3.虫よけ代わりの婚約
「あら、あなたはどなたのことだと思うのかしら?」
振り向きながら言うと、そこには思った通り、輝くような金色の髪と、エメラルドのような美しい緑色の瞳を持った少年が立っていた。後ろには彼の護衛らしき男も経っているが、たった二人でこの場にいるようだ。
「私のことでは?」
「分かっているなら、話は早いわね。婚約はお断りよ」
「昨日、すでにあなたの父君は署名したのではないですか?」
「……」
それはアドレアも承知している。だからこそ、アドレアは今日、こんなに怒っていたのだ。
昨日のうちに、まさか父が署名まですまして正式な婚約をしてしまうとは思いもしなかった。でもよく考えると、昨日の茶会は明らかにレオンの婚約者を決めるためのものだったのだから、どの家も相応の準備はあって参加していたのだろう。
だから王子の一言で、ああもたやすく婚約が決まってしまうのだ。
「今日は、婚約者殿と親睦を深めようとおもいまして。お茶でもいかがですか?」
「お茶を出すか出さないか決めるのはこちらでしょう?」
「そうですね……。ですが、ストラーテン家は出さないという判断をするのですか? この私に?」
なぜだろうか。本当にいちいち腹立たしい男だ。
このお気に入りの場所を邪魔されたのが許しがたくて、とりあえず場所を変えようとアドレアは、サラに指示する。
「サラ。西の客間にご案内してさしあげて。私はお茶を頼んでくるわ」
通常なら、アドレアが客人を案内し、サラがお茶を頼みに行くのが普通だが、アドレアは少しでも長くレオンから離れていたかった。
サラもそんなアドレアの心情を察したのだろう。指示が普通ではないことに気づいてはいるようだったが、それをわざわざ指摘するようなことはせず、素直にうなずいてレオンを案内しようとした。
「殿下、お部屋へご案内いたします」
「待って。できれば、アドレア嬢に案内してもらって、君にお茶を頼みたいんだけど……」
それをレオンは差し止めて、にっこりと笑った。
アドレアがわざわざそういう指示を出したこともすべて分かってそう言っているのだろう。それを差し止めるだなんて、なんて性格の悪い男なのだろうか。
誰もが見ほれると噂の美貌すら、苛立ちの対象になりそうだ。
「あなた、私が選んだお茶を飲めないとでも?」
「まさか。ただ、それ以上に、私は貴女と一緒にいたいんですよ」
レオンはあのうさん臭い笑みを浮かべてそういうと、いいよね、とアドレアではなくサラに対して念押しした。サラは少し困ったようにアドレアの表情をうかがったが、断り切れないと判断したのだろう。小さくうなずいて、お茶の準備をしに去っていった。
「……案内するから、着いてきて」
西の部屋にある一番貧相な部屋にしてやろう。そう思って、歩き始めたスタスタと、極力早足で歩き始めたアドレアだったが、歩いている途中に、父と出会ってしまった。
「殿下、娘と会えたんですね。いやあ、娘の居場所が私の思っていたところでよかったです」
「はい。さすがはアドレア嬢の父君ですね。娘さんのことをよく分かっていらっしゃる」
父はにこやかにそういったが、アドレアの心境は複雑だった。
まさか身内に裏切り者がいたとは。アドレアのお気に入りの場所だったのに、そこをリークして、レオンを派遣するなんて。
「アドレア、ところでどこへ殿下をご案内する気だ?」
「西の客間です」
「西? いやいや、今の時間なら、南にある客間の方が……」
「では、父上がご案内されては?」
アドレアは突き放したようにそういってその場を立ち去ろうとすると、父は目を丸くして一瞬沈黙した後、アドレアの腕をつかんで引き留め、レオンに慌てたように言いつくろった。
「すみません。娘はなんというか……やや、愛想が足りず……。アドレア、今日はどうしたんだ? その……ややいつもより無愛想で無表情度が増しているような……?」
アドレアは外面はいいほうだが、家族の前では素を出している。普段から、家族に対して愛想があるタイプではない。しかし、ここまでとげとげしい態度もあまりしないため、父も驚いているようだ。
「私はいつもこんなものです。それで、父上が南の部屋にご案内されますか? それとも私が西の部屋にご案内しますか?」
「私は小さい部屋の方がいいですね。その方が、アドレア嬢と近い距離で話せるので」
アドレアの魂胆を見抜いているのか、レオンは突然、そんなことを言った。そういわれると、一番広い部屋に案内したくなる。一番広い部屋があるのは南の方だ。
「それなら――」
南の客間にご案内します、と言いかけたアドレアの言葉を、父が遮っていった。
「――ああ、殿下のご要望でしたか。それでしたら、西の方が小さい客間もございますから、そちらの方が適していますね。てっきりアドレアが、嫌がら……いえ、その、狭い部屋が自分が好きだからと自分本位に選んだのかと」
ほぼ嫌がらせと言いかけていた父だったが、なんとか言い直して、その場を取り繕ったふりをした。おそらくレオンの表情を見ている限り、レオンはすべてを察しているが、言及しないと決めたようだ。
「では、西の客間へ案内していただけますか、アドレア嬢」
「……ご案内します」
レオンが小さい客間がいいといったのだから、大きい客間に案内しよう。アドレアはそう思いながら歩きだすと、レオンはアドレアの隣に並びながら、釘をさすように言った。
「小さい部屋をお願いしたんだから、まさか西にある客間で一番大きい部屋に通したりしないよね?」
「……もちろん」
いちいちアドレアのやることを封じてくるこの男は本当に性格が悪い。ただ、ある意味では、他人をよく観察し、相手の行動を読む頭の切れがあるとも言える。
第一王子エイブラムの優秀さは世に轟いているが、第二王子についてはいまいち情報がなかったものの、案外切れ者なのかもしれない。
だからといって、アドレアが自分の婚約者として認めるわけではないのだが。
「こちらへどうぞ」
アドレアが選んだ部屋は、西の部屋では中ぐらいの客間にしておいた。
最も広いわけでもなく、最も小さい部屋でもないこの客間なら、あえて広い部屋にしたと勘繰られることもないだろう。
部屋に入ると、部屋の真ん中にソファとローテーブルの置かれていた。床には絨毯が敷き詰められており、小さな本棚もある。大きな窓はベランダに続いており、部屋の中にある扉は、寝室へと続いている。
王子を通すには質素な部屋だが、普段使っていないこの部屋でもきれいに掃除が行き届いていて、見えないところでストラーテン家の使用人たちが屋敷を維持するために働いてくれているのだと分かる。
「そちらへどうぞ」
アドレアはソファに座るように促すと、自身はソファを通り過ぎ、レースのカーテンを開け、窓を解放した。爽やかな風が部屋の中に入り、アドレアの苛立った気持ちを少しだけ静めてくれる。
ずっと立っているわけにもいかないので、アドレアはレオンが座った位置のはす向かいに腰を下ろした。
「今日はどうしてここへ?」
「先ほども言ったように、貴女と親睦を深めようと思いまして」
「親睦ね……突然押しかけてきて、よく言ったもんだわ」
「ああ、突然訪問したのがよくなかったのでしょうか? それならこうしましょう。毎週、私は君に会いに来ます」
「毎週? 私たちが結婚できる歳になるのは最短で8年。つまり、これから417回もこの屋敷に来るとでも? そんなに必要?」
思わず回数を計算してしまったアドレアは、その回数の多さに身震いしてしまった。これからそんなに途方もない回数をこの男と顔を合わせるなんて、アドレアは苛立ちとストレスで病になりそうだ。
「そんなにとおっしゃいますが、結婚すれば、50年ぐらいはともに過ごせるでしょうから、ざっと、18250日は一緒に過ごすことになるかと」
「とんでもないわね……」
レオンのした計算は、もっと最悪だ。婚約期間を合わせたら、トータル60年ぐらいはこの男と過ごさなければいけないのか。しかもそれは、平均寿命ぐらいで死ねばの話だ。もっと長生きしたら……。
「婚約しているだけの今この時に、そんなに会う必要が?」
「もちろん必要はありますよ。親睦を深めなくていい婚約なんてないでしょう? 数十年と一緒に過ごす相手を知ることは、これからの人生で大切なことですから」
「……そもそも、私と本当に結婚する気があるの? 私を虫よけにしたかっただけでは?」
アドレアが言葉を選ばずにそう問いかけると、レオンはやや驚いたように、眉を上げた。アドレアの言葉が図星だったからだろう。彼はどうやら誤魔化す気はないらしく、またしても例の取り繕った笑顔を浮かべて潔くこういった。
「虫よけの意味合いについて、否定はしません」
「いっそすがすがしいわね。本当に腹立たしい」
アドレアがレオンをにらみつけると、レオンは何故かそれを見て、ははっと声をあげて笑った。その笑顔は、嘘くさいものではなくて、どうやら本当にこぼれ出たもののようだ。
「正直だね。私は正直な子は好きですよ」
「あなたの好みなんてどうでもいいわ。それより、本気で毎週来る気なの?」
「本気ですよ。私は、アドレアのことを知りたいので」
思っていたよりも、厄介な男に捕まったかもしれない。
アドレアがこの時に抱いたその感想は、そのさき数年をかけて、正しかったと証明されることになる。




