第1話「髙木 有馬」(31)
振りかぶって、ナイフが指先を離れるまで。
その僅かな瞬間がぐんと引き延ばされる加速感覚。
スーツの男が拳銃を両手で構え直すのが見えた。
まだだ、まだ離さない。限々まで刃を留めて軌道を調整する。
仄銀色の艶消しされたナイフは夕闇に完全に消えて見えなくなる。放てば当たる。
時間が徐々に等速に戻ってゆく。
振り絞った弦が最も力を伝えるその一点で刃を――――。
当たれ。
ナイフの鋒が慣性に従い指先を離れた。
―――瞬間、衝撃音。
それはバチン、と重い火花が弾けるような金属質の破裂音だった。
狙ったものか、苦し紛れが生んだ全くの偶然なのかは分からない。が、スーツの男が放った銃弾は男の頭部を狙ったナイフを確かに撃ち落としていた。
砕けたナイフが地面に散らばる音が妙なテンポの良さで空間に反響する。
投擲の余韻の中、瀬川は激痛と驚愕に襲われた。
痛みは動作の反動により体の内で暴れる肋によって。驚きは投げナイフを撃ち落とす芸当かそれとも自分の土壇場での運の無さによってか。
高速で迫る投げナイフを拳銃で撃墜する、まさに偉大な偶然か玄人の芸当である。
スーツの男が狙ったのは音だった。
瀬川が振りかぶって放った何かは恐ろしい速度のまま夕暮れの帳に飲まれて消え、回避も許さずに確実に男の命を断つ筈だった。
しかし音は、ナイフが空気を切る飛翔音だけは刃に纏わり付いてその存在を教えていた。大気を真横に裂く口笛に似た音。
勿論、人間が音だけで撃ち落とせる速度ではない。そこに常人を超えた殺人屋の本能と瀬川の不運を加味しなければ。
残るもう一本のナイフ、心臓を狙った方の一本も的を外れて男の左腕に深々と突き刺さっていた。拳銃を構えた腕に左胸が隠された所為だろうか。
いくらなんでもそりゃないだろうと、叫びたい気分に襲われるが、瀬川は必死に次の手を探す。
スーツの男が腕の痛みに低く呻くが、その顔には質の悪い嘲笑がべっとりとこべりついていた。
これが万全の準備を経ての決闘でないことは言い訳にはなり得ない。それでも、残った武器が胸ポケットに入った一本の投げナイフのみなんて冗談は流石に悪質ではないか。
撃たれた痛みなら耐えられる、既に知られた投げナイフは回避される可能性が高い。銃撃を躱して頸部の動脈を切断する、次点で投擲。やれる。
ナイフを取り出そうと懐に右手を入れた瀬川は、しかしその状態で硬直した。
動かない、身体が、僅か足りとも。嘗てない自身の異常に彼女の思考さえもが凍りついた。
それは瀬川には気付く由もない事だった。
肋、内臓、腱。負傷による激痛はとうに人間の限界を超えていたが、瀬川はその精神力でそれらを耐え抑え切っていた。
痛みは重要な危険信号である、それを無視し続けるとどうなるのか、答えは単純である。全ての痛みが危険信号を超えて身体自体を静止させるのだ。
根性論などという次元ではない。指の一本すら全く微動だにしない。凍結とでも形容すべき完全硬直。
チェックメイト、王手、ゲームオーバー、負け…?
スーツの男が銃を構える動作が酷くゆっくりと再生された。
瀬川の無感情に何度目かの罅が入った。どうして身体が固まるのか、動け、動け、動け動け動け…!!
男の殺意がぬらりと右腕に巻き付いた。最後の四肢を撃ち抜かれればそれで決着だ。
…畜生。
スーツの男が引き金を押し込む―――その直前、瀬川の背後で腕を伸ばす少年に彼女は全く気付かなかった。




