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1.プロローグ

「本日よりこちらに仕えさせていただきます、リーゼロッテ・ハイベルクと申します。よろしくお願いいたします」


 抑揚のない声が応接室に響く。屋敷の主人(あるじ)に向け、リーゼロッテは頭を深々と下げた。束ねきれなかった髪が一筋、するりと落ち頬に触れる。


 しまった。


 頭を下げた姿勢のまま、彼女は顔が青くなるのを感じた。


 (ちり)ひとつ落としてならない貴族邸宅の使用人は、常に髪の毛一本まで気を遣うものだ。


 まして目の前のソファに優雅に腰掛ける主人、ユリウス・シュヴァルツシルトは、この国随一の偏屈で知られる辺境伯である。


 気難しい性格で滅多に社交場に姿を現さず、来てもほとんど喋らず、今年で(よわい)二十四にもなろうというのに婚約者すら未だ決まっていない。


 気に入らない使用人は十日たたずと追い出すという噂すらある。


 故に、主人の姿を見るのも恐ろしくて部屋に入るなり頭を下げたのだが、それがいけなかった。


 挨拶ひとつ、ミスひとつで追い出される──その可能性は多分にあった。彼女は迂闊(うかつ)だったのだ。


 主人の視線を感じるが、頭を上げることも声を発することもできない。たとえリーゼロッテが伯爵家の娘であっても、追放された今は彼に仕える使用人だ。


 伯爵家の仕着せのメイド服に身を包んだ彼女は、どこからどう見ても使用人である。


 頭を上げろと言われるまでこの姿勢を崩すことは許されない。震えながら沙汰を待つしかできないのだ。


「……長い」


 男性にしてはかなり高めの、しかしボーイソプラノのような独特の心地よい響きを伴う声が発せられた。


 成人男性にしては高い声だが、それ以上に不意に降った短く、不可解な言葉に、思わずリーゼロッテは顔を上げて確認しそうになる。


 長い、とは髪のことだろうか? と。


 腰まである黒髪は確かに長いが、落ちた髪束は耳にかかる程度だ。そこまで長くはない。


 しかし落ちてみっともないと思われる程度には長いのかもしれない。


 やはり屋敷に一日も勤めることなく追い出されるのだ。


 最悪を想像して身を固くする彼女に、小さなため息が聞こえた。


「長い。……今日からリーゼと名乗れ」


 どうやら名前のことだったらしい。しかも今日から、ということはひとまず追い出されることはなさそうだ。


 安心した彼女は、主人に聞こえないよう息を吐いた。


「私のことは好きに呼べ。挨拶は終わりだ。仕事に戻れ」


「は、はい……!」


 失礼いたします、と応接室を後にしようと頭を上げ、息を呑んだ。


 先の戦争で『白い悪魔』『白の軍神』とも讃えられた白糸のように真っ白な髪は、おおよそ胸のあたりまで長く、細めの髪紐で無造作にひとつに束ねられている。


 髪に負けず劣らず透けるような肌に、歴戦の戦士のような鋭い眼光を放つ紫電(しでん)の瞳。


 かと思えば、男性とも女性とも言い難い中性的な雰囲気を醸し出していた。


 一見物腰柔らかそうだが、驚くべきはそこではない。


 ……子ども……?


 そう。どう見ても今年で二十四にもなろうという外見には見えない。


 そこに座る主人だと思われる人物は、どんなに甘く見積もっても十二、三歳のあどけなさ残る少年だった。


「何をしている。早く行け」


 短くぶつ切りの指示に、リーゼロッテは慌てて扉を閉めた。


 色々な意味で思い描いていた人と違う、と思いながら──。

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