11.妹君は二つの火をつけた
ユリウスは落ちかけの夕陽をベッドから眺めていた。
そろそろ夕食の時間だが、ロルフの交代要員であるリーゼロッテは一向に姿を現さない。
(……まさか逃亡……か? いや、そんなことはないだろう)
今まで奉公人を悉く追い出したユリウスだが、ごく稀に逃亡する者もいた。
大抵はいなくなったことに気付かないほど彼は奉公人たちに興味を持たなかったが、リーゼロッテに関しては違う。
(彼女は監視下にある。逃げようと思っても無理だ。それに……)
ユリウスは目を瞑った。
彼女はそんなことはしない。
彼の『直感』がそう告げていた。
控えめのノックが響く。彼は「入れ」と短く言葉を発した。
入ってきたのはトレイを持ったリーゼロッテとザシャだ。
緊張した面持ちの彼女はいいとして、ザシャがこの部屋に来るのは珍しい。ユリウスは眉をひそめた。
「遅れてしまい申し訳ございません」
「いや、いい。……それは何だ」
「お食事でございます」
さも当然のように答える彼女に、彼はさらに眉頭を歪める。
(言っておいたはずなのだが……どういうことだ?)
ザシャの方に視線をやると、彼は深く頷いた。頬に一筋の汗が見えたのは気のせいではないだろう。
(ザシャが許可した、ということか。なるほど)
ユリウスはすぐ思い当たった。
母が残した例のレシピにリーゼロッテが挑戦した。そのジャッジをユリウスに下せということだろう、と。
「ここに」
「かしこまりました」
しずしずとベッドサイドに歩み寄るリーゼロッテの表情は穏やかだ。
深海色の瞳には、いつものような戸惑いや諦めは見られない。上品な所作で食事の準備が進められる。
テーブルにことり、と置かれた小鍋からは何ともいい匂いが漂ってきた。
「……一つ聞くが」
「……はい」
リーゼロッテは両手を身体の前で組んだ。
先ほどまでの堂々とした彼女はどこへやら、上目遣いでおどおどとユリウスを見つめた。
「……リーゼが作ったのだな?」
「はい……」
「検食は済んでいます。調理中ずっと見ていましたが、変なものは入っていないかと」
ザシャが間髪入れず口を開いた。ユリウスは静かに頷くと小鍋に視線を移した。
「……わかった。先に言っておくが、食べられなかったら申し訳ない」
「い、いえ、そんな。これは私の我儘なので、ダメでしたら遠慮なくおっしゃってください……」
消え入る様な声で礼をした彼女は一歩下がろうとしたが、ザシャにそれを止められた。
彼の視線は「逃げるな」と物語っている。
リーゼロッテは息を吐くと、顔を上げた。意を決して小鍋の蓋を開ける。
(……これは……)
一見何の変哲もない粥だが、開けた瞬間から粥独特の甘い匂いに加え、ほんの少し爽やかな香りが香る。
そのほんの少し香る匂いにユリウスは覚えがあった。
誰かの喉が鳴る。ユリウスは「一口、食べさせてもらえないか?」とリーゼロッテに乞うた。
「は、はい」
彼女はスプーンで粥をひと掬いすると、それを彼の口元に運んだ。震える片手をもう片方の手で支えながら、だが。
ゆっくりとそれを口に含む。噛むごとに素朴な甘さが広がり、時折青い香りが鼻を抜けた。
「……どう、でしょうか……?」
「……」
無言で目を閉じたユリウスに、彼女は緊張気味に声をかけた。
やがて瞳を開けた彼は、彼女に向き直る。紫電の瞳が鋭く光った。
「……一つ聞く。このレシピをどこで?」
「しょ、書室で偶然発見して……勝手ながら拝見させていただきました。ハイベルクの領地の一部で作られていたものと似ていたので、今回はそちらのレシピを参考にしております」
「……」
思わず縮み上がりそうになりながらも、ユリウスの見定める様な視線を一身に受け止める。
しばらく無言の時が流れたが、先に視線を逸らしたのはユリウスだった。
「……これ、だ」
「あの……」
「母の粥だ。似てる、ではなく、そのものだろう」
ぽつりと呟いたユリウスは懐かしさから目を細めた。
その愛でる様な泣きそうな表情に、リーゼロッテは思わず見惚れた。
(何度やっても再現できなかったものを、ここに来て間もないご令嬢がな……しかもご丁寧にあのレシピノートまで発掘するとは……)
レシピノートを書架の上に置いたのは他でもないユリウスだ。
読もうと手に取るが、母の優しく柔らかい文字を見るとどうしてもページをめくれない。
いつしか彼は、辛い記憶を押し込めるように誰にも見つからないであろう書架の上に載せた。
それをリーゼロッテが発見し、いとも簡単に再現するとは想像もしていなかった。
(まいったな……)
予想と違う、むしろ予想を遥かに上回ってくれる、と、ユリウスは驚きと同時にどこかむず痒く、温かい気持ちがせり上がってくるのを感じた。
ユリウスに少しずつ流し込むように食べさせている間、リーゼロッテはずっと考えていた。
(もしかしたら……書室で見たお母様は、レシピに書いてない最後の部分を伝えようとしていたのかもしれないわ)
貴婦人を包む金の光が若干気になったが、魂だけの存在は光るのかもしれない。彼女は自分をそう納得させた。
彼女はユリウスの穏やかな表情を見つめながら、今度書室を掃除するときは彼の母が好きだった花を飾ろう、と密かに決めたのだった。
「失礼いたしました」
ユリウスの部屋を出たザシャはちらりと、その横を歩く人物に目を向けた。
自分と同い年でありながら聖女迫害の疑いをかけられ、伯爵家を追い出されたその人物、リーゼロッテだ。
ザシャよりもひとまわりふたまわりも低い背の彼女は、上機嫌なのか頬に少し赤みが差し、口元が緩んでいる。
(なんだこいつ。変な奴)
最初の印象は貴族令嬢の割に偉ぶるところはないが、自信なさげで暗い人物だと思っていた。
どうせさっさと追い出されるに違いない、仲良くするだけ損だとこれまでの例から嫌というほど学んでいた彼は、徹底的に彼女を無視した。
前評判から言ってもロクな人間ではないだろう──彼はそう思っていた。
しかし、実際の彼女は健気にもユリウスに尽くしている。デボラに至っては息子のザシャ以上に可愛がっている様に見えた。
(あんな作り方初めて見た。まさか最後に薬草の茎を入れるなんて)
彼女が選択した薬草は、ほっそりとした茎が特徴の一年中生えている野草だった。
そのためよく料理に使うが、葉の部分の青臭さからじっくり熱を通す以外調理法はないと思っていた。
「茎は臭みが少ないのです。これを細かく切って火から下ろした鍋に入れて余熱で火を通します。これである程度、食感と薬草特有の爽やかな香りが付きます」
彼女は鍋から目を離さずに説明した。
その手際は悪くもなく、普通だ。
一般的に、貴族令嬢は料理をしない。幼い頃よく母親と料理をしていただけと聞いて驚いたくらいだ。
(なーんか、貴族っぽくないんだよなぁ……)
ユリウスが完食した小鍋を見て、料理人としてのプライドがほんの少し傷ついた。嫉妬さえした。
なぜユリウスの母が三日も離れた領地のマイナーな粥を知っていたのか、なぜその作り方をリーゼロッテがピンポイントで知っていたのか、疑問は諸々浮かぶがそれはもうどうでも良かった。
彼もまた、ユリウスに食事を取って貰いたいと願っていたからこそ、それを実現できた彼女が羨ましく感じている。
それと同時に彼女という存在に初めて興味が生まれていた。
これまでの令嬢と違うことは分かる。
しかし他の令嬢と一体何が違うのか、彼には良い言葉が見つからない。
「なあ、なんでそんな嬉しそうなんだ?」
思わず疑問が口をついて出た。少し目を見開いたリーゼロッテがザシャを見上げる。
「私は……ユリウス様の奉公人ですから、ユリウス様がお食事を召し上がられて嬉しく思っています」
まるで当然だと言わんばかりの表情で返され、一瞬毒気を抜かれる。
頭をぽりぽりとかいたザシャは、彼女から視線を外した。
「いや……普通、嫌、じゃねぇの? 自分だって貴族だろ? なんでそんな一生懸命なんだよ」
彼女は視線を泳がせた。先ほどまでの上機嫌はどこへやら、トレイを持つ手が震え形のいい眉はハの字を描いている。
「……わ、私は……追放された様なもの、なので、拾っていただいたユリウス様への御恩はお返ししたいです。それに……」
言い淀んだ彼女は俯いた。そしてぽつりと
「お食事を召し上がれないのは、つらい、です……」
と、震える声で呟いた。
彼女の脳裏にあるのは、幼い頃継母から受けた罰の数々だ。
もちろんそれらも冤罪なのだが、食事を抜かれ自室に鍵をかけられた時は、空腹と悲しみと自分への腹立たしさで一晩泣きはらした。
ユリウスは自分とは違う、とは思いつつも、似ている部分が少しでもあるとどうしても重ね合わせてしまっていた。
俯いた彼女にどう声をかけて良いか分からず、一通り悩んだザシャは「貸せ」と半ばひったくるようにトレイを持った。
「え、あ……」
「女に持たせっぱなしでオレだけ手ぶらってわけにもいかねぇしな」
そのままそそくさと先に進むザシャの後ろ姿を、リーゼロッテは早足で追いかける。しかし追いつけそうにない。
「あ、……ありがとうございますっ……!」
後ろから響いた彼女の声に、ザシャはピタリ、と立ち止まった。
肩越しに振り返った彼は、リーゼロッテに聞こえるか聞こえないかほどの声量で呟いた。
「……悪かった。変なこと聞いた。……その、奥様の粥、あんたがいてくれて助かった」
しばらく気まずい沈黙が流れ、彼は彼女をちらりと見た。
目を丸くして固まっていた彼女は、優しげに微笑む。ステンドグラスを背景に佇む彼女は、聖母のように神々しかった。
「……っ!」
慌てて背を向けたザシャは一瞬息をするのを忘れた。
自分の体温が上がるのを感じる。
「あんたはユリウス様のところに戻れ」と背中越しに伝えると、脇目も振らず厨房へと駆け込んだ。がしゃん、とトレイを置く音だけが響く。
何もできない暗い奴だと思っていた。
それなのに使用人の自分と同じく主人に懸命に尽くし、表情を見るたびに変える、どこか素朴さがあり貴族令嬢らしからぬ女──。
(ホント変な奴……でも嫌いじゃない)
トレイを片付けながら、苦笑が浮かぶ。
彼はちりついていた心に別の温かい何かが火をつけたのを感じた。