110.お姉様は消えた
リーゼロッテは国王の前、ちょうどユリウスの隣まで歩み寄るとその場に跪いた。
これまで、国王の前にこうして跪いたことなど一度きりだ。
奇しくもフリッツとディートリンデの婚約が決まった直後、それを祝う舞踏会が開かれた時以来だ。
その時は饒舌な父の横で何も粗相をしませんように、と緊張と怯えで一言も喋れなかった。
国王はテオとよく似た、目尻の垂れた穏やかな表情をリーゼロッテに向ける。
ここ最近見続けた顔と似ているからか、幾分か解けた緊張に彼女は落ち着いた声を出した。
「まず……陛下、ご快癒したてのところ申し訳ございませんが……一つ、私の要望を聞いていただけませんでしょうか?」
「……よろしい、申してみよ」
ゆっくりと頷いた国王に、リーゼロッテは顔を上げ、硬い表情を彼に見せる。
「時の魔力を一度……私自身のために使うことをお許しいただけませんか?」
「リーゼ……?」
リーゼロッテのただならぬ表情に、ユリウスは眉を顰めた。
彼だけではない。
他の者も皆、リーゼロッテらしからぬ言葉に戸惑いを隠しきれない。
「……どういうことだ?」
「……その……話がかなり長くなってしまう上、皆さんの賛同が得られないとできないことなので、皆さんにご説明をさせていただきたいのですが……」
口籠るリーゼロッテを、確かハイベルク家の次女だったか、と国王はまじまじと見つめた。
彼がたった一度、彼女と見えた時に抱いた印象は、どこにでもいる貴族令嬢だ。
双子の姉は同じ顔でも派手な印象だが、リーゼロッテは地に足がついている。
そういう意味でも、どこにでもいる控えめな令嬢だった。
その彼女が自分のために特殊な魔力を使いたいと言っている。
真意を測りかね、国王はその横にいるユリウスに視線を向けた。
『直感』のある彼ならば、少なくとも彼女が信用に値する人間か、その重要な一点だけは分かる。
しかしユリウスと視線が交わることはなかった。
彼女を気遣うように見つめる視線は深い愛情に満ち、何も知らない国王ですら彼らが特別な関係なのだということがすぐに分かるほどだ。
『直感』を持つ彼が選ぶほどの女性ならば、おそらくは大丈夫だろう。
──しかし、あのユリウスがあんな顔をするようになるとは、と、国王は思わず苦笑しかけた頬を引き締める。
しかめっ面の国王を考えあぐねていると受け取ったのか、テオが口を開いた。
「父上、彼女は父上を助けた功労者の一人です。褒美として願いを叶えさせていただけませんか?」
「テオドール…………」
「私からもお願い致しますわ。リーゼロッテ様のお人柄は私が保証いたします。彼女は決して悪事に力を利用する方ではございませんわ」
「クリスタ……分かった。ただし、許可は詳しい話を聞いてからだ」
「ありがとうございます」
リーゼロッテは再び頭を下げた。
そしてテオの横にいる退屈そうに腕組みをしていたディートリンデに視線を移す。
「あの……お姉様」
「……私はあんたの姉さんじゃないわよ」
吐き捨てるように言うと、ディートリンデは気まずそうに顔を逸らした。
彼女はずっと、リーゼロッテに全てをなすりつけて楽に生きてきた。
その結果がこれだ。
リーゼロッテは時の聖女として味方に恵まれ、ディートリンデは全てを失い牢獄に入れられた。
今更どんな顔をして彼女に向き合えばいいのか、ディートリンデには分からない。
しかしリーゼロッテは、彼女との距離を伺うように歩み寄ると優しく語りかけた。
「……分かっています。貴女は……どなたですか?」
リーゼロッテはディートリンデの意識──もっと言えば魂が違うことを確信していた。
急に炎の魔力が失われたディートリンデと、自らの中にいつの間にかあった炎の魔力、そして『生きたままとなると魂が入れ替わるくらいまで変質しない限りは無理じゃな』とエルは言った。
そこから考えるに、ディートリンデの身体には魔力のない魂が入っているのではなかろうか。
そして──。
リーゼロッテの真剣な眼差しに気づいたのか、ディートリンデは小さくため息をついた。
「…………………誰でもないわ。ただの、死んだ女よ」
一口にそう言うと、彼女は威嚇するように声を荒げ始める。
もはやリーゼロッテと親睦を深めようなどと思っていない。
だからこそ、純朴そうな顔をして近づいてくる彼女が煩わしかった。
「それで? 死んだ女に何の用よ? まさか本当の姉はどこだとか騒ぎ立てるんじゃないでしょうね?」
いつもならばこう言えば、リーゼロッテは縮こまって口を噤む──はずだった。
しかし彼女は怯えなど微塵もなく、むしろどこか思い詰めた様子で口を開いた。
「……お姉様の……ディートリンデの魂は私の中にいます」
「……思い出ってやつ? おめでたい話ね」
「いえ……おそらく……いいえ、確実に私の中にいます」
「………」
断言するリーゼロッテに、ディートリンデはもう何の皮肉も出てこない。
妹が何を考えているのか、ディートリンデとして何年も一緒に過ごし、虐め尽くした彼女はうっすらと理解し始めていた。
それと同時に、なんであんたがそんなことまでしなきゃならないのよ、と何故か苛立たしい気持ちになったのもまた事実だ。
自分のため、と言いながらどうしてディートリンデにそこまでしようとするのか、彼女には理解ができない──いや、したくない。
理解をしたらその時点で、許されたくなってしまう。
それだけは嫌だ、とばかりに彼女は首を振った。
「貴女がその身体に宿ったのはいつですか?」
「……今更言ったところで……」
「四歳、だよね? お母上が亡くなった頃だと聞いているよ?」
ぶつぶつと口の中で呟いていると、テオが口を挟む。
「ちょっと! 勝手に言わないでよ!」
「ごめんごめん、でも彼女の話も聞いてあげて? 君のことをずっと、本当のお姉さんだと思ってたんだから」
「…………何よ」
悪戯っぽく笑うテオに毒気を抜かれ、ディートリンデはトーンダウンした。
彼に言われるまでもなく、彼女に申し訳ないと思う気持ちは少なからずある。
素直にそれを認めたとして、リーゼロッテはそれを受け入れるだろう。
しかし、今更受け入れられたところで、とディートリンデは彼女から視線を逸らした。
「その……私の中のディートリンデの魂はもう、弱り切ってしまって……私は彼女を元に戻したい……ですが、お姉様……貴女にもまた、ディートリンデとして生きてこられています。貴女のご意志をちゃんと、聞いておきたいのです」
「……意志……」
リーゼロッテの言葉を噛みしめるように反芻する。
「フリッツ様に暗殺を持ちかけられた時に少し……考えました。もしかしたら、時の魔力でお姉様の身体を……貴女が来る前に戻したら、ディートリンデの魂も元に戻るかもしれない。貴女の魂も元の場所に戻ることができるかもしれない、と」
「……確証は?」
「確証はありません。もしかしたら戻るかもしれないし、戻らないかもしれない……二人ともダメかもしれないし、そのままかもしれない」
「………………」
「ですが……私は、お姉様を助けたい。烏滸がましい考えかもしれませんが……助けたいのです……」
言い連ねるリーゼロッテの瞳に、うっすらと涙が溜まり始めた。
極論を言えば、彼女はディートリンデに死ねと言っているようなものだ。
あれだけ虐め抜いたらそう言われても仕方がない。
ディートリンデは覚悟していた。
しかし、憎いはずの自分の意思を確認すると言う。
お人好しもここまで来ると馬鹿だ大馬鹿だ、とディートリンデは涙を堪えるリーゼロッテを呆れた表情で見つめた。
「…………あんたってホント………」
「……お姉様……」
「だからお姉様じゃないってば。あー……もういいわ。分かったわよ。やるわよ」
ディートリンデの半ばヤケクソ気味の言葉に、リーゼロッテは目を丸くした。
「よ、よろしいのですか……?!」
「ちょっと、自分で言っといて驚かないでくれる? どうせここで拒否したとしても何処かで野垂れ死ぬだけだし。それなら今死んだところで何も変わりゃしないわ。でしょう?」
ディートリンデは隣で鎖を持つテオに同意を求めた。
牢獄の中で彼に『死刑のタイミングはテオが決めろ』と約束させた手前、お伺いは立てるべきだろう。
彼もそれを理解してか、「まぁそれはそうなんだけどね」と肩をすくめた。
話はまとまりかけた、と誰もが思いかけたその時、黙って話を聞いていたエルが、広げた扇子で口元を隠しながら口を開く。
「リーゼロッテ、一つ申しておくが、この娘の身体の時を戻せば、この娘の魂は元の流れに戻るかもしれぬ。しかし、姉君の魂はお主の身体に定着しているようなもの……簡単には戻らぬぞ?」
エルの言葉に、皆が視線を落とす。
しかし、リーゼロッテは違った。
真っ直ぐにエルを見つめ、そして皆を見渡した。
「……はい。ですので……皆さん、協力していただけませんか?」
彼女はその場の一人一人に視線を合わせる。
深海色の瞳が、暗い部屋の中でも強く輝いているようにディートリンデには眩しく見えた。
「私は魔力を放出しつつ、ディートリンデの魂にも働きかけます。皆さんは私への魔力供給と、放出された魔力をお姉様の身体に向けられるように制御していただきたいのです」
「ええと……それってかなり危険そうに聞こえるんだけど……」
ディートリンデの声に、リーゼロッテは僅かに頷いた。
「正直、暴走と同じような状況になると思うのでかなり危険だと思います」
「えええ……大丈夫なのそれ……まぁ別に私は死んでもいいんだけど……」
ディートリンデは周囲を見る。
皆、考え込むように下を向いていて、誰一人として視線など合いはしない。
経験はないが、通常の魔力暴走に巻き込まれた者の話では、そこかしこから強い属性魔法を撃たれ、集中砲火を浴びているような感覚だったと聞いて震え上がったものだ。
それが対象の時を操る魔力となると、その被害は未知数だろう。
それこそ死人が出る騒ぎになるかもしれない。
流石に誰もやりたがらないわよね、とディートリンデはため息をつきかけた──が。
「ふむ、なら妾は暴走魔力が外に漏れぬよう結界でも張ろうかの」
エルは妖艶な笑みを扇子で隠しながら小さく手を上げた。
「私は魔力供給をしよう。テオも手伝え」
ユリウスもまた、力強く頷くとテオを呼ぶ。
「いやここはユリウスが制御する役でしょ。何度も制御してきたんだし」
口ではそう言いつつ、テオもまた暗にやる気をみせている。
「……聖女の魔力を制御するなら、私よりも適任は他にある。それに、どれだけの魔力が必要になるか分からん」
「ユリウスの言う通りじゃ。供給量は多いに越したことはない。この中で一番魔力量が多いのはユリウスじゃからの」
そう言うと二人は、奥の方で所在なさげに佇んでいた彼女に視線を向ける。
「……手伝っていただけませんか? マリー様」
リーゼロッテは彼女──マリーに声をかけた。
マリーは考え込むようにリーゼロッテとディートリンデを交互に見やると、やがて
「……わかりました」
と確かに頷いた。
「話はまとまったかえ? さて国王、よろしいか?」
エルは床に黒い紋様を浮かび上がらせると、最後の仕上げとばかりに国王に声をかける。
沈黙を貫いていた彼は、深いため息をつくと、重々しく頷いた。
「……相分かった。しかし余は残念だが協力はできそうにない」
「陛下はまだ本調子ではございませんもの。仕方ありませんわ」
「あ、クリスタ、君は陛下に付き添ってあげて」
思い出したようにテオがクリスタに釘を刺すと、彼女は慌てたように振り向いた。
「な、何故ですの?」
「君の継承順位はフリッツの次だ。未来の王太女に危険なことはさせられないよ」
「……除け者ですのね……」
明らかに肩を落とすクリスタに、テオは呆れたような笑みを浮かべた。
「まさか。国を第一に考えて行動するのも王族の仕事だからね」
「…………分かりましたわ。お兄様がそうおっしゃるなら、陛下は私にお任せあれ」
表情を引き締め、背筋を伸ばした彼女は、国王と魔力のないデボラとともに通路の奥へと消えた。
それを皮切りに、エルは結界を発動させる。
テオはディートリンデの首の鎖を外すと、自らのマントを彼女に着せた。
「成功した時に流石に囚人服だけじゃ可哀想だからね」
と、ウインクする彼をディートリンデは片手であしらうと、リーゼロッテに向き直る。
まるで鏡のように向かい合った二人は視線をしっかりと交わらせた。
思えばこんなふうに見つめあったことなどないのではないか、と二人はそれぞれ思っていた。
リーゼロッテの背後にはユリウスをはじめ、テオやエル、マリーが控えている。
対してディートリンデのそばには誰もいない。
彼女は急に自身の孤独を自覚し、改めてこの世界で自分が成したことの無意味さと無駄を後悔した。
「私は謝らないから」
腕を組み、精一杯ふんぞり返ったディートリンデはきっぱりと言い放った。
謝ったところでリーゼロッテが本来過ごすはずだった時間は戻ってこない。
たかだか死に際の自己満足のために、無駄な時間と労力を負わせるくらいなら、時の魔力に集中してもらいたかった。
不思議そうな表情のリーゼロッテに、ディートリンデはなおも続ける。
「あんたのことなんて大っ嫌いだったから。だからあんたも私のことなんかさっさと忘れなさいよね!」
つん、と彼女が顔を背けると、一瞬の間の後、リーゼロッテは温かな笑みを浮かべた。
「……忘れません。貴女がいなかったら、私は今の私になれなかったから」
心の底からそう思っているのだろう。
この世界の異物でしかない自分を忘れないでくれると言う彼女の言葉が、ディートリンデの心に染み渡るように響く。
得るものなど何もなかった第二の人生だと思っていたが、最後の最後に得難いものをもらったようで、面映ゆい思いに小さく悶える。
彼女は一瞬笑みを浮かべかけ、しかし首をふるふると横に振ると絆されまいと眉間に皺を寄せた。
「……ふんっ。ホントあんたっておめでたいわね! そういうところよ! ちょっとあんた、この子危なっかしいんだからちゃんと見ててやりなさいよ!?」
「言われずとも」
リーゼロッテの横にいるユリウスを指さすと、彼は即答で彼女の肩を抱き寄せる。
見つめ合い、仲睦まじく微笑む彼らを流石に直視するのが恥ずかしくなり、ディートリンデはテオに矛先を向けた。
「そこの王子も! 悪巧みは程々にしなさいよ!」
「あはは。君はよく分かってるねぇ」
軽く笑う彼の横に、マリーが困惑気味にディートリンデの顔色を伺っている。
あんたにも謝らないわよ、と口には出さず首を振ると、マリーは一瞬の逡巡ののち小さく頷いた。
「では……いきます」
リーゼロッテの声を合図に、エルの結界が部屋全体を覆う。
金色の魔力が徐々に彼女から漏れ、眩い光に包まれたディートリンデは、その輝きに目を閉じた──。
懐かしい温室が見える。
いつもの白いモヤが少しも見えないのは時の魔力の影響か。
さまざまな種類の植物に囲まれた白いテーブルと椅子、その椅子に、ちょこんと座る小さな影──幼いディートリンデだ。
「リーゼちゃん」
彼女は宙を仰ぐ。
どうやらリーゼロッテは浮いているらしい。
手足があるはずの部分を見ても何も見えず、慣れない浮遊感に戸惑う。
幼いディートリンデはくすり、と笑う。
「たぶんね、いつもわたしがよんでたんだけど、きょうはリーゼちゃんからきてくれたから、からだがよういできなかったのかも」
そういうものなのか、とリーゼロッテは納得すると、見えているかどうか分からないがディートリンデに手を伸ばした。
「……ディートリンデさん、帰りましょう」
「……でも、わたしのおうちは……」
「ここは貴女の家では……ありません」
首を振ったリーゼロッテは両手を伸ばす。
それでも幼いディートリンデは躊躇うように手をまごつかせた。
「……でもあのひとが……」
「もう帰られるみたいです。大丈夫。私が一緒に家まで付き添います」
少しでも勇気付けようと笑顔を作る。
不安げに俯いたディートリンデは、やがて意を決したようにリーゼロッテがいる辺りを見上げた。
「……うん、わかった」
両手を伸ばす。
見えない両手が、彼女の小さな両手を掴むと、たちどころに金色の魔力が流れ込んだ。
おびただしい量のそれに、リーゼロッテは彼女を見失う。
掴んだ手を必死に離すまいと力を込めると、
「リーゼちゃん、ありがとう」
と気を失いそうなほど強い光の中で、確かに聞こえた気がした──。
リーゼロッテはゆっくりと目を開けた。
途中で意識を失ったのか、崩れるように倒れた彼女を支えたのだろう。
目の前にはユリウスの心配そうな顔が覗き、身体を支える彼の温もりが包む。
幸せな目覚めをもう一度噛み締めたくて、目を閉じかけた彼女は倒れるまでの経緯を思い出し、慌てて体を起こした。
ディートリンデがいたあたりに目をやり──息をつく。
そこにはテオの黒いマントにくるまり、すやすやと眠る幼いディートリンデがいた。