34.妹君は嬉しい
リーゼロッテはそわそわと落ち着かない。
ちらちらとユリウスの方を何度も見ては、「何かお手伝いしましょうか?」と口にしたいのをぐっと堪えている。
堪えているのは彼が「そこから一歩も動くな」と言い出したからで、本当ならばもう何十回も聞いて彼をうんざりさせているに違いない。
ユリウスは先ほどから書斎の奥にある給湯室で何かをしている。
貴族の屋敷、と言うよりも普通の屋敷と違って、何故かユリウスの屋敷には書斎に給湯室があった。
なんでも何代か前の当主が無類のお茶好きで、自ら淹れるほどのこだわりっぷりだったらしい。
故に彼が今からしようとしていることもおおよその想像はつくのだが、ユリウスの手を煩わせていると思うと落ち着かなくなる。
そもそもなぜ、彼が突然そんなことをしようと思ったのかさえわからない。
(騎士様たちとの会食を途中退席されるほどの急用だったはずでは……)
そうこうしている内に、なんともいえずいい香りが漂ってきた。
(なんだか……この香り、ほっとする……)
いつものお茶の香りに、微かに花の香りが混じる。
程なくして、奥からユリウスが茶器を銀のワゴンに載せて出てきた。
「!」
彼の姿にリーゼロッテは呆気に取られた。
彼が着ていたのはいつもの軍服ではなく、執事服だったからだ。
「……あ、あの……ユリウス様……お召し物が……」
「ん……ああ、これか」
特に気にした様子もなく、彼は机の脇にワゴンをつけた。
「従僕をしていた時の癖だ。この格好でないとどうにも上手く茶が淹れられない」
いつもの黒一色の軍服も白い髪との対比で映えるが、オーソドックスな執事服も凛々しい立ち振る舞いと相まって様になっている。
彼女は思わずため息をついた。
「……あまり見るな」
居心地悪そうに頬をかいたユリウスに、リーゼロッテはくすりと笑う。
彼女の前にカップが置かれる。
無駄のない所作がまた彼女にため息をつかせた。
(ユリウス様が淹れてくださったお茶を飲めるなんて……)
嬉しいような申し訳ないようなふわふわとした気持ちに、リーゼロッテは落ち着かない。
「どうぞ、お嬢様」
「えっ……」
まるで使用人のような口調のユリウスを彼女は見上げた。
彼は微かに悪戯っぽく笑っている。
(もう……最近のユリウス様は意地悪だわ……)
促されるままにカップに口をつけた。
芳醇な香りが口いっぱいに広がり、鼻を抜ける。
喉をこくん、と鳴らすと胸いっぱいに温かい香りが広がるような気がした。
「美味しい……」
頬を上気させ呟くリーゼロッテに、ユリウスはほっと息を吐くと慈しむように目を細めた。
「そうか」
「今まで飲んだ中で一番美味しいです……!」
「大袈裟だ」
照れ隠しのように視線を外すと、彼女の隣に腰掛けた。
彼女が嬉しそうに話す様子をユリウスは時折頷きながらじっと見つめる。
「……少しは元気が出たか」
ひとしきり喋ったリーゼロッテの顔を、彼は覗き込むように頬杖をついた。
「……え、あ、……」
(もしかしてユリウス様、私の元気がないと思ってこんなことを……?)
彼女は戸惑い俯いた。
彼が見習い騎士との食事を早々に切り上げたのも、お茶を淹れたのも、普段言わないような冗談を言ったのも、全部元気がなさそうな自分のため──。
(どうしましょう……すごく嬉しい……)
緩んだ頬を引っ張り上げるように両手でなんとか持ち上げようとするが、こみ上げ続ける嬉しさが顔を引き締めることを許さない。
「元気、出ました。ユリウス様のおかげです」
「いや、私は久しぶりに自分で淹れた茶を飲みたくなっただけだ」
そう彼は優しく微笑むと、お茶を口に含んだ。
彼女は恐る恐る顔を上げる。
カップを傾ける彼の横顔は儚げで、しかしどこか柔らかい表情に見えた。
(所作も立ち振る舞いも何もかも完璧……こんな従僕が近くにいたら世のご令嬢の方々も気が気でないのでは……)
従僕をしていた、という彼の言葉を思い出し、ほんの少し胸のあたりがざわつく。
(どこでどんな方にお仕えしていたのかしら……男性かしらそれとも、女性……?)
ちくり、と胸を刺す痛みに、いてもたってもいられず声を上げた。
「……あのっ……」
「ん……どうした」
ゆっくりとカップを置くユリウスに、リーゼロッテは声が震えないよう極力声量を抑えた。
「従僕をされていたとおっしゃられていましたが……どちらのお屋敷にいらっしゃったのでしょうか?」
その質問に、ユリウスの表情が固まる。
固まった彼に眉をひそめたリーゼロッテははっとした。
今の言葉が失言だったことに気づいたのだ。
爵位ある貴族の嫡男が、他家で従僕をするなど普通はあり得ないことだ。
あり得ない、ということはやむなく他家に仕える事情があったということである。
彼が領地返上していたことを考えると、従僕だった期間というのは両親を亡くしてから戦争が始まるまで、と冷静に考えれば自ずと答えが出る。
(わ、私ったらなんてことを……っ!)
「も、申し訳ございませんっ……失礼なことを……!」
ただの好奇心と焦燥感に似たなにかに駆られて、軽々しく聞いていいようなことではなかった── 慌てて頭を下げた彼女は後悔していた。
「……いい。そんな顔をするな……その……その件はいつか、許されたら話す」
歯切れ悪くも首を振ったユリウスは、リーゼロッテに頭を上げるよう言った。
窺うように顔を上げた彼女の表情が今にも泣き出しそうで、彼の手は彼女の頬にそっと添えられる。
小さな顔がユリウスの大きく骨張った手で包まれ、彼女は身体をぴくりと震わせた。
「そうだな……代わりと言ってはなんだが、先のお茶の淹れ方を教えるのはできる。そんなものでは代えにならないだろうが」
「よろしいのですか?」
先ほどまで泣きそうだった顔が何処へやら、驚き半分嬉しさ半分という様子のリーゼロッテに、彼は内心苦笑した。
「ああ。と言っても大したことではないのだが」
立ち上がり、ポットを持って実演するユリウスをリーゼロッテは熱心に見つめた。
「……コツは以上だが……少し、やってみるか?」
「はい」
ポットを手渡され、見よう見真似でやってみるがなかなかうまくいかない。
悪戦苦闘するリーゼロッテを後ろから静かに見守っていたユリウスだったが、実はやきもきしていたらしい。
「手の角度を調整してもいいか?」
「は、はい。お願いします」
リーゼロッテが頷くと、彼は後ろから彼女の手に自分の手を添える。
「少し角度が違う。もう少し……そう、このくらい」
「は……はい……」
重ねられた手が妙に熱い。
心臓の鼓動が煩いのに、彼女のすぐ頭上で、ユリウスの声がまるで頭の中に直接届くように響く。
背中につくかつかないか、絶妙な立ち位置に居るはずの彼に包まれるかのような感覚に、リーゼロッテは思わず赤面した。
(ち、近すぎ……です……が……)
どこか冷静に、ザシャの時と違う、と感じる彼女がいた。
彼の時は主に驚きと謎の悪寒のようなものが強かったのだが、今は心臓は騒がしくとも不思議と落ち着ける。
(ユリウス様……)
無意識にリーゼロッテは彼を見上げた。
雪の降り積もった冴えた夜のような印象だった彼は、いつしか夜を皓々と照らす満月のような安心をもたらしてくれる存在になっていた。
彼女の視線に気付いたユリウスは、それを受け止める。
「……リーゼ……」
微かにこもる熱っぽい囁きに、リーゼロッテは一瞬くらりとした。
このまま背中を彼に預けてしまいたい。
そんな衝動に戸惑いながらも、彼女は大きな深海色の瞳をゆっくりと閉じ──。
コンコン、と硬いノックの音で二人は我に返った。
「閣下、いらっしゃいますか」
扉に阻まれくぐもってはいるが、アンゼルムの声だ。
「……用件は」
素早く身体を離すと、ユリウスは扉の方へ声をかける。
「教官……いえ、隊長が明日の割り当てについて相談があるとのことです。お取り込み中であらば出直しますが」
「分かった。食堂で待っていてくれと伝えてくれ」
「御意」
扉の向こうの気配が完全になくなったところで、ユリウスは振り返った。
その表情は困ったような照れているような複雑だ。
「すまない……その……」
言い淀む彼の伝えたいことが何なのか、同じような恥ずかしさを抱いている彼女には痛いほど分かった。
が、それを口に出して分かっていると言ってしまうのも憚られるほど恥ずかしい。
「だ、大丈夫ですっ。ユリウス様は隊長様のところに行ってください……ここの片付けは私がしておきますので」
張り付いた笑顔を向けると、ユリウスは少しほっとした様子で「わかった」と短く頷いた。
手早く着替えた彼が出て行った後、リーゼロッテはへたり込むようにソファに突っ伏した。
(私……今……キスを強請って……)
考えれば考えるほどに恥ずかしさでどうにかなってしまいそうな彼女は、もう冷めてしまったお茶を歯痒い思いで見つめた。