8.お返しを選ぶ
店内に足を踏み入れると、先ほどよりも強い香りがアドレアの鼻をつく。さすがにいろんな香りのものを置いているからなのか、香りが混ざって少し、酔ってしまいそうだ。
「こんにちは」
声をかけてくれたのは、若い女性だった。すらりとした長身の女性で、調香途中なのか、スポイト手に持って長いカウンターに立っている。店内にはアドレアとサラ以外の客はいないから、作業を進めていたのだろう。
彼女はスポイトを置くと、カウンターから出てアドレアたちに近づいてきた。
「サラじゃない。もしかして、この方があなたの言っていた?」
「ええ。アドレア様よ。アドレア様、彼女は私の友人のリナです」
どうやらサラとここの店主は顔見知りのようだ。サラがそういって紹介すると、リナがアドレアに向かってニッと笑った。
「リナです。今日はご来店ありがとうございます」
「初めまして。アドレアです」
「どんな香りがお好きですか?」
アドレアはそう問われて店内を見回した。どんな香り、と言われても、どんな香りと答えてよいのか、まったくわからない。
困っていたアドレアの様子に気づいたのか、リナは瓶を一つずつアドレアの前に出しながら、説明してくれた。
「甘い香りや、さっぱりとした香り、木の温かみを感じさせるような香りや、海を感じさせるような香りなどさまざまですが、試しに香りを確かめてみてください」
まずはこれから、と言って、リナは瓶を開け、それを細長い先のとがった紙に一滴垂らした。そして紙を軽く振ると、アドレアに差し出した。アドレアはその紙を受け取って、ゆっくりと顔に近づける。
すると、甘酸っぱいベリーのような香りが広がって、アドレアは思わず笑顔で言った。
「いい香りだわ」
「なるほど。試しにこういう香りもいかがですか?」
次に渡された紙を鼻に近づけると、深みのある木を思わせるような香りがふわりと広がった。この香りも嫌ではないが、先ほどのベリーの香りの方が好みだ。アドレアはそれを伝えようとして顔をあげたが、それはすでに伝わっていたらしい。
「こちらはいかがですか」
自然な流れで別の香りを進められ、アドレアはそれを受け取った。
こうしてそれなりの数の香りをかぎ、好き、嫌い、と好みの意思表示をしていき、もういくつ目になるか分からない香水のついた紙を渡された時だった。
まず初めに感じたのは、甘いがどことなく爽やかな印象のある花の香りだった。そしてしばし香りを楽しんでいると、どことなく大人の女性を思わせるような上品さや華やかさも感じられて、アドレアは他のどの香りよりも長くその香りを楽しんだ。
「どうやら、それが一番お気に召したようですね」
アドレアの表情を見てリナはそういうと、店の奥の棚にしまわれていた、一つの瓶を持ってきた。
「試しにつけてみませんか?」
「いいの?」
「もちろん」
「では、左腕を出していただいてもいいですか」
アドレアが左腕を差し出すと、リナがにっこりと笑って、アドレアの左手首のところに香水をワンプッシュしてつけた。その瞬間、少しツンとしたアルコールの香りとともにみずみずしいリンゴのような印象の香りがその場に広がった。
「リンゴ?」
「正解です。香水の第一印象を決めるこの香りを、トップノートと呼ぶんですが、この香水は、リンゴの香りなんです」
「いい香りね」
先ほどアドレアが一番気に入ったのは花の香りのようだったため、その香水を渡されるのかと思ったが、意外にも先ほどは香りを確かめた覚えのないリンゴのものをつけてくれたようだ。
「香水は体温で揮発していき、香りの印象が変わっていきます。体温の高いところ、耳の後ろ、手首、うなじなどはよく香ります。ただ、香りは下から上へと立ち昇るので、香りがきつすぎると感じるときは、足首、膝裏や腰などにつけていただくと、ほどよく香りを楽しめるかと思います」
香水をつけた自分が、少し大人になった気分がして、アドレアは嬉しくなって、手首を鼻に近づけて、もう一度香りを確かめた。
「あ……これ、さっきの?」
すると、まったく同じではないが、先ほどアドレアが気に入った花の香りが肌になじんで香っているのが分かった。同じ香水なのに、少し時間が経つと印象が変わるのが面白くて、アドレアは自分の手首を見つめた。
「ええ。そのピオニーの香りが一番、お気に召したようなので、その香りが主軸として香るこの香水を選ばせていただきました。時間が経てば、ほのかなやわらかな香りが広がるようになるのですが、メインのこの香りはどこか気品とエレガンスさのあるものなので、華やかな正装時にも負けない香りかと」
「リナ。お嬢様にこちら包んでもらえる?」
「ええ。もちろん。他に何か見る?」
「あの……こ……友人に、あ、その、男の友人に贈り物をしようと思ってお店に来たの」
婚約者と認めるのは悔しく、仕方なく友人という表現を使うと、今日の本当の目的をリナに伝えた。すると、リナはサラと同じようにどことなく嬉しそうな顔をして、にっこりと笑った。
「それでしたら、この香りと同じもののポプリ・サシェはいかがですか?」
「ポプリ・サシェ?」
まったく物を想像できなくてオウム返しで問うと、リナが説明してくれた。
「乾燥させたお花に香りをまとわせたものをサシェ……小さな袋に入れたものです。好きな香りと言うのは、嗅ぐだけで気分を和らげてくれますから。男性にお渡しするなら……うーん、こちらの袋とかでしょうか」
「ちょっと待って。私が好きな香りを、あげるの?」
どんどん話を進めていくリナにストップをかけると、アドレアは気になっていたことを質問した。
おおむね、プレゼントというのは相手の好きなものを上げるのがセオリーではないのだろうか。もちろん相手に嫌がらせをしたいというのなら、相手の嫌なものをあげるのも効果的かもしれないが。
ただ今回は、アドレアは別にレオンに嫌がらせをしたいというわけではない。それに、どうせあげるならば、レオンが喜ぶものを上げたいところだ。
そうでないと、いつも喜ばされているこちらとしては、負けた気になってしまう。
「そうですねえ……香りというものは、贈り物として、非常に難しいものです。相手の好みをよく知るものでさえも、人の知覚を正確に把握するのは難しい。そういう意味では、無理に相手の好きなものを贈ろうとするのではなく、自分の好きな香りを相手に送るというのも一興ですよ。自分を知ってもらうことで、相手に親愛をしめすのです」
「親愛を示したいかどうかは別として……確かにそういう形もありなのね。それならば、そうしようかしら」
正直に言って、アドレアがレオンの好きそうな香りを選ぶというのはかなり難しい。そもそもレオンのことをそんなに理解もしていないし、香りに対する知識もアドレアはほぼないにも等しいからだ。
それならば、贈り物として、これは自分が好んだ香りのおすそ分けだ、とでもいえば、相手の好みに合うかどうかを気に病む必要がなくなる。
問題は、それでレオンが喜ぶのか、ということだが。
「きっとレオン殿下もお喜びになりますわ」
「……そうかしら?」
サラが自信ありげにそういったので、アドレアは首を傾げた。
「はい。アドレア様が気に入られた香りだということをお伝えすることと、その日は、香水をつけていきましょうね。その方が、アドレア様が気に入られた香りなのだという印象が強く残るでしょうから」
「私の好きな香りだと印象付けることに意味があるのかわからないけれど……いいわ。あなたがいうなら、そうしましょう。では、包んでもらえるかしら?」
アドレアはそうリナに言うと、これをどうやって渡そうか、と考え始めたのだった。