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106.リーゼロッテは拒む

「え……?」


「……陛下の時を早めてくれないか、と言っているのだ」


 あまりの衝撃にリーゼロッテは言葉を失った。


 今まで時を戻したことはあっても、早めたことはない。


 とはいえ時間に干渉する能力だ。


 できないということはないだろう。


 しかし、早めるということは──。


(……私が……陛下を暗殺することに……)


 ゾッとするほどの悪寒が背筋を走る。


 頬を伝う冷や汗に、急速に周囲の気温が下がったようにすら感じる。


 手先の嫌な冷たさをどうにか温めようと両手を胸の前で合わせた。


「……で、できません。そんなこと……いくら殿下のお願いでも……」


 身震いするように首を振るリーゼロッテを、フリッツは冷ややかに見つめる。


「……もしやってくれたら、ユリウスのことは不問にする。特別に結婚も認めよう」


「ですが……」


「やってほしい」


「……………………」


 フリッツの強硬な態度に、リーゼロッテは押し黙った。


 彼女自身、ユリウスに会えない日々は辛かった。


 ずっと恋焦がれ、手紙を読むたびに会いたい気持ちが膨れ上がる。


 それ自体は否定できない。


 しかし、その気持ちを国王の命と天秤に量れと言われれば──無理だ。


「……私にはできません」


 ゆっくりと首を振ったリーゼロッテをフリッツは()め付けた。


 冬の溜め池のように濁り、冷え冷えした色が瞳に宿る。


「……やらなければ貴女を投獄する。聖殿内……ここで一生、飾りだけの聖女として終えるのだ」


「できません」


「ならば貴族殺しの大罪を犯したとしてユリウスも投獄するしかない」


「……それは……」


 リーゼロッテの眉が下がる。


 彼女が言うことを聞けば、ユリウスの生活を守れる。


 しかしそれは彼女が殺人を犯すということに他ならない。


(……私が犠牲になれば……ですが……それは……)


 リーゼロッテは内ポケットに触れた。


 今までのことが脳裏に蘇る。


 出会った時からずっと、リーゼロッテの境遇を気遣ってくれていたユリウス。


 冤罪だと信じて握ってくれた温かな手。


 そばから離れるなと守り、抱きしめてくれた腕。


 優しく笑いかけるような心地よい声。


 それら全てが愛しく、誰にも彼を侵されたくない。


 ──リーゼロッテの心は決まった。


 法衣の中に手を入れ俯く彼女を、彼の今後というカードを握っているフリッツは見つめると、口端をこれでもかというほど吊り上げた。


「さあ、やるんだ」


「……やりません。ですがユリウス様も殿下のお好きにはさせません」


「……どういうことだ」


 微かに眉を動かしたフリッツは、次の瞬間目を疑った。


 リーゼロッテの白くほっそりとした首によく研がれたナイフが押し当てられていた。


 それを握るのはリーゼロッテ自身だ。


「何をバカなことを……」


「近づかないでください。近づいたら私は死にます」


 ため息混じりに近づこうとしたフリッツをリーゼロッテは制す。


 その手は微塵も震えず首を捉えていた。


「そんなことをしても……ユリウスの投獄は変わらない。貴女が死体になるだけだ。それよりは、そこにいる老体を殺して愛する男と結婚できたほうが遥かにいいのではないか?」


「……もし誰かを……ユリウス様の恩人でもあらせられる陛下を殺してしまったら、私はユリウス様に顔向けできません。殿下の時を止めて私も死にます」


「……全く、姉妹揃って融通の効かない……」


 歯軋りするように呟いた彼は、ヘッダの方へと視線を移した。


「もういい。神官。お前がやれ」


「……どういうことでございましょう?」


「忘れたのか。もし聖女が力を使わなかったらお前が陛下を暗殺しろと言っていただろう」


 取り繕うこともせず、怒りと苛立ちをぶつけるように彼女に言い放つ。


 もはや暗殺を隠すこともせず言う彼の顔は醜く、リーゼロッテには悪魔のように見えた。


「…………私めは……」


「ヘッダさん……?」


 珍しく戸惑うように視線を這わせるヘッダは、半歩後退るようによろめいた。


「どうした。諜報より暗殺の方が得意なのだろう? だからお前をこの女の世話係にしたというのに……やらなければお前もこの女に加担したとして投獄する」


「……承知いたしました」


 投獄、の言葉に肩が震える。


 その表情は髪色以上に青白く、唇は微かにわなないていた。


 とても暗殺が得意と言われるほどの冷徹さも自信も感じられない。


 彼女は懐から黒い暗器を取り出すと、呼吸を整えるように息を吐き出した。


「ダメです、ヘッダさん! やめてください!」


 必死に止めようとするリーゼロッテの声を振り払うように首を振ると、彼女は腕を振り下ろした。


 ひゅ、と空気を薙ぐ音が聞こえ天蓋が裂かれる。


「っ!?」


 しかし暗器は硬い音を立て床に落ちた。


 呆然とそれを見つめるヘッダの背後から、聞き慣れた──そして最も聞きたかった声が響く。


「……聖女だけでなく神官にすら陛下の暗殺を強制するとは……酷いな」


「! だ、誰だ!?」


 フリッツは振り向くが、ヘッダの後ろには誰もいない。


 謎の人物に暗器を防がれた彼女は、恐怖からか安堵からか、へなへなと腰を抜かしてしまった。


(この声は……まさか)


 ここにいるはずもない彼の声に、リーゼロッテは首に当てたナイフを下ろしかける。


 その瞬間を狙っていたかのように、フリッツは彼女を取られまいと「こっちに来い」と黒髪に手を伸ばす。


「嫌っ!」


 手にしたナイフをフリッツに向けることすら躊躇われ、リーゼロッテは目を瞑った。


 髪を絡め取られる──その手は途中で止まった。


 怖々と目を開けてみると、そこには見慣れた黒の軍服を身に纏った逞しい背中が、彼女を庇うようにフリッツの手を阻んでいた。


「王太子殿下……いや、フリッツ。国王陛下の暗殺未遂、および()()()()の容疑で拘束させてもらう」


「ユリウス様!」


 リーゼロッテの歓喜の声に、フリッツは目を見開いた。


「ユリウス……?! 何故ここに!? ここは男子禁制……いやそれ以前に城への不法侵入じゃないか!」


「いやいや、そんな罪には問えないよ。彼は僕が呼んだからね」


 剣でも向けられているのか、震え声で喚き立てるフリッツの背後から、人を食ったような笑みのテオが姿を現した。


 いや、テオだけではない。


 エルやデボラ、マリー、そしてクリスタの姿まである。


 その皆が、フリッツに厳しい視線を向けていた。


「あ……兄上?! ま、マリーまで……一体どういうことだ……?!」


「どうもこうもないよ?」


 テオは面白いものを見た、と浮かべていた笑みをすっと消した。


 あからさまに発せられた怒りを受け、フリッツは怯んだように小さな悲鳴を上げた。


「君はもう、おしまいだよ。フリッツ」

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