9.この香りをおすそ分け
アドレア・ストラーテンは、朝目覚めた瞬間から、どことなく緊張していた。それは太陽が昇ったばかりぐらいの時間に目が覚めたことからも分かる。
どうしてアドレアが緊張しているかと言えば、それは今日、ストラーテン家にレオンがやってくるからだ。いや、正確には、やってきたレオンに、お返しとして用意したプレゼントをあげなければいけないからだ。
さすがに一年の月日を経て、最初よりはレオンにも慣れてきた。また、最悪だった第一印象からすれば、レオンに関する感情はなだらかになったと言ってもいい。しかしそれでも、今までは歩み寄るどころか、どちらかと言えば邪険にしてきた。
ただのお返しという名目にせよ、アドレアから歩み寄りを見せるなんて、どことなく落ち着かない気持ちになるのは仕方がない。
朝ごはんを食べ終わって、部屋に戻ってからもどこか落ち着かない状態がずっと続いていた。
「お嬢様。お茶にされますか?」
サラはアドレアが落ち着かない様子なのを分かってか、そう提案したが、アドレアは首を横に振った。
「今日は外に出るわ。レオンが来たら呼んで頂戴」
「それでしたら、香水をつけておきましょう」
サラはそういうとアドレアにこの前買った香水をつけてくれた。立ち上がりはリンゴの香りがその場に広がりアドレアは嬉しくて思わず笑顔になった。
「今つけておけば、レオン殿下に合われる頃には、これと同じ、ピオニーの香りが立ち上がるかと」
香りは徐々に変化してゆき、最後のは甘くやわらかな香りを残して消えてゆく。今つけておけば、レオンが来る頃には香りが一番立ち上っている時間帯だろう。
「散策の時も、こちらを持っていかれますか?」
サラはそういうと、レオンに上げる予定のプレゼントを指した。
確かにレオンの性格だと、人に呼ばせるというよりは、この前みたいに自分で探しに来るだろう。それが嫌だからアドレアは部屋でおとなしく待っていたのだが、本来的には、アドレアは外で自然の風を感じるのが好きなのだ。
「……そうね。それ、一応持っておこうかしら。この前みたいに、外にいるときに鉢合わせるかもしれないし」
サラからプレゼントを受け取り、アドレアはそれを持ったまま、庭に出ることに決めた。
庭に出ると、明るい太陽の光と爽やかな風がアドレアを出迎えてくれて、アドレアはほっと息をついた。自然の中にいると、どことなく気持ちが落ち着くのはなぜだろうか。どこに行こうかと少し考え、池のまわりに木が立ち上るところに行こうとアドレアは歩き出した。
歩いていると時折、自分自身から香水の香りが立ち上って、どことなく気分が高揚する。香水をつけるというのは、ちょっと自分が大人になった気がして、やはり嬉しいものだ。特にこの香りは、十一歳のアドレアにしては少し背伸びをしたような、そんな品のある香りだから、尚更そう思うのかもしれない。
アドレアは池の傍に寄っていくと、ただその場でぼんやりと立って、水面を見つめていた。透明な水に泳ぐ魚と、静かに揺れる水草がその場にはあった。
時折吹く風がアドレアの銀の髪を攫って行く。しばらく風に身を任せていると、ぽちゃりと水の跳ねる音がした。その音のする方向に目を向けると、鳥が池の魚に攻撃した音だったようだ。
「アドレア」
「ひゃっ……!」
あのままあの魚は攫われていくのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていたアドレアは、突如後ろから声をかけられて、体のバランスを崩した。
ぐらりと体が傾き、池へと放り出されそうになった。どうにかその場に踏みとどまろうとして体を固くした瞬間、ぐいと後ろから腕を引き戻される感覚があった。
「大丈夫?」
レオンに後ろから抱きしめられるような形になったアドレアは、左斜め後ろを見上げるようにしてレオンの顔を見た。レオンはすごく驚いて心配そうな表情でこちらを見つめていた。
「レオンのせいよ。驚かさないで……」
こういうことがあるから、レオンが来る日に家の外にいるのは嫌なのだ。不意に現れるのは本当にやめてほしい。やっぱり今度からは、レオンが来る日は何があっても部屋の中にいよう。
「ご、ごめん。そんなに驚くと思っていなかったんだ。どこか、痛いところは?」
「大丈夫。……落ちずに済んだことは、礼を言うわ」
アドレアはそういうと、レオンの腕から抜け出して、レオンと向かい合った。
すると、レオンがじっとアドレアを見つめて、少しアドレアに顔を近づけた。
「ねえ、今日……なんだかいい香りがする」
アドレアがつけていた香水の香りに気づかれたようだ。こちらから切り出そうと思っていたのに、レオンからそのことを指摘されて、アドレアは何を言えばいいのかわからなくなった。
「あ……う、これ、あげるわ」
アドレアは持っていたプレゼントをレオンの胸に押し付けた。レオンは押しつけられた包みを受けとると、アドレアの様子をうかがいながら言った。
「私に、くれるのかい?」
「要らないならいいわよ」
アドレアがそういって取り上げようとすると、レオンは慌ててそれを高い位置まで持ち上げ、アドレアにとられないようにした。
「いる! いるから! ありがとう!」
レオンはそういうと、優しい微笑みを見せた。そして、開けてもいいかとアドレアに聞いてから、包みを開けた。
中に入っているのは、紺色の袋だ。そしてその中には、青い花を乾燥させたものに、アドレアが先日選んだあの香水の香りが閉じ込められている。
「これ……もしかして、アドレアと同じ香り?」
「そうよ。この前香水を選んだ時に、私がとても気に入った香りがあったから、おすそ分けにと思っただけ。深い意味はないわ」
「アドレアと同じ香りをくれるなんて、嬉しいよ」
「レオンの好きな香りを選んだわけではないけど、嬉しいの?」
「だってそれは、アドレアと同じ香りだなんて……いや、やめておこう」
「何?」
レオンが何かを言いかけて止めたのが気になって、アドレアはぐいとレオンに近づいてその瞳を覗き込んだ。少し顔を近づけすぎたからか、レオンがたじろいだのが分かったが、アドレアがそのまま詰め寄ると、レオンは観念した様に言った。
「自分の好きなものをくれるって言うのは、少しは私に気を許してくれたのかと思って」
「それ、本当にさっき言おうとしていたこと?」
「……もちろん」
微妙に間が開いたのが気になるが、レオンは表情を特に変えず、爽やかな笑みを浮かべていた。少しモヤッとする部分もあるが、まあ良いだろう。
「でも、勘違いしないで。私はあなたとの婚約は認めてない。何が何でも破棄してもらうんだから」
「君はそういうだろうと思ったよ」
レオンは特にアドレアの宣言に応えることはなく、軽くいなすと、アドレアが上げたポプリを、そっと懐に入れた。大切なものを壊さないように、慎重に優しく扱うその仕草でレオンがアドレアの上げたものを気に入っているのだとわかった。
それに満足したアドレアは、少しだけ気分が良くなったのだった。