第1話「髙木 有馬」(22)
『その同業者、なんと吃驚"獏"の片割れなんですよ!』
電話口で興奮を抑えきれない撥がいつもより早口に話すのを聞き、瀬川晴子はやっぱりなと溢していた。
『ちょっと、驚かないんですか。獏、あの。瀬川さんの商売敵ですよ、正真正銘の。』
「わかってるよ、だから今追ってる。」
瀬川は電話を肩と耳で挟みながら黒のセダンを乗り捨てるように路肩に駐車した。そのまま跳ね出す勢いでドアを開け放って降車する。場所は三ツ木市駅南東に位置する住宅街、確かどこかの高校の近くだった筈である。
遡る事数分前、瀬川は久しぶりの三ツ木市に郷愁に似た感情を覚えながら駅から南東に伸びる大通りを走行していた。
リリカルな感情など欠片も持ち合わせていない彼女ですら生まれ育った土地には何か感じるものがあるのだと、そんな事を考えながら懐かしい街並みの中を通り抜ける。
駅前はすっかり整備されて綺麗になっていたが、この辺りまで来るとまだ変わらないものだ。
本来なら仕事を終えた日に無闇と出歩くのはあまり得策ではないのだが、普段滅多に感じない何かしらの情動的感情を胸中に捉えて、瀬川は気の赴くままに街を回ってみていた。
「悪魔でも故郷は愛おしい」とは確かによく言ったものである。
そんな具合にハンドルを緩く握って数分、丁度信号に足を止めた頃、不意に二つの事が同時に起こった。
まず、仕事用の安い携帯から鳴る着信音が車内に響いた。オルゴール調で奏でられるそれは大手塾のcmテーマソングであり、撥の雰囲気にぴったりではないかと以前個別の着信音に設定したものだった。
そしてもう一つの事象が、着信に応答しようと電話を耳に当てた瀬川の意識を深々と縫い止めた。
人―――。左前方の工事中のビル、その二階に人影が見えて眼を凝らした。
妙に強い既視感を伴うその人物は濃紺のスーツを纏った男だった。角度をつけて差し込まれる夕暮れの日差しのせいでハッキリとは見えない。だが道路側に壁無しに開けた二階の一部から覗くその男には確実な見覚えがあった。
それは瀬川にとって非常に苦い思い出だった。
記憶の引き出しが無意識に物色され、その中の一つ、嫌悪の南京錠に固く閉ざされたものの中身が早送りのビデオの様に瞬時に思い出される。
あの男は…!!
『もしもし、瀬川さん聞いてます?言われた通り調べてみたんですけど、三ツ木市に来てる同業者!それがね、"獏"ですよ!獏!』
電話の向こうで声を上げる情報屋の言葉は殆ど頭に入ってこない。
知ってるよ、てか今見てる。と出したつもりの声がいつまでも喉を通過せず六腑の中で反射した。
こんな仕事である、同業者といざこざが起きる事は往々にしてあり得るのだが、あれ程に対立した事は後にも先にもないだろうと、あの男とはそういう仲であった。
感情の起伏が著しく平坦な瀬川晴子だったが、この時ばかりは不敵な微笑をその顔に浮かべる。
あの野郎とのケリは、まだついていなかったっけ。
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『もしもし、瀬川さん、まさかと思いますけどちょっかいかける気じゃないですよね』
「煩い、これで仕事がやり易くなる。」
『僕、知りませんからね。相手の雇い主が恐い所じゃない事を願うばかりです。全く、何で頭良いのにそういうとこノータリンなんですかね。』
恨みに関して言うならお前の蔑舌よりは真っ当だよと瀬川が小声でごちた。情報屋の確認が取れた以上さらに愚痴を聞く必要はないなとまだブツブツと毒を吐く声を耳から離す。
そのまま小言の電源を落とす様に携帯の通話終了ボタンをタップし、改めて意識を眼前に戻した。
スーツの男―――二人組の殺し屋"獏"の片割れを目撃した建設中のビル、その入り口に瀬川は立っていた。
躊躇なく入り口のシートを捲りあげて中に忍び込む。ひんやりとしたコンクリートの六面が瀬川を包み込んだ。
走らせる視界の端に無骨な階段を捉えた彼女はそのまま音もなくするすると移動する。
階段に足をかけながらスーツの内ポケットに右手を伸ばして小型のサバイバルナイフの刃を刎ねあげた。
声が聞こえる、上々と話す喜声と、必死に絞り出すかのような若い声。
その前者、機嫌の良さげな厭らしいトーンが優しげな声色に乗って届く、その違和感ある媒介は正しくあの男のものであった。




