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3.妹君は秘密を抱える

 リーゼロッテの足取りは重い。


 彼女の頭の中はぐるぐると様々な出来事が巡っていた。冤罪のこと、婚約者に見捨てられたこと、滅多にいない父に呼び出されていること、そして──『あのこと』。


 ちょうど十年前、ディートリンデがバラのトゲで怪我をした。


 その頃はまだ、ディートリンデも今のようにリーゼロッテを貶めるような嘘はつかなかった。小さな諍いはありつつもそれなりに仲良く遊べていた。


 大したことはない、と言うディートリンデの手に触れると、ほのかな淡い光とともにその傷が消えた。それを見たディートリンデは驚くよりも先に気味悪がった。


「癒しの魔法……?……嫌! 触らないで!」


 手を振り解かれた七歳のリーゼロッテのショックは凄まじく、ただただ呆然と立ち尽くした。


 ディートリンデが彼女の力を恐れたのは訳がある。


 この国には二つの有名な言い伝えがある。「聖女は聖殿にて国家の繁栄をもたらす」と「二人の癒しの聖女が災いをもたらす」というもの。


 実際に同時期に二人いたことはほとんどないという。


 しかし、二人の聖女が王宮最奥の聖殿に保護されていたとされる時期には、天災や内紛、お家騒動などが頻繁に起き、国は大きなダメージを負った。


 そのため、二人目の癒しの聖女は災いの象徴とされ、聖殿に上げてはならないとされた。第二の聖女と目される人物は、時に迫害なども受けたという。


 当時既に癒しの聖女マリーは王家により保護されており、リーゼロッテは癒しの聖女としては二人目と数えられる。


 二人目がどういう扱いを受けたのか、この頃の二人ですら常識として知っている。


 だからこそ、リーゼロッテは癒しの魔法が発動したことや姉に拒否されたことに衝撃を受け、ディートリンデは災いをもたらす存在に恐れ慄いたのだ。


「……ねぇ、リーゼロッテ。このこと、黙っててあげましょうか?」


 呆然とする彼女に、ディートリンデは今まで見せたことのないような晴れやかな笑みを向ける。瞳の奥の残酷な光に、彼女はまだ気づかない。


「ただし……これから先ずっと、私のいうことを聞いてくれたら、だけど」


 子どもじみた取引に、まだ年端もいかないリーゼロッテは頷く以外の選択肢を持ち合わせていなかった──。










 父のヘンドリックは、自他共に認める野心家だ。


 幼い頃から領地経営学だけでなく、社交場での振る舞いや貴族の駆け引きを学び尽くし、その手腕を伯爵となった今ではいかんなく発揮している。


 利権があれば絡みに行き、権力があれば(おもね)る。


 ハイベルク伯爵家の影響力の拡大が、彼自身の存在価値と自尊心の充足に直結していた。


 公爵家以下伯爵家までの並いる御令嬢の中から、王太子妃の座にディートリンデが推挙されたのも、裏でヘンドリックが手を回していたからだということはリーゼロッテにも容易に想像がついていた。


 特に十三年前、末弟を出産し産後の肥立ちが悪かったリーゼロッテとディートリンデの母を失ってからはそれを忘れるように仕事に打ち込み始め、ナターリエを後妻に迎えてからは彼が家に帰ることも少なくなった。


 今ではよく考えないと父の顔を思い出せないほどにリーゼロッテの記憶はぼやけてきている。血の繋がった親子だというのに、もう何年も家族として会話すらしていない。


 だからこそ、対面するのが恐ろしい。


 息をついたリーゼロッテは意を決して扉をノックした。


「入りなさい」


 返答は短く、低く硬い。


 扉を開け、暖炉の前に立つ父の後ろ姿に緊張が張り詰めた。


 書斎と言っても、家にほとんどいない彼の書斎は本棚にずらりと本が並ぶ以外は殺風景だ。頑強な作りの机の上にはペンと、遠隔地との通信を担う魔法具(すいしょう)しかない。


 ロマンスグレーよろしく葉巻を咥える彼の表情は、リーゼロッテからは見えない。


「……お呼びでしょうか、お父様」


「リーゼロッテ、だな?」


 確かめるような父の口調にリーゼロッテは思い出した。


(お父様、まだ私たちの見分けがつかないのね……)


 彼は双子のどちらかに話す前に、必ずどちらであるかを確認していた。


 いつもならば多忙で家にいないから仕方がないと流せていた。が、今のリーゼロッテにはそんな心の余裕はない。


 未だ双子の見分けのつかない、つけようとしない父に、彼女はほんの少しの悲しみを覚える。


 すぐに返答がなかったことに、ヘンドリックは若干苛ついたようにため息をついた。


「……まあいい。卒業パーティーの件は王室からも聞いた。聖女を傷つけた犯人は不明だ。目撃者は皆、双子のどちらかは分からないと言っていたと聞く。王家も犯人が確定するまでは積極的に処分を下すまい。確実なことは……ハイベルクの人間が主犯であるということだ。その事実だけは看過できん」


 彼は葉巻をひと吸いし、吐き出す。クリーム色の天井に白い煙が広がり、消えた。


「ディートリンデはほとぼりがさめるまでしばらく自宅謹慎。リーゼロッテは辺境伯家の住み込みの奉公人として過ごせ。先方には連絡はついている」


「え…………お、お待ちください! 辺境伯というのは……」


「シュヴァルツシルト辺境伯だ。知らないわけじゃなかろう」


 なんてことはないように言い放つ彼に、この人は何を言っているんだろうとリーゼロッテは絶望した。


 若き辺境伯『白の軍神』の噂は有名だ。噂に疎い彼女すら知っているほどに。


 曰く、奉公人として仕えた男爵家子爵家のご令嬢が十日経たずに追い出された。


 曰く、非常に偏屈な人間で、社交場で一言も声を発さず帰ったことがある。


 曰く、この歳まで一度も婚約していないのは、彼が女性を好まないからだ。


 曰く、幼い頃に両親を亡くし、戦争に駆り出された彼は戦闘狂で、三度の飯より血を見るのが好き、などという物騒な噂さえあった。


 彼の貴族としての振る舞いについて、疑問視する者も少なからずいる。


 だが、彼のもたらした多大なる戦果により、彼が国境周辺の広大な領地を治める辺境伯でいること自体に異を唱える人間は、全くと言っていいほどいなかった。


 しかし彼女が絶望したのは、そんな変人の元で働かなくてはならないことだけではない。


「わ、私には婚約者が……未婚貴族の元へ貴族の娘が奉公人など……しかも住み込みなんて……辺境伯家の花嫁修行と見なされてしまうのでは……?」


 そう、貴族令息や令嬢が奉公人として別の貴族に仕えることは、きょうび珍しいことではない。


 礼儀見習いだけでなく、その屋敷の貴族との顔合わせや婚姻に繋げる側面があった。故に、既に婚約者のいる者は、必要があれば婚約者の邸宅で働くことになる。


 とは言ってもリーゼロッテはまがりなりにも伯爵令嬢だ。


 奉公人などしなくとも一般的な貴族の礼儀は身についているし、彼女が嫁ぐ予定のリデル伯爵家とも七年前に婚約して以来、関係は良好だ。


 ヘンドリックは彼女を一瞥(いちべつ)すると、ああ、そんなことか、と興味がなさそうに葉巻を吸い直す。


「それなら心配する必要はない。ボニファーツ・リデルとの婚約を白紙にすると先ほど打診があった。こちらとしてもリデル家とは揉めたくないのでな」


「は、くし……もしやそれを了承されたと……?」


「そうだ。みなまで言わないとわからないのか?」


 彼の刺のある低音が書斎に響く。リーゼロッテは手足が冷たくなるのを感じたが、同時に妙に納得してしまった。


 婚約者を守ることもせず、卒業パーティーや糾弾(きゅうだん)から早々に逃げ出しただけでなく、その足でリデル伯爵に婚約破棄を申し出る──いかにも彼がやりそうなことだ。


 ボニファーツはお世辞にもいい人間とは言い難い。彼女はそう認識している。


 彼もまたヘンドリックと同じ、権力に(おもね)る人間だ。


 しかし家を大きくする目的を持つ父と違い、彼の場合はその場しのぎで非常に日和見的である。阿ると言うよりも自分より力が上のもの全てに媚びると言った方が正しい。


 しかし、相手の力量の見極めに優れていても、状況判断力や五年、十年先を見越して投資する力が無ければ場当たり的な人間関係はあっさり破滅する。


 もちろんそれらはこれから身についていく力だろうが、将来的に結婚して彼を支える自分が、彼女には想像できないでいた。


 婚約破棄は仕方がないと思う自分もいるが、それを差し引いても、ディートリンデと自分の扱いの差に絶望感を抱かずにはいられない。


 ヘンドリックは葉巻の火を消すと、話は終わりとばかりに紺色のコートを羽織った。一つも無駄のない動きに、彼女の胸に焦りが生じる。


「お、お待ち下さいお父様……!」


「元々彼はお前などには勿体ない相手……今まで懇意にしてもらっただけでも有り難く思うんだな。せいぜい辺境伯に可愛がってもらえ」


「い、いえ、お父様、私の話をお聞きください」


 リーゼロッテは思わず父の腕を掴んだ。


 扉の前の彼女を心底面倒そうに見下ろすヘンドリック。彼の陽のように温かなはずの琥珀色の瞳が、彼女にはひどく冷たいものに見えた。


 彼女は父を引き止めたものの、どう切り出していいかと言い淀んだ。


 唯一、自分にディートリンデ以上の価値を父に示せれば、この状況を覆せる。しかしそんな価値は全てディートリンデの価値に置き換えられているのだ。


 今更それは自分のものだと主張しても信じてもらえないだろう。


 彼女は自分の不器用さを改めて自覚した。


「この期に及んでお父様に弁明なんてしないでね。じゃなきゃ私、誰かに『あのこと』お話ししてしまうかもしれないわ」


 記憶の中のディートリンデが狂気に満ちた瞳で薄笑いを浮かべている。リーゼロッテは正直に話すことも弁明することもできず、ただ閉口するしかなかった。


「……いや、いい。どうせやってない、と言うだけだろう? 犯人が自白する訳がないからな。辺境伯領までは遠い。荷物をまとめて今日中に出立しろ」


「今日中……! 外はもう暗くなっています。そ、それにこの時間では宿も取れません」


「なら野宿でも車内泊でもなんでもしろ。私は忙しい。最後まで私の手を煩わすな」


 早口に(まく)し立てるヘンドリックに取りつく島もない。リーゼロッテの手を振り解くと、ヘンドリックは乱暴に扉を閉めた。


 ──肉親にすら信じてもらえず、婚約破棄の上、偏屈で知られる辺境伯の元に奉公人として送られる。実質的な追放だ。


(ディートリンデとフリッツ様との婚約を維持するために私を罰して対外的に体面を保つ……いくらお父様の考えといえど……いいえ、もう無駄なのだわ。追放は決定事項……)


 ふらふらと自室に戻ると、物が少なかった部屋に物が散乱していた。


 いや、正確には更に物は少なくなっていたのだが、衣服を切り刻んだ大量の切れ端がそこかしこに散らばっていたのだ。


 特に、彼女が大切にしていた友人からの贈り物や、亡き母親の形見はひとつも残されていなかった。


 真新しい服やドレスは全て切り裂かれ、無事だと確認できたものは旅行カバン一つと、少し古くなった普段着の半袖ワンピース、そして誰が置いたのか、つい最近辞めた若い使用人の擦り切れたメイド服だけだった。


 彼女には誰の仕業かは予想がついていた。しかしそんなものはもう、どうでも良かった。


 たとえここで騒いだところで、誰にも信じてもらえないのだから。






 少ない荷物をまとめ、パーティードレスを脱ぎ捨て、家を出る頃にはもう満月が空に昇っていた。


 夜風は身震いするほど冷たいが、何も感じられないほどにリーゼロッテは憔悴していた。


 彼女はただ、誰の見送りもない旅立ちから早く逃れたい、その一心で足早に馬車に乗り込む。


 ガラガラと音を立て、馬車は屋敷から遠ざかる。


 ここにきて、初めて彼女は涙したのだった。






 一度も振り返ることなく馬車に乗り込むリーゼロッテを、自室の窓から覗く者がいる──ディートリンデだ。


 その手には亡き母がリーゼロッテに託したはずの翡翠の指輪が握られていた。


 それをぞんざいにベッドへ投げる。


「……ようやく終わったわ」と呟いた彼女は、興味をなくしたように窓辺から離れた。


 ──しかし、彼女は知らなかった。リーゼロッテが弁明しなかったと同時に、罪を認めもしなかったことを。

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