10.妹君は役に立ちたい
ユリウスは混乱していた。
表面上はいつも通り澄まし顔の彼だったが、内心は恥ずかしさと動揺でどうにかなってしまいそうだった。
できることなら頭を抱えて拳を枕にでも叩きつけたいが、腕が動かないためそうもいかない。
(どうして私はあんなことを……っ)
幸い昼休憩から帰ってきたリーゼロッテが「少しお暇をいただけませんか?」と言ってきたため、夕食になるまで来ないことが分かっている。
顔を合わせずに済むと聞いて、ほっとするような残念なような気持ちになる自分が腹立たしい。
(た、たかが美しいと言っただけだ。感想を伝えただけ。手を握られただけ。大したことはしてないしされてない)
そう自分に言い聞かせるように頭の中で繰り返すのだが、気を抜くとやはり最初のように何かを叩きたくなる衝動に駆られる。
「…………」
ロルフが無言でこちらを見ているのがわかる。
母譲りの茶色の巻き毛なのに、デボラにも兄のザシャにも似ず無口な少年だ。
その少年が、部屋の隅にちょこんと座り、なにかものを言いたげに口をもごもごさせている。
「……どうした」
「…………………ユリウス様、不機嫌?」
小首を傾げるロルフに、ユリウスは同じように首を傾げた。
「…………………眉間、皺」
そう言ってロルフは自分の額あたりを人差し指で指した。
腕が上がらないので確認しようもないが、おそらく眉間に深い皺が刻まれており、その表情が不機嫌だと捉えられたのだろう。
「…………………リーゼ、不在。ユリウス様、不機嫌?」
もう一度聞いてきたロルフに、ユリウスは大丈夫だと首を振った。
彼の茶色の瞳が安堵するようにゆっくり瞬くと、「リーゼ、すぐ来る。安心」と呟いた彼は、再び部屋の隅で膝を抱えて口を噤んだ。
ユリウスには何故、彼がリーゼロッテの名を急に出したのか釈然としなかったが、そのおかげで先ほどまでの衝動を少しの間だけ忘れることができた。
「ダメだ。ダメったらダメだ」
「そ、そこをなんとか」
「料理の腕も分からんような部外者を厨房に入れられるかよ」
昼食後、書室でレシピ集探しと調べ物をして戻ってきたリーゼロッテとザシャの間で、幾度となく繰り返された問答だ。
ピンクの古ぼけたレシピノートは、彼女の思った通りユリウスの母親のものだった。そして書室に出現した貴婦人も、予想通り彼女だった。
(まさか幽霊が出るなんて、デボラさんたちはご存知ないようでしたし、信じていただけませんでしたけど……あまりおおっぴらに言うべきではないでしょうね)
そんな彼女のレシピノートを用いて料理しようというのだが、肝心の厨房の使用許可が下りない。
「ザシャ、ちょっとはやらせてあげてもいいじゃないか。アタシがちゃんと見ておくし」
「ダメだ。母さんはまだ仕事が残ってるだろーが。さっさと出て行け」
デボラが助け舟を出してくれたが、こんな様子で取り付く島もない。
ザシャは厨房の入り口で仁王立ちしている。どうあってもリーゼロッテを入れさせないつもりらしい。
(……何か……どうにかして説得しないと……でも私なんかの言葉じゃ……)
彼女は俯いた。
相手がデボラなら、自分の意見を述べても聞き入れてくれるかもしれない。
しかしこうも毛嫌いされているザシャ相手では、自分の言葉が届くとは到底思えなかった。
「とにかく、今のユリウス様に下手なもん食わせられるか。それにそのレシピは何度も試したんだ。レシピ見て作っても意味ねぇんだよ。分かったらさっさと仕事に戻れよ」
ザシャは追い払うように手を振る。
(それでも……)
リーゼロッテは拳を握りしめた。顔を上げた彼女の目にはもう、迷いはない。
「……ザシャさん、お願いです。厨房を使わせてください」
(ユリウス様のお役に立ちたい気持ちはザシャさんも同じなはずだわ)
彼女がユリウスにしてもらったことといえば、奉公人として住まわせてもらいメイド服を作ってもらった、ただそれだけだ。
たったそれだけであっても、追放され、戻るところもない彼女にとっては一生かかっても返しきれない恩だと思っている。
落ち着ききった彼女の瞳にほんの少し気圧されたザシャは、面倒くさそうにため息をついた。
「だから……ダメだ。さっき説明しただろうが」
「レシピを何度もザシャさんが試したから、ですよね? あと私の料理の腕が未知数だから」
「そうだ」
「レシピ通りに料理しません」
「は?」
彼は怪訝そうに眉をひそめた。リーゼロッテはレシピノートを彼の前に突き出した。
「……このレシピ、おそらく続きがあります」
「!」
言われて彼は目を見開いた。茶色の瞳が徐々に真剣さを帯びてくる。
「……どうしてそんなこと、分かるんだよ」
「……レシピと全く同じ作り方のお粥がハイベルク領の一部の地域で作られていました。最後にある食材を加えるのですが、このレシピノートには書かれておりません。実際見た私ならば作れます」
微かにザシャの眉が動く。
リーゼロッテは内心ハラハラしていた。
ハイベルク領でレシピと同じ粥が作られている、というのは嘘だ。
まさか「書室で見た奥様の亡霊が料理してたので最後の材料と手順は知ってます」とは言えない。言ったところで信じてもらえないだろう。
ザシャは慎重に口を開いた。
「……じゃあレシピに書いたほうが奥様のアレンジだとしたら?」
「レシピ通りに作ってうまくいかなかったのなら、いずれかの工程を書き忘れた可能性があります。既存の似たレシピを試してみるのも良いのではないですか? それに……」
黙り込む彼の顔をリーゼロッテは覗き込んだ。
「……お母様のお粥を、ユリウス様は食べたがっていると思います」
(倒れられた時に譫言にように呟いていた、あの言葉はおそらくお母様への言葉……)
無言でリーゼロッテを見つめるザシャ。その表情は固く読めない。
やがて大きくため息をついた彼は、後ろを向いた。
「わかったわかった……ったく、なんでこうも貴族の女は言い出したら聞かないんだっての」
「それじゃ……」
「いいぞ。思う存分使え。……勘違いすんなよ。ユリウス様のためだからな! ただし、作ってる間見張らせてもらうぞ。変なもん盛られたら困るからな」
照れ隠しか、彼は盛大に視線を逸らした。その彼をそれまで黙っていたデボラが軽く小突いた。
「なぁに言ってんだい。そんなこと言ってアンタ、ホントはハイベルク領のお粥の作り方を知りたいだけだろ。この料理オタク」
「うるせぇ」
そんな二人のじゃれ合う光景を、リーゼロッテは眩しげに見つめていた。