20.妹君は戸惑う
誤字報告ありがとうございます。
訂正いたしました。
「……もう一度聞く。私の屋敷で、何をしている」
階段を降りる硬い靴音が響く。
降りる毎に細い髪束が揺れ、その動きに目を奪われる。
黒の軍服との対比で、彼だけモノクロームの世界に居るような独特の存在感を発している。
リーゼロッテは戸惑いを隠しきれずにいた。
先ほどまでの頭痛はどこへやら、ただ、今は目の前の出来事に頭がついていけない。
特に、ユリウスの身体が元の姿に戻っていることへの困惑が強い。
そもそもあれは本当にユリウスなのか。
しかし白髪に紫水晶のような煌く瞳を持つ人間など、彼女の知るところではたった一人しかいない。
(ユリウス様……お身体がお戻りになられたのだわ……だからお医者様がいらっしゃってたのね……)
彼の姿は、前に見た幻影魔法よりも一段と背が高く中性的な魅力も増していた。
リーゼロッテの目頭が熱くなる。よかった、と胸元に手をやると、肩口に素肌の感触を覚えた。
(そういえば……っ破けてしまって……!)
彼女はダクマーに破かれた肩口を手で隠すと、ユリウスに見えないように身を硬くする。
(こんな姿……見られたらきっとユリウス様に幻滅される……っ)
彼女はぎゅっと目を瞑った。
細い肩口が目に入ったユリウスの眉間に、一瞬深い皺が寄る。
リーゼロッテの様子から辺境伯その人だと感じ取ったダクマーは、小箱を素早く鞄にしまうとその場で恭しく頭を下げた。
「お初にお目にかかります。私、ハイベルク家リーゼロッテ様付きメイド、ダクマー・カウフマンと申します。本日は主人であるリーゼロッテ様に、姉上様からの贈り物を届けに馳せ参じました」
すらすらと口上を述べるダクマーを、ユリウスは表情筋を一切動かさず見つめた。
その瞳から、底冷えするような冷酷さを感じ取ったリーゼロッテは思わず視線を逸らす。
「……そうか。遠路ご苦労であった」
ぽつりと、低く重い声を発したユリウスは口を閉じた。
まるでそれ以上話すつもりもないといったような態度で、ただじっとダクマーを見下ろしている。
リーゼロッテにはそれが無言の圧のように感じた。
(もしや、今のやりとりを見られていた……のでは……)
どこから見ていたのか分からなかったが、確かユリウスのことをダクマーが悪く言っていたはず。
たとえ元といえど、使用人の不祥事は主人の不祥事だ。彼女は謝罪しようと口を開きかけた──が、彼がそれを片手で制する。
彼は横目で小さく微笑むと、再び冷たい視線をダクマーへと向けた。
「……リーゼロッテ様と込み入ったお話がございますので、申し訳ございませんが、辺境伯様に席を外していただきたいのですが……」
「何故、私が席を外す必要がある」
表情ひとつ、声色ひとつ変えず淡々と聞くユリウスに、ダクマーは苛立ったように口を痙攣させた。
「……ですからっ、……ハイベルク家の内情に関わることですので……っ!」
「ならば尚更、私が同席せねばならんな」
「!」
そう言って彼は、片手でリーゼロッテを抱き寄せた。
突然のことに図らずも彼の芳しい匂いを胸いっぱいに吸い込む。
目まぐるしい展開とその匂いに、リーゼロッテはくらりとした。
(なにが……何が起こっているの……?!)
そう思っているのはダクマーも同じらしく、その細く釣り上がった目をこれでもかというほど丸くしている。
「……私は、彼女の婚約者候補なのだから」
彼は慈しむようにリーゼロッテに微笑んだ。
「……こ、婚約者候補……? いいえ、そんなことは……ディートリンデ様からはなにも……!」
目に見えて狼狽だしたダクマーを冷ややかに見ていたユリウスは口を開く。
「……さっきから何を言っている。未婚の貴族令嬢が未婚の私の元に奉公に来ているのだ。婚約者候補であることは明らかだ。いくら没落寸前のカウフマン男爵のご令嬢といえど、奉公人がどういう存在か知らぬわけではあるまい」
自分の身分が知られていると分かるや否や、ダクマーは悔しそうにぐ、と声を洩らした。
その顔は怒りか戸惑いか、それとも羞恥か、湯気が出るほど真っ赤に染まっている。
それを横目に、一旦彼はリーゼロッテを離すと、軍服の上着を脱ぎ、彼女に羽織らせた。
「あ、ありがとうございます……!?」
彼女が礼を言い切るか言い切らないかというところで、再び彼女をしっかりと、腕の中に閉じ込めた。
「で、ですが、いくら婚約者候補といえどハイベルク家の内情を話すなど……! それにその者は……罪人ですよ!?」
動揺して言葉を選ぶことも忘れたダクマーに、ユリウスは不愉快そうに眉頭を歪める。
「それがどうした痴れ者め」
険のある低い声がホールに響き渡る。
「貴族の端くれならば知っているであろう。奉公人とは本来、婚約を予定する男女の情報開示のためにある。ハイベルク家はただでさえ聖女迫害の罪状を突きつけられている状況だ。私がリーゼロッテに関する全ての情報開示を求めるのは当たり前のことだろう」
吐き捨てるように言うと、彼はリーゼロッテを抱く力を少し強めた。
「……それに私は、彼女が罪人であるはずがないと確信している。むしろ自らの主人を罪人などと宣う貴様の方が信用ならない。尚更同席する理由ができた」
彼女の心臓は早鐘を打ち、激しく暴れ回る。
もはや何を中心に驚き、困惑し、ハラハラすればいいのか分からない。
あの取り繕うのが得意なダクマーが、ユリウスの弁に手も足も出ないことが霞むほどの衝撃的なことばかりが起こっている。
彼が言うことは正論ではあるが、それは正しい意味での奉公人であればこそだ。
追放者であるリーゼロッテが婚約者候補、ましてや婚約などあり得ない──彼女もダクマーも、いやハイベルク家全員がそう思っていたのだが、追放先の辺境伯が違うと言う。
ダクマーは混乱し、目を白黒させていた。
もしここで、正直に「リーゼロッテを脅していた」と言ってしまえばその場で物理的に首が飛ぶ。
厳しい戦場を潜り抜けた歴戦の軍神で、国一番の偏屈という噂の彼が、本当に彼女と婚約しようと思っているなら、たかが没落貴族が使用人に生ませた娘など問答無用で斬り捨てるだろう。
しかし聖女迫害の疑いをかけられた者と好き好んで婚約するような輩がいるだろうか。
辺境伯の地位は高い。
この国では侯爵家にも匹敵し、特に功績の多いユリウスは公爵家とも引けを取らないとも噂される。
数々の噂も謎多き彼への畏怖の念があればこそだ。
そんな人物が罪人と婚約など、自らの地位を捨てるようなことをするとは思えない。
かと言って、その場で適当な嘘を取り繕っても見逃してくれそうなほど、生優しい男にも見えなかった。
とんでもない男に気に入られている……、とダクマーは段々、リーゼロッテの底知れぬ人間性に恐怖心を持ち始めていた。
一方、そんな感想を持たれているとは思っていないリーゼロッテは、必死にユリウスの言動の理由を考えていた。
(もしかして……ユリウス様は私を助けてくださろうと嘘を……?)
彼の顔を見上げると、その意思の強そうな顎のラインが目に入る。
中性的な顔立ちだが、逞しい腕に否が応でも男性だと認識せざるを得ない。
今更ながら、リーゼロッテは恥ずかしくなり、頬を紅潮させた。
「……姉上様からの贈り物の件です。辺境伯のお手を煩わせるほどの大した話ではございません」
絞り出すような震え声に、ユリウスはやはり無表情で応じる。
「大した話ではないなら、私が立ち会っても大したことはないだろう。話せ」
彼は頑として譲らない。
ダクマーは唇を噛んだ。
平静を装うことすらできない彼女はわなわなと震えている。汗は滴り、頻繁に目を瞑っていた。
彼女は今、様々な謀略を張り巡らそうとしているが、目の前の殺気立つ男がそうさせてくれない。
やがて観念したように
「……こちらを姉上様が渡すようにと」
と、鞄から再び小箱を取り出した。
「そうか。なら早く渡せ」
「……は……?……いや、でも」
「それを渡すことが与えられた任務なら正しく遂行しろ。……それとも」
ユリウスは一旦区切ると、声をさらに低く、語気を強めた。
「……何かそれ以外にあるのか。与えられた任務が」
彼の眼光は研ぎ澄まされた刃のように鋭く、それをまともに受けたダクマーは尻餅をつくほどに恐れ慄いた。
「……ひっ……な、なんでもありませんっ。こちら……こちらを渡すだけです……っ」
真っ青の顔の彼女は、リーゼロッテの元に這うように近寄り、小箱を手に握らせると、「も、申し訳、ございませんでした……っ失礼いたします……!」と転げるように去っていった。