21.妹君は何を言うべきか迷う
ダクマーが帰った後もしばらく、二人はぴったりと寄り添っていた。
というよりも、ユリウスが腕を離してくれない。
眼光は未だ鋭く、ダクマーが消えた扉を睨み付けている。
「あ、あのっ……ユリウス様……っ」
これ以上は耐えきれない、とリーゼロッテは声を上げた。
微かに身じろぎすると、ユリウスはつい今しがた彼女を抱いていたことに気づいたように慌てて身体を離した。
「す、すまない……!」
「い、いえ……」
二人は距離を取り、顔を背けた。
やっと解放されたリーゼロッテだが、先ほどの出来事の理解がまだ追いついていない。
羽織った軍服から微かにユリウスの匂いが香り、広い胸を思い返しては頬に両手を当てていた。
彼は彼で、なんと大胆なことをしてしまったのか、婚約者候補と主張するにしても隣に立つだけでよかったではないか、と反省していた。
なにより、彼の大きめの軍服を羽織る彼女が存外可愛らしく、つい先日のキスが思い起こされる。
彼は手で口元を隠した。
気まずい沈黙が流れる。
リーゼロッテは掴まされた小箱を見つめた。
黒革貼りされ、所々小さな傷のある小箱は、中の指輪と共に彼女の母が祖母から譲り受けたという。
年季が入ったそれが孫の代まで残るのは珍しい。
母は時折箱を開けては懐かしそうに目を細めていた。もちろんリーゼロッテもそれに倣い、亡き母を思った。
彼女にとってこの指輪は亡き母と繋がれるものであり、一時の安らぎを与えてくれるものであった。
それを、その思いをディートリンデが利用するとは思ってもいなかった。
(……ユリウス様が来てくださらなかったらどうなっていたことか)
幾分か顔の火照りが落ち着いた彼女は、ユリウスの方を盗み見た。
後ろ姿の彼の表情は見えない。
しかし、彼女よりも一回りも二回りも高くなった彼が頼もしく思えた。
──いや、違う。
彼女は小さく首を振った。
魔法が解けず少年の姿のままでも、きっと彼のことを頼もしく思っていた。
ダクマーの言葉に、ディートリンデの計略に絡め取られて諦めかけた。
彼はそれを跳ね除けた。たとえ少年の姿のままでも、彼は臆せずダクマーの懐に切り込んで行ったに違いない。
(強く……なりたい……)
熱く見つめていた彼女は手を握り締め──小箱の固い感触で気付く。
(……あ……お礼しなくては……)
身体の前で小箱を手の中で転がしていた彼女は、意を決して声をかけた。
「「……あ、あのっ……」」
二人はほぼ同時に声をかけた。
一瞬絡み合った視線は外され、再び訪れる沈黙。
「……リーゼ、なんだ?」
「い、いえ、ユリウス様がお先に……」
そうして譲り合うこと数回、観念したユリウスが言いにくそうに口ごもりながら頭を下げた。
「……すまなかった。もう少し早く来れたら辛い思いをさせずに済んだ」
突然の謝罪に、リーゼロッテは慌てて手を横に振った。
「い、いいえ、こちらこそ、当家の使用人が失礼なことを申し上げてしまい、申し訳ございません……」
そう言って、小箱に視線を落とした。
彼女は何から先に彼に言うべきか迷っていた。
成長を止める魔法が解けたことを祝福するべきか。らしくない嘘をつかせて守ってくれたことへの謝罪か。それとも、指輪を取り返してくれたことへの感謝か。
言いたいことがまとまらず、頭の中を駆け巡る。
「おやっ、ユリウス様……とリーゼ?! ど、どうされたんですか?」
リーゼロッテがまごまごしている間に、デボラが騒がしい声を上げた。
ユリウスは再び背を向け、リーゼロッテから距離を取るようにデボラに言葉をかける。
「……少し客人が暴れた。客人は追い出したがリーゼの服に障りが出た」
「なんと……そのような暴漢に気付かず申し訳ございません……その……もう、よろしいのですか?」
「……いい。早くリーゼを」
軍服を羽織ったまま、デボラに抱えられるように控室へ向かう彼女は、振り返った。
一瞬ユリウスと目が合ったような気がしたが、それは彼女の気のせいだったのかもしれない。
それから約一日、やはりユリウスとは全く会えずにいた。こんなことは初めてだ。
メイド服を速攻で直したデボラは、目に見えて気落ちした様子のリーゼロッテに明るく声をかけるが、明らかに無理やり笑っている彼女にやきもきしていた。
今日も食事は自室で食べると言うユリウスにすら内心ハラハラしていた。
二人の間に何があったのかはわからないが、明らかにおかしい様子から何かがあったことは分かる。
そしてその妙な雰囲気の原因も、なんとなくだが答えが出ていた。
ああ、アタシもこんな時期があったのよね、と口元がニヤけそうにもなるが、ずっとこのままはどうにも仕事しづらい。
なんとかしなければ、と考えた彼女は、昼食時にわざとらしく今思い出したかのように切り出した。
「あ! そういえば、そろそろ手芸用の糸がなくなるんだった。リーゼ、食事が終わったら買い出しお願いできるかい?」
「なら俺が行くぞ。塩買うついでに」
「ザシャ、アンタには言ってないよ。アタシゃリーゼに言ってるんだ」
軽くいなされたザシャはぶつくさと文句を言うと、厨房へ引っ込んだ。
デボラがキラキラした瞳で言ってきたことに、リーゼロッテは若干腰が引けた。
「で、でも私、この辺りの地理にあまり詳しくなくて……」
「ああ、リーゼは市内に出るのは初めてだったね。そこは大丈夫。ちゃんと案内人はつくから。なんだったらちょっと見物してきてもいいよ? はいこれお駄賃」
デボラは勝手に話を進めると、「余ったら好きなもの買ってくれていいから。少しは気分転換してきな」とウインクして食器を下げに立ち上がった。
リーゼロッテはあまりに急な決定に呆然としていたが、我に帰った彼女は机に置かれた袋と買い物リストに視線を移した。
袋の中身は、たとえ小銭だらけとしても結構な額になりそうだった。
(気分転換……もしかしてデボラさん、私を励ましてくれようと……?)
声をかけようと顔を上げたが、そこにはもう誰もいなかった。
リーゼロッテは胸にじんわりと広がる暖かさを食事と共に噛み締めていた。
「リーゼ」
身支度を終え、玄関を出たところで、御者兼庭師のイーヴォに声をかけられた。
短く切りそろえられた灰褐色の短髪に、ほどよくシワのある年齢を重ねた顔。そしてその頭にはピンと立った動物の耳と、毛並みの良さそうな灰褐色の尻尾が揺れた。
彼は亜人である。
正確にはオオカミ亜人と人間のハーフなのだが、見た目が完全に亜人なので説明を省くことが多いと、以前自己紹介の時に苦笑していた。
普段は外回りでほとんど顔を合わせない彼だが、こうやって時折会うと気軽に声をかけてくれる。
彼に軽く挨拶すると、「さ、乗って」と馬車の扉を開ける。
栗毛の馬二頭が引く、四人ほど乗れそうなこじんまりとした、しかしそこかしこに銀の装飾がなされたいかにもな貴族の馬車だ。
エスコートをするイーヴォの手を取りながら、リーゼロッテは小首を傾げた。
彼が案内人なのだろうか。
それにしては、仰々しい馬車を買い出しに出すなどどういうことだろう。
疑問に思いながらも馬車に乗り込むとそこには。
「……ユリウス様……?」
同じように目を丸くしたユリウスが乗っていた。