31.少年伯は手放すことを薦められた
遠雷は徐々に近づき、時折雷光が空を横切る。
(これは本格的に降りそうだな……例年より雨季が少し早めか……作物への影響も考えると……)
ユリウスは窓から陰鬱な表情で外を眺めた。
領主ともなるとたかが天気一つでも頭を痛めることも多い。
雨季も彼を悩ませるものの一つだ。
日照時間は減り、毎日いずれかの時間で雨が降る。豪雨の場合もあれば少々パラつく程度の時もある。
この時期にできる作物の不作はある程度は仕方がない。
雨季に合わせた作物もあるが、長期保存には向かない。
故に都市部に届くまでに腐ってしまい、備蓄庫を開けることも度々経験している。
もちろん農民たちも雨季を考えながら作業はするが、それが早まってしまうと準備不足で予想以上に不作になることもままあった。
(さて今年はどうなることか……)
ふと、庭に目を移す。
古木──いや元、古木だが──の前に黒髪を靡かせた彼女がいた。
リーゼロッテだ。
エルが訪問して以来、彼女は暇があればよくあの木を見に行っていた。
「自信を持つこと」と彼女に言われたからだろう。
もう花は落ち、瑞々しい葉をたくさんつけた元古木を眺める彼女が笑った気がした。
「ふーん、あの木、復活したのかぁ」
能天気な声がユリウスの背後からかけられる。
一気に脱力したユリウスは、声の主に振り返った。
「たまには玄関から堂々と来たらどうだ……テオ」
「いやー無理無理。かしこまった空気って好きじゃないんだよね」
手をパタパタ振るテオに、ユリウスは躊躇いもなくため息をついた。
「それに、早いところ伝えたくてさ」
テオは彼のそばに歩み寄る。彼の隣の窓に背を預けると、テオは勿体ぶった口調で言った。
「騎士の派遣が決定したよ。早ければ今日の夕にはこちらに着くはずだ」
「そうか……それで?」
特に喜ぶでもなく、冷静に聞き返した彼に、テオは首を傾げた。
「お前がわざわざそれしきのことでここに来るはずがないだろ」
当たり前のように言い放つ彼に、小気味良さを感じたテオはへらりと笑った。
「うんうん、よくわかっていらっしゃる。その派遣される騎士だけど……養成学校の見習い騎士と教官なんだ」
「……」
ユリウスは無言でギロリと彼を睨んだ。
あまりの形相に、テオは慌てたような表情でわざとらしく両手を振る。
「いや、僕を睨まないでくれよ。一応成績優秀な精鋭を送るって話だし、決定したのは……王太子なんだし」
軽い口調の彼をじっと見つめていたユリウスは、視線を逸らし大きくため息をついた。
フリッツが何を思って見習い騎士の派遣を決めたかは想像に難くない。
大方、王都の守りを手薄にしたくない彼が新しい戦力として見習い騎士に目をつけたのだろう。
はたまた亜人など捨ておけ、という次期国王としての意思表示か。
現場としては実践も経験もない足手まといにもなりかねない見習いを派遣されるのはかなり痛手ではあるのだが、それでもいれば少しは役に立つかと思う自分も悲しい。
(人数さえいればなんとかなる、と思われたのかもしれないが……これは流石に、な……)
誰でもいいから殿下に進言するものはいなかったのか、とユリウスは内心頭を抱えた。
「分かってる。辺境の状況を知ろうとしない殿下に正常な決定をしろと言う方が無理だ」
「それ、僕以外の人間が聞いてたら不敬罪って言われるよ?」
「ここにはお前しかいないだろ」
だから別にいい、と息をつく彼を、テオは愉快そうに見つめた。
「で、騎士団長とちょっと話したんだけど、土地勘もない実践経験乏しい彼らに単独の亜人集落警護は難しい。かと言って国境警備なんてもっと無理。だから実力者のバックアップが望める場所を警護することになったんだけど……」
一瞬言い淀んだ彼に、ユリウスは何か嫌な予感がした。
「ユリウス邸及びその周辺集落ってことになっちゃった」
テオは誤魔化すように可愛らしくポーズを取った。
やはり、と対称的にユリウスは肩を落す。
「なっちゃった、じゃない。困る」
「だよねぇ。まだ大人の姿のままって言っても、いつまた子どもになるか分からないんだし、君のバックアップを望むってことは見習い騎士と共闘するってことだからねぇ。僕も一応反対はしたんだけど、団長の決定は絶対だし、客観的に見てもそれがベストだからさ」
テオの軽く、そして的確な言葉に、ユリウスは黙った。
ここ辺境騎士団で、見習い騎士を率いることのできる実力者として数えられるのは団長とユリウス、エルくらいだ。
そのうち、全体の指揮を取る団長は見習いの面倒など到底見れない。
エルはそんな面倒ごとは興味ない、むしろ邪魔だとこき下ろすだろう。そもそも彼女は騎士自体に興味がない。
適任者なのはユリウスだけだ。
自分が団長の立場なら迷わずユリウスにつけるだろう。
(我ながら貧乏くじもいいところだな)
ユリウスは自嘲気味に笑い、腕を組んだ。
「……決まってしまったものは仕方がない。面倒だが」
「さすが太っ腹だねぇ。僕もちょっとは手伝うよ」
珍しく手伝う、などと宣う悪友に、ユリウスは目を見開いた。
テオは相変わらず飄々としており、その表情からは何も読み取れない。
「……何を企んでいる」
「やだなぁ、そんな怖い顔。リーゼロッテさんに嫌われちゃうよ?」
急にリーゼロッテの名前を出されたユリウスは、意表を突かれ小さく呻いた。
それを見てくすくすと笑うテオのすっとぼけた態度に苛立ちを覚えてくる。
「何が言いたい」
若干の怒気を孕んだユリウスの視線から逸らすように、テオは窓の外に視線を向けた。
その先にはリーゼロッテが佇む姿がある。
「……あのさぁ、ユリウス。僕がもし彼女を妻にしたいって言い出したら、君はどうする?」
いつもと同じトーンの彼の言葉に、いつもとは違う言葉の重みを感じたユリウスは苦々しい表情で彼を見つめた。
正直言って、ユリウスはリーゼロッテに対する感情がよくわからない。
好ましいとは思っている。
そばにいてほしいとも思っている。
思ってはいるが、それが使用人や友人に向ける信頼なのか、それとも別の何かなのかまでは判別がつかない。
そして彼の身体を一時的にではあるが、元に戻したのは彼女の力だ。
その彼女への感謝の気持ちと、何か別の生暖かい気持ちとがない混ぜになって、彼は彼女に対して正しい判断がつかない状態だった。
「……それは辺境伯としての私への正式な申し入れか」
押し殺した声で聞くユリウスに、テオは考えるように視線を宙に移す。
「ん? あー……僕個人だよ。今のところは、ね」
「……………そうか」
ユリウスは内心胸を撫で下ろした。
(もしもテオ個人の申し入れではなかったら……なかったら? 差し出すのか? リーゼを?)
そこまで考えて首を軽く振った。
「断る」
「あ、やっぱり? ……ま、でも考えておいてよ。彼女を手放すことをね」
テオは特に傷ついた様子もなく、窓から腰を浮かせた。
そのまま入ってきたであろう出窓の方へすたすたと歩いていく。
出窓に手をかけ、思い出したように振り返った彼は、一言
「彼女は僕と一緒にいた方が幸せになれると思うからさ」
といつも通りの声色と微笑みで言い残すと、外へと消えていった。
開いた窓から強く風が吹き込む。
その風は生温く、雨の匂いがした。