第1話「髙木 有馬」(5)
「そういえば有馬、あんたって成績とか大丈夫なの?テストとか。」
叔母の口から唐突に不快な単語が飛び出して思わず口をへの字に曲げる。そろそろテストまで一週間になる今日この頃、敢えて直視しないようにしてきたが何もそんな所から襲って来なくとも良いではないだろうか。
「大丈夫だよ上手くやってる、多分。」
どうにも歯切れの悪い言葉しか出てこない。理系の教科については大丈夫だろうがどうにも危険な教科がちらほらと思い出される。
仕方がない、勉強するかと顔に諦念を浮かべる。勉強が嫌いで、ぐうたらが大好きで、すぐ眠る。あと自分に足りていないのは青い猫型ロボットだけではないかと何度心待ちにした事か。
「まああんたは良くサボるけど頭は良いもの持ってるからね、心配はしてないよ」
藪からテストに襲われ、ああでもないこうでもないと引き攣り顔で思案を巡らせる俺を見て彼女が言う。
叔母の目は節穴なのだろうか、過大評価も甚だしい。
しかしそんな俺の反応を面白がる彼女がふと深い思慕をその瞳に浮かべた。
「あんたの頭は姉さんに似たんだろうね、よく勉強教えて貰ってた。」
思わぬところで母の名前がでて俺は目を丸くし、少し顔を顰めた。俺の中で両親の思い出は決して追慕と共にあるものでは無かったからだ。
意図してかどうかは知らないが、結果として親に捨てられた身には当然の事だろう。
だからそんな俺には叔母さんが母の事を一抹の悪感情もなく思い出すのは違和感が拭えない。まして母に自分を重ねられたとあっては尚のことだった。
「…まだ嫌ってる?」
「…何とも思ってない」
「許してあげてとは言わないけど、姉さんは意味もなくあなたを捨てるような人じゃないよ」
目を細めて複雑な微笑を浮かべる叔母の瞳にどんな感情が映っているのかはわからない。微かに読み取れるのは動揺とほんのちょっとの哀感だけだった。
「不器用だけど優しい人だったんだ、姉さんは」
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記念日の食事を終えた俺はスポーツウェアに着替えて食後の運動に出ていた。高二の終わりに部活動を辞めてからほぼ毎日欠かさず行うルーティンである。
欠かしたのは春先、西野に移された風邪のせいだった、あいつ天然キャラなのに何で風邪引くんだ。
履き慣れたランニングシューズの紐を固く締めて地面を蹴り出す。
いつものルート、家を出て駅前を経由して緑地公園に出て体を動かす。七月前の夜風は水気を孕んだ暑さがあり、夏になったらランニングも厳しくなるなぁと額の汗を手の甲で拭った。
このランニングコースとも中学生の頃からの馴染みである。丁度良い距離に加えて公園前の急勾配な坂や階段が適度な高低差になっており、有酸素運動に適した良コースであった。
中学時代の友達仲間四人、同じ高校の西野と、別の高校に行ってしまった後の二人でよく走ったものだったと懐古する。
ペースを守りながら開発の進む駅前の大通りを渡る。新しく舗装された道は走り心地が良く自然と足が弾んだ。
三ツ木市も綺麗になっていくもんだぜというのが口癖の近所の八百屋の主人を思い出す。もう高齢の筈だが独り暮らしで厳つい仏頂面を下げ、その上実際に脛に大きな傷跡まであるものだから人も寄り付かない。どう見ても堅気の八百屋さんには見えないが、お陰で売り上げはいつも赤字だと豪快に笑っていた。
と、そんなことを考えながらペースを崩さず走っていると、ふと自分の前を走る人影に気が付いた。
先程から先行する人物がいた事は知っていたが、どうやら俺と同じコースを走っているらしく完璧に先導する形で進んでいる。
少しばかりの対抗心が燃え、追い越そうと試みるがなかなかどうして叶わない。
相手もどうやら並ならぬペースを維持している様子だった。
グレーのジャージに栗色の髪、やや細めの体格のその男はそのまま俺のコースを一歩も外れることなく進んで行く。
まるで顔の前の人参か蜃気楼を追いかけているように、一向にジャージ野郎との距離は変わらない。
二十分ほど位置関係が膠着したまま走り、遂にルートを寸分違わずゴールとなる緑地公園までたどり着いてしまったが、その瞬間俺の頭にあったのは喫驚ではなくやっぱりな、という確信めいた感情だった。
先に公園の中ほどに到着し息を荒げながらも確かな動作でストレッチをする人影に近づいていく。
こちらに背中を向けるその人物は勝手に参加させられた小さな競争の事などいざ知らず腱を解して乳酸の溜まった腕をぶらぶらと宙に揺らしていた。
そんな様子を見ながら俺は迷わず声を掛けた。
「久しぶりだな、夏目」
急に後ろから呼びかけられ、はてと振り返るのは中学の知己がその一人、今ではすっかり理知的な優男になった夏目 誠一郎だった。




