第1話「髙木 有馬」(10)
「やられたね。」
通勤途中、早朝の人気のない路地。そこで突然背中から銃で撃たれたサラリーマンの最期の言葉とは到底思えなかった。
瀬川晴子は黒いセダンタイプの中型車を運転してまだ東からの朝日が眩しい高速道路を走りながら先程の仕事について考えていた。
依頼はいつもの情報屋からの斡旋で、ターゲットは小さな印刷会社に勤める中年男性だった。
あだ名なのか本名なのか、『撥』と呼ばれるその情報屋からの仕事は確かに変わったターゲットが多かったが、それにしても今度の依頼はそれらとは一線を画していた。
つまるところ殺し屋に殺人を依頼される標的としてはあまりにも普通な唯の会社員だったのだ。
標的の職業や身辺調査を見る限り、殺される理由は全くと言える程見当たらなかったが、情報屋が依頼理由を口外しないのを仲介の条件としている事も知っていたし、何より報酬も普通以上の額があったので瀬川も特に詮索はしなかった。
しかし撃たれた直後の彼のあっけらかんとした様子を見るに、どうやら一般人では無かったのだろう。少なくとも瀬川は、日本の一サラリーマンが死を覚悟、もとい死をすんなり受け入れるなど聞いた事はなかった。
ともあれそこに目を瞑れば仕事は順調に進んだと言える。
殺し屋の仕事に一番大事な才能は勤勉さと過剰な用心だろうなとは以前瀬川が会った同業者の言葉である。
「だから日本のサラリーマン、ああいう社畜ってのは実は殺し屋に向いてんだよ。とっとと転職すればいいのにな、殺し屋の方がよっぽどホワイトだよ。」と安酒の入った赤ら顔で上機嫌に彼は続けていた。
実際今回の仕事も数週間に渡る下調べ――標的の生活リズムや人間関係、生活領域の特徴や暗殺地点の候補などである――の末、綿密な計画の下に実行に至った訳であるし、人気のない路地で一度も監視カメラに映る事なく暗殺に成功しターゲットを車で運び出せたのも、鍛えた用心のなせる技だったと言える。
しかし瀬川の意見は違っていた。
殺し屋に最も必要な素養は"自分の心を完璧にコントロールする能力"だと、彼女は考えていた。心のコントロール、かのゼノンが唱えたストア派哲学の境地である。
殺し屋は標的の内情を探るために潜入を行う事も多い。そして依頼人と直接話す時、ターゲットを仕留める時、それらの場面で、自分の心を操り損ねる事があれば、それは確実に失敗を招く。
誰しも幼少期に心のハードに刷り込まれた倫理観に反する事は容易くない。
心の動きを完全に制御する事。勤勉さや用心深さなど、後でいくらでも手に入れられる。
胆力、それは圧倒的な隠れ蓑になる。
事実ターゲットを処理してからのこの一時間で二度検問に引っかかったが、愛想よく免許を提示して酒気を検査しお巡りさんご苦労様ですと挨拶するドライバーが、つい数十分前に殺人をこなしたとは誰一人気付かなかった。
高速を抜けて三車線の大道路で信号を待っている際、ふとバックミラーに映る自分の目に意識が映る。
綺麗だった母親に似た事は瀬川の人生の数少ない自慢の一つだったが、雰囲気は父親に似たのだろうか、黙っていると冷たく見えてしまう自分の感じが彼女はあまり好きでは無かった。
鏡を見ると、自分と母を捨てた父親の目がいつもこっちを見ている気がした。
キリッとした風貌に、しなやかに伸びる四肢。首の中程の位置で切り揃えた艶やかな髪と口元に慎ましく添えられた薄い黒子が一つ。
仕事のできる美人OLといったいい意味で目立つ見た目はこの仕事の最大の弊害ではないかと、決して誇張ではなく瀬川は常日頃思っていた。
周りの景色が見知ったものになってくる。
死人との短いドライブも終わりが近づいている事に瀬川は気が付いていた。




