18.妹君は気付いてしまった
結局、彼女が身体を起こせるようになったのはエルが訪問した翌日の朝だった。
急激な喉の渇きを覚えた彼女は、うっすらと目を開けた。
よく考えたら丸二日、ほとんど水分を取れていない。
食堂にほど近いこの部屋には、微かにパンの焼けるいい匂いが漂っている。
(朝……ザシャさんがパンを焼いてる時間……)
再び目を閉じ寝返りを打とうとして──。
「……寝坊だわ!」
彼女は勢いよく起き上がった。
身支度をしようとベッドから降りる。昨日まで寝込んでいたことが嘘のように、体が軽い。
頭はまだほんの少し痛むが、横になるほどのものでもない。
髪をいつものように結おうとして、ふと手が止まる。
『そのままがいい』。
ユリウスの言葉を思い出してどきりとした。
下がったと思った体温が、少しずつ上がっていくのが分かる。
(ユリウス様がおっしゃるんだから……)
彼女は髪をハーフアップにまとめた。
髪留めはデボラからもらった木彫り細工のものだ。古めかしいが、温かい感じがしてリーゼロッテは気に入っている。
食事の支度に食堂へ向かうと、ちょうど洗濯物を運ぶ最中のデボラに出会った。
「あら、もう良いのかい?」
快活な笑顔を浮かべ、彼女は話しかけてきた。
「はい、おかげさまで。あの、お医者様にも来ていただいたようで」
「ああ、それなら気にしなくて良いよ。エルメンガルト様はユリウス様の主治医でもあるから、ついでにね」
デボラの言葉に、リーゼロッテは顔色を変えた。
「もしかして、ユリウス様のお加減は悪いのですか?」
食ってかかるように問う彼女に、デボラは困ったように首を横に激しく振った。
「ええと、そうじゃないんだよ。ええと……そう、定期健診って言ってたかね? 特別悪いところはないけど、いつも来てもらっているんだ。リーゼはそのついでに、ね?」
歯切れの悪い言葉が出る。デボラが言い淀むなど珍しい、とリーゼロッテは違和感を覚えた。
納得できたようなできてないような、どこか解せない気持ちで頷いてみると、「じゃあ、アタシはこれで! はぁー忙しい忙しい」とわざとらしく声に出しながら、デボラはそそくさと洗濯場へ消えていった。
(どうしたのかしら、デボラさん。お洗濯は朝食の後なのに……)
リーゼロッテの違和感は続く。
二日ぶりに朝食の準備をしたが、ユリウスがまたも姿を見せなかった。
(もしや、また倒れられたのでは……)
ほんの数日前の出来事が、彼女の脳裏をかすめる。不安になって皆にそう訴えると、一様に困惑顔だ。
「り、リーゼは座っておきなよ。アタシが見に行ってくるから」
「そ、そうそう、病み上がりで非力のあんたはやめとけ」
「………………リーゼ、おすわり」
三人から引き止められ、無視してユリウスの部屋に向かうわけにもいかない。
しばらくして、様子を見に行ったデボラが戻ってきた。一人だ。
「あの……」
「あ、あー……しばらくユリウス様、ちょっとお忙しいみたいだから部屋で食事食べるってさ」
不自然に視線を逸らすデボラに、釈然としない思いを抱えるリーゼロッテであった。
その後もユリウスとは会うことは叶わず、彼の部屋に近寄る用事もなかった。
というより、ユリウスの部屋に立ち入るような用事は、他の使用人たちが全てこなしてしまうのだ。
(なんだか皆さん、ソワソワしていらっしゃるような……)
リーゼロッテは少し気落ちした。
もしかしたら自分を避けるためにユリウスが使用人たちに命じているのかもしれない。そうでなくては不自然すぎる。
だがなんのために──。
「………………リーゼ、お客」
「きゃっ」
突然背後から声をかけられ、リーゼロッテは飛び退いた。
振り返るとロルフがいつも通りの覇気のない表情で佇んでいた。
(お、驚いた……)
普段から大人しい彼は、存在感が薄い。というよりも気配がない。
背後に立たれても気付かないほどなので、こうして驚かされることが度々あった。
「あ、ありがとうございます。ロルフ君」
「………………ん。玄関」
口の端をほんの少し上げてそう言うと、彼は音もなく去っていった。
(ロルフ君って不思議な子……だけど私にお客様って……誰かしら)
玄関へ向かう道すがら、彼女は首を傾げた。
追放されて以来、リーゼロッテを訪ねてくる友人などいなかった。そもそもここに追放されたということも広く知られていない。
ということはハイベルク家か、リデル家か、──王家。
彼女の喉がごくりと音を立てた。
(もしかしたら、証拠が見つかったのかも……冤罪だと証明できたのかもしれないわ……)
そこまで考えてリーゼロッテは立ち止まった。
冤罪だと証明されるということはつまり──。
(ここを……去らなければならないということ……)
リーゼロッテはかぶりを振った。
(いけない、そもそもお客様は王家の方じゃないかもしれないわ。証拠なんてそうそう出てこないでしょうし……)
歩みを進めながら、彼女は必死に気付いてしまった思いに蓋をした。