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第1話「髙木 有馬」(19)

まだだ、まだ息は整えない。そんな余裕はない。

酸素を欲する身体を無理矢理動かしながら、俺は狭い路地を疾走していた。

荒い壁で皮膚が擦れて血が出る、そんなものにいちいち構えない。打撲した肩もズキズキと痛んだ。

背中に背負った西野の体がやけに(あった)かい。


鼓動が早鐘のように脈打つ、なんだこれ。


前方に工事中の大きなビルが見える。あれだ。

女の子とは言え人間一人を抱えたままでの全力疾走に意識が朦朧とする。


まだだめだ、まだ歩けない。入り組んだ道で出来るだけ曲がり角を経由して来たが安心は出来なかった。

あの男と対峙した時、仕事の出来る人間の怖さを確かに感じた。あの男はきっと用意周到だ。足を緩めればきっと追いついてくる。



確かに見た。

あの男が手を(かざ)しただけで、女性の意識が飛んだのだ。

意識を飛ばすだけかそれ以上なのかは分からなかったが、ともかく西野も彼女の後輩達も同様にされてあの場に倒れていたのだろう。

手を触れさせる、たったそれだけの事で人間を失神させる理屈は分からないが、スーツの男の武器が知れた事は大きい。


知る事で人は恐怖と闘うのだと、なんとかと言う偉い哲学者の言葉を思い出す。

考えろ、考えろ。


辿り着いた工事現場は幸いにも――どうしようもなく不運だったとも取れるが――無人であり、入り口に掛かったビニールシートを潜って中に入る。

コンクリートの骨組みと床だけが完成した質素な空間は、建築資材などが乱雑に置いてあり隠れる場所も豊富であった。

小さい頃に観たヒーローがこんなとこで怪人と戦ってたっけと懐かしい思い出が蘇る。


コンクリートが剥き出しの工事用階段を駆け上がり、二階のフロア中央で(ようや)く崩れるように倒れ込む。

心臓が鈍痛の鎖に絡め取られ、肺は破れるのではないかと思うくらいに激しく収斂(しゅうれん)する。

疾駆の反動が体を容赦なく襲った。


両側に階段の用意されたこの建物は状況に好都合だった。何とか身体の全系を鎮めながら背負ったままの西野を降ろす。


息を吸って、吐く。ぜえぜえと受動的に続けられる呼吸は粘っこく血の味がする。

(かつ)て無い全力疾走に眩暈(めまい)が襲って来た。

心臓にも脳にも酸素が足りていない、すう、はあ、呼吸をしろ。呼吸。

毎日ランニングをしておいて本当に良かった、今までの自分を表彰してやりたい気分だ。


「なんなんだ…アイツ…!」

息切れる思考の中で残響の如く残る男の姿を思い出す。次第に脳が冷静さを取り戻してゆく。

数十秒、肩を上下させながら漸く息を落ち着けた所で西野の方を見遣(みや)った。

あの男に何をされたかは分からないが、眠るように気を失っている。そんな様子を見る限り少なくとも命に別状は無いだろうと少し安心した。

今はちょっとした角材の山にもたれさせているがあれだけの運動の最中に俺に背負われていたにも関わらず全く起きる気配がなく、その事だけが少し気に掛かっていた。


あの男は何だったのか。

西野を、西野を狙っていると確かに言っていた。何のために、身代金?まさか、それなら態々(わざわざ)西野を狙いはしないだろう。怨恨?無差別?馬鹿馬鹿しい。

そこでふと西野の言葉が頭に浮かぶ。

予知能力―――?

あの男の襲撃は、西野が危惧していた"良くない事"そのものではないのか。

予知は本当だったのではと思う一方、冷静な頭が(ただ)の偶然だと断じている。偶然の一致を後からこじつけているに過ぎないのだと。

予知能力が原因で狙われるなどと、それこそまさかだろう、冗談にもなっていない。


そうだ、何故狙われるのかを考えても(らち)があかない、これからどうするかを考えるべきだ。


触れられたら終わりのあの男の能力は驚異である、しかし先程の対峙で得た情報はそれだけではない。

あの男は淡々と仕事をこなしている様だった、個人的感情無しの『仕事』を。

奴は行動の前に計算を、予測を必ず行う、そんな人間だ。


それなら衆人環視の場に出る事が最優先ではないか。

奴は見られる事を嫌がった。奴は『仕事』をしている。奴は恐らく、自棄(ヤケ)を起こす類いの人間ではない、必ずリスクとリターンを考える。


これらの材料を基にして考えるなら、大通りを通って警察署に駆け込む事、これが最も上策ではないか。

間違えていた、すぐに行動すべきだ。

そう結論づけて立ち上がる、犠牲の幻影を恐れて人目のない場所に立て籠もる今の状況は最も回避すべきだ。

夕暮れが迫る外の景色はほんのり橙を帯び、東の空には宵の仄暗さを感じる頃になって来た。


―――行くしかない。

工事現場の、入ってきた方と逆の出口から出れば大通りの一つ隣だ。


その決意の一拍前、ビルの入り口のビニールシートを開く僅かな物音に俺は全く気付いていなかった。

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