にいたはずだ。
リーゼロッテは戸惑い、早くこの屋敷から出ようと身を翻そうとした。
不意に、温室の方に誰かの気配を感じる。
よくここで何かの作業をしていた父だろうか。
それともとうとう園芸に目覚めた継母だろうか。
いずれにしてもここで見つかるわけにはいかない。
植え込みに隠れた彼女は、恐る恐る温室の方を覗いた。
扉は半分ほど開かれ、そこに小さな影が見える。
中央に置かれたこじんまりとしたテーブルで、ちょうど誰かが午後のお茶を楽しんでいるようだ。
(誰かしら……子供のように見えますが……よく見えない……)
ハイベルク家の温室にいるということは縁者なのだろうが、彼女の記憶には親戚に小さな子供などいなかったはずだ。
そもそもこの温室には実子である自分でさえも立ち入りを禁止されていた。
誤って毒草でも触ったら大変だという、もっともな理由で。
子供ながらに「この温室には危険なものがあるのだ」と思っていたのをよく覚えている。
そんな中で呑気にお茶を楽しむ人物に、正直なところ興味が湧いた。
もう少し前に、と身体を前に乗り出すと、がさりと茂みが大きく鳴った。
「……そこにいるのはだあれ?」
鈴の音が鳴るように小さな声に、リーゼロッテはぎくりとして身体を縮めた。
やはり子供だ。
少し舌ったらずな声に直感的にそう思ったが、追放者がこんな場所で見つかるわけにはいかない。
逃げなければ──と思ったリーゼロッテの頭上に影がさした。
「おねえさん、だあれ?」
温室からはだいぶと距離があるはずなのに、先ほどの小さな声が頭上から聞こえた。
(この声……)
聞き覚えがある、とリーゼロッテはぞくりと身体を震わせた。
ゆっくりと顔を上げると、彼女の予想通りの顔がそこにあった。
「……ディート、リンデ……?」
少し薄い青のぱっちりした瞳に、よく手入れされた腰までの黒髪。可愛らしい微笑みから滲み出る子供特有の無邪気さと自信が、彼女に健康的なイメージを与えている。
少し驚いたように開いた瞳が、嬉しそうに細められた。
「あたり! わたし、ディートリンデ! ひさしぶりにヒトにあえてうれしいわ!」
屈託のない笑顔でそう言うと彼女は放心するリーゼロッテに抱きついた。




