103.リーゼロッテは感心される
その翌日、フリッツはいつも通り国王の様子を見た後、マリーの部屋に向かっていた。
彼を見かけた神官の一人は、早足の彼に、早くマリーに会いたいのだ、いつものことだと気にも留めなかった。
しかし内実は違う。
彼は焦っていた。
マリーの前では緩む顔が、今は余裕のない表情を浮かべている。
どこか上の空で、ぶつぶつと何かを呟きながら回廊を進んでいた。
「フリッツ」
不意に背後からかけられた声に、フリッツは肩を震わせた。
(またこの人は……いつもいつもタイミングが悪い)
苛立ちに歪んだ顔を見せたら、勘のいい兄のことだ。
わざとらしく「どうしたんだい?」などと聞いてくるに違いない。
振り返ることができない彼は、背中越しにテオの声を聞く。
「聞いたよ。父上が目を覚ましたとか」
「!」
(な、なぜそれを……!)
驚き振り向いたフリッツに、数冊の古びた本を抱えたテオは薄い笑みを満足そうに深めた。
汚らしく、埃でもかぶっていそうな古書に、フリッツは無意識に眉を顰める。
「……何をおっしゃっているのでしょう、朝方見舞いましたが、ご病状は変わりませんでしたよ」
そう言ってフリッツは余計なことを口走りそうな口を閉じた。
テオの言葉は本当だ。
どこから嗅ぎつけたか分からないが、国王が目を覚ましたのはつい今朝方のことだ。
しかし国王の居場所はフリッツと一部の人間以外誰も知らない。
話が漏れるとは到底思えないが、万が一ということもある。
国王を実際見ることができないテオには、まだ誤魔化しは効くだろう。
「あれ? そうなの? てっきり君の擁する癒しの聖女の祈りが通じたのかな、と思ってね」
揶揄うように言うテオは、フリッツの顔を覗き込むように首を傾ける。
考えを見透かすような瞳に、思わずフリッツは目を背けると「まだ……長そうですよ」と苦々しい口調で答えた。
「そっか。父上は聖女との婚姻を良しとしていないからねぇ……ま、父上が目覚めたとなったらまだ君は跡を継がないで済むってことだし、マリー様とのことはゆっくり話し合われたらいいんじゃないかな?」
「ええ……まぁ……」
(それは不味い。やっとここまで漕ぎつけたっていうのに……)
歯切れの悪いフリッツを満足そうに眺めていたテオは、いいことを思いついたとばかりに手を打った。
「あ、そうだ、もしご軽快されたら、快気祝いの準備は僕に任せてくれない?」
気が早い提案に、フリッツの頬が微かに引き攣る。
フリッツにとって、テオはただの好色で軽薄な王族としての功績も特にない不肖の兄だ。
その兄が進んで何かをしようなど珍しい。
国王に取り入ろうとしているようでどこか気に食わない。
(しかし……一体誰が漏らしたのか……ここは要求をのみ、情報源を探るべきか……)
不安の種は潰しておきたいとばかりに頷いた。
「え、ええ……もちろんです。兄上、国王が目を覚ました、なんて誰からお聞きになったのでしょうか?」
「誰だっけなぁ、忘れちゃったよ」
とぼけたように答えたテオにフリッツが呆気に取られてる内に、彼は
「じゃあね」
とリーゼロッテの部屋に向かっていった。
「……………………」
後に残されたフリッツは、思惑が外れ、苛立たしさのあまり兄の背中を鋭く睨んでいた。
憎悪の瞳を携えながら──。
朝の祈りを済ませたリーゼロッテは部屋にいた。
茶会の準備のためだ。
横でデボラがいそいそと衣装の準備をしている。
しかし彼女は準備どころではなかった。
ユリウスからの手紙が届かず、朝から何往復も羊皮紙の前をうろうろしている。
羊皮紙に手をかけるも、なんの文字も浮かび上がってこない。
時間を置いて何度か触ってみたものの同じだ。
今まで文を書けばその日のうちに返事が来ていたのだが、今回に限ってはそれがなかった。
(ユリウス様……お忙しいのかしら……それとも領内で何か事件があったとか……? ユリウス様にお怪我がなければいいのですが……)
たった一通、手紙が来ないだけでこんなにもそわそわと落ち着かなく、不安になるものなのか。
リーゼロッテは首を振ると両頬を手で軽く叩いた。
(……大丈夫。ユリウス様ならきっと)
気を取り直し、今朝早くにテオが届けてくれた聖女に関する本を手に取ろうと、窓際へと近寄った。
──その時。
ぱりん、と音を立て窓ガラスが割れる。
(あ……)
まるで時の歩みを緩めたように、飛び散った破片と共に、真っ黒な何かが複数襲いかかってくるのが見えた。
──それが黒装束の手だと分かるほどにはっきりと。
「リーゼ!」
反応したのはデボラだった。
手にしたハンガーを黒い何かに向けて投げると同時に、リーゼロッテを庇うように抱きしめた。
「きゃっ!」
デボラの大きな身体で視界を遮られる。
ハンガーの一撃を喰らった黒装束の声か、破片が刺さったデボラの声か、とにかくくぐもった呻き声が微かに聞こえた。
「デボラさん!」
狼狽するリーゼロッテを抱えると、デボラは身体を捻り回し蹴りを繰り出す。
蹴りは黒装束の一人の手を捉え、勢いそのままに黒装束を床に叩きつけた。
ごきり、と鈍い嫌な音が響く。
その隙に跳躍し、デボラは黒装束たちと距離を取る。
「……あんたらどこの手の者だい……?」
威嚇のように凄みのある声音で黒装束たちを牽制する。
殺気立った眼光に彼女に守られているリーゼロッテも思わず背筋を伸ばした。
「……チッ……」
起き上がった黒装束は、だらりと下がった腕を押さえながら窓から出ていった。
「大丈夫かい、リーゼ」
気配が完全に消えたと確認できたのか、デボラはリーゼロッテを離した。
先程の物騒な殺気は霧散し、いつも通りの気の良さそうな顔が覗く。
「え、ええ……ありがとうございます。デボラさん、血が……」
リーゼロッテは背中を指す。
背中には大小無数の破片が突き刺さっていた。
あまりの痛々しさに、リーゼロッテは顔色をなくした。
「ああ、こんなの大したことないよ。擦り傷さ。それより……」
「どうしたのかな?」
なんてことはないと言うデボラを遮るように、良く知る暢気な声がした。
「テオ様……」
「変な音がしたから勝手に入らせてもらったんだけど……おや、これは……」
どうやら騒ぎが扉の外まで聞こえていたらしい。
テオはデボラの背を見ると一瞬驚いたように目を見開いた。
「どうしたもこうしたも……ついさっき襲われましたよ。多分三、四人はいたかと」
傷が痛むのか、眉頭を歪めたデボラはリーゼロッテに促されるまま手近な椅子に腰掛けた。
血は少量ながらもじわりと流れ、擦り傷なんてものではないと物語っている。
「そうか……なるほどね」
「追撃いたしましょうか?」
考え込むような素振りのテオはあっさりと首を振った。
「いや、いいよ。したところでトカゲの尻尾切りされるだけだし。これ以上深傷を負うのはいくら君でも辛いだろう」
「私は大丈夫です」
「今後のためだよ。相手を追い詰める機会はここじゃない。君にも元気でいてもらわないと困るからね」
「ですが……」
「デボラ」
言い募るデボラを目で制すと、テオはにこりと笑った。
まだ何か言いたげなデボラは口を開きかけたが、ため息を漏らすのみだ。
手練れとはいえ、彼女は一線を退いた元軍人である。
未だ勘は冴えるものの、この王城や敵をよく知るテオの判断には敵わない。
むしろ、リーゼが襲われたからって熱くなりすぎたね、とデボラは反省しきりだった。
「あの……やはり標的は私……ですよね……?」
話の行く末を見守っていたリーゼロッテは、おずおずと声を上げた。
テオとデボラは顔を見合わせると、視線でやり取りするかのように瞳を動かす。
やがて彼はリーゼロッテに目を向けると
「そうだよ」
と、短く答えた。
こうもあからさまに狙われたとなると、敵はなりふり構っていられない状況だということだ。
ならばリーゼロッテ本人にも身辺を注意してもらう必要があると言う判断だろう。
その顔はいつもの笑顔だが、瞳はひどく静かだ。
反応を伺うような、むしろ落ち着いてすら見える。
(やはり……)
その答えを覚悟していたリーゼロッテは、一時、思案顔を作ると頷いた。
「……分かりました。しばらく外出は控えます。他に何か注意点があれば教えていただけますか?」
「リーゼ……」
デボラは正直、驚いていた。
以前の──ユリウス邸に来たばかりの──リーゼロッテならば、おそらく狼狽えるばかりで自分の考えを表明するどころか考えることすらままならなかっただろう。
むしろこの国のほとんどの令嬢は命を狙われる危険に晒されたことがない。
いざと言うときに動けなくなるのはなにもリーゼロッテに限ったことではなかった。
しかし、元々姉からの傍若無人な振る舞いや虐めに耐え抜いた胆力があった彼女は、度重なる修羅場をユリウスと共に潜り抜け、多少は動じなくなってきたようだ。
デボラが内心感激している横で、テオは少々考える素振りを見せる。
「んー特にないかな。祈り以外はこの部屋から出ないこと、窓とか扉には近づかないこと。これだけ守ってくれたら十分だよ。あとのことは僕らに任せて」
「……分かりました。クリスタ様とのお茶会もお断りいたしたいのですが……」
「ああ、その辺はこちらでやっておくよ。割れたガラスも片付けなきゃね」
「あ、私が時の魔力で……」
「いいのいいの。こういうのは襲われたって証拠になるんだから。手間を惜しんじゃダメだよ。早急に窓の取り替えをしてもらうよう手配するよ」
満足いく答えを貰った、とばかりにウインクしながら答えると、テオは踵を返した。
「ではデボラさん、手当てを」
「いいよこれくらい。名誉の負傷さ」
「ダメです。怪我したままは良くないですから」
背後でそんなやりとりを聞きながら、テオは口の中で呟いた。
「……君には大役があるからね……頼んだよ、リーゼロッテさん……」