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ひとつ

1

たくさんの家の生活音が絶え間なく夜中でも聞こえている団地と違って、彼の住む場所は、夜になるとしんと静まり返る。

カーテンをしめても薄明るい我が家と違い、彼の家の寝室は、夜になると真の暗闇になる。


朝、4時半を過ぎると急に、静かだった夜明け前の澄んだ朝を破って、ひぐらしが鳴き始めた。一匹が二匹になり、それを合図に次々に鳴き始める。まだほの暗い彼の部屋で、開け放した窓から聞こえてくるひぐらしの不協和音の大きさに、すっかり目を覚ましてしまった私は、夜明けと彼の目覚めを、独りぼっちで待つ。ただ自然の音たちを聞きながら。素晴らしいハーモニーはそれはどうしても和音にはならないのに綺麗で。


蝉に混じってうぐいすたちも夜明けの合唱に参加した。からすの会話だけが、ハーモニーに参加しようとしていない。相変わらず山の麓の彼の家は、自然が存在感を惜しみなく発揮している。それは7月の終わりだからなおさらなのかもしれない。


カーテンもしていない窓の、網戸にとまっていた二匹の蚊の一匹が、どこかへフラフラと飛んでいった。もう一匹はまだ、網戸にしがみついて眠っている。それらが網戸の外側にいる安心感が私を、自分の皮膚を蚊の息のかかるほど近くまで寄せてみたいという衝動を起こさせる。それは、大切なはずの彼を心髄まで困らせたくなる衝動と似ている気がして。


私をこの場所にこさせる原動力はなんなのだろう。ここは彼の家であるのに、もうここへ来る理由が彼ではないような気持ちに気づいて、ほっとする。ほっとした自分を、誇らしいような気持ちで見つめた。それは初めて自分で稼いだお金で両親にご馳走したときのような気持ち。きっとそんな自立にも似た気持ち。私はもう、彼に支配されていない、と考えてその表現は違うと否定する。最初から彼は私を支配していない。私を支配していたのは、私自身の彼に対する依存や、孤独への恐怖だった。そんな事を考えている夜明けの彼の寝室で、ふいに山々がシンとなる。だから私は、彼が隣で寝ていることを思い出す。


彼とは話もつうじないし、考え方も全く違う。彼は私をたまにばかにするし、私は彼を心の中でばかにしている。彼は堂々と譲らないし、私は譲らないことを悟らせない。彼はプライドが高いし、私はそれ以上にプライドが高い。彼は本当は諦めているし、私は諦めていると思われたい。

そして思う。2人が一緒にいる意味はなんなのだろうと。そしてぼんやり思う。それでも私は、来週末も、再来週末も、娘を預けて独りでここにくるのだろうと。


2

「それは君の考えでしょ?」と、決して私を受け入れないように聞こえる言い方で彼に言われてムッとした、出逢って3年目の記念日の夜。仕事を終えて、夏休みで暇を持て余している娘を実家に預けてから彼と向かったファミレスで。

彼は明日の行動計画をあれこれと思案することに忙しく、自分の女が今日は記念日だからなにかあるかなって、勝手にファミレスに行くって決める前までこっそり思っていたことには気づかない。彼は記念日を忘れていたからファミレスあたりで割り勘で、卵がパサパサのオムライスを自分の女が食べていてもなんとも思わなかったのかもしれない。記念日が本当は心の底から大切な私は、言うタイミングを逃してぞっとする。


「経験したことでしか、文章って書けないよね」となにげなく言った私の言葉が、ファンタジー小説を書くことを得意とする彼には、気にさわったらしいとその語尾の強さで察する。

「それは君の考えでしょ?」

なにも答えない私に2回同じ言葉をなげかけて彼は私を見る。心臓がずきんとする。


「例えば、道に膝を抱えてうずくまっている少女を見て、君はどう思う?」と彼は私を諭すかのように聞いた。私はもうさっき言われた一言で一気に気持ちが冷め、「文学談義」など、むしろ会話すらもやめてしまいたい気分ではあったけれど、少女が膝を抱えてうずくまっている姿を想像する。「具合が悪いのかな?って思うとおもうよ。」

彼はふーんとうなずきながら

「僕はね、その少女は宇宙人なんじゃないかと思う。急に地球にきて、うずくまるしかないんじゃないかって。実は実際にそれはスペインで僕が体験したこと。そこから僕のあのファンタジー小説が生まれたんだ。」


だから経験が、文章の全てではない。経験だけが文章を紡ぎ出す力を作るのではない。彼は私にそれをわからせたい。わからせたい衝動にかられている。そして彼は私にそれをわからしめるためだけにその数分に全身全霊を捧げている。


でも、彼は気づいていない。

彼ももちろん例外なく自分の経験からしか文章が紡ぎ出されていないということに。

彼女が宇宙人かもしれないという想像も、宇宙人という概念も、宇宙があるっていう知識も、日本語も、英語も、その想像力を作り出している脳の記憶も、全てが知識という過去に集めた経験であることを。それがたとえ、彼の先祖が生きた遺伝子の記憶であっても。


それから私は、うずくまった女の子を想像し思う。目の前で困っている人がいたらその想像力を膨らませて助けてやって欲しいなって。目の前で困っている人がいたら例えそれが自分の女だったとしても想像力を膨らませて助けてやってほしいなって。


一緒にいる人が、すぐそばで煙草を吸われたら不愉快かもしれないだとか、記念日はお祝いしてほしいと思っているかもしれないだとか、車の運転が乱暴すぎて乗り物に弱いこの人にはきついかなだとか、その、うずくまる女の子を見て宇宙人かもと思うくらいの絶大なる想像力を膨らませて、ちょっぴりだけ私の感じていることを想像してほしいなって、彼の話を上の空で聞きながらそう思っていた。


そしてそんなことは、絶対に彼には言わない。だって私は、プライドが高いから。それに私も

所詮、彼とまったく同じだと知っているから。


3

良い行いだということが、人を傷つけない理由にはならない。だから、良い人であることが、良い事であるという事にはならない。

そんな風に思うようになったのはいつからだろう。いつも正しさを振りかざす彼に、気持ちがささくれ立つからだろうか。自分が善人になりたくて、人を傷つけ続けて来たと知ったからだろうか。自分の中にずっとあった意地悪さを、意地悪さだと認識したからだろうか。良い事や悪い事など、この世の中には無かったんだと腑に落ちたからだろうか。

そしてきっとそれを理解したおかげで、生きるのが少し楽になった気がする。


娘の不登校のことなんかを彼に話したところで

期待するような答えなど返ってきはしない。いや、ただ娘の不登校のことにかこつけて私は

彼にコミュニケートしたいだけだ。正当な理由のように錯覚するのかもしれない。娘の問題であれば。


わかってほしかっただけだと今なら思う。つらかったんだってことを。甘えたかったんだと思う。でもむりだった。甘えさせてくれないなら、あなたなんていらないと彼に思って毒づく。もはやあなたにとって私が、空気のような存在なら、私なんていらないでしょ、と。解放してあげる。ちょうど節目の3年目に。私はもう、あなたなんていらない。私に夢中じゃない男なんて私には必要ない。

完全に私を信用し、リラックスし、「僕」を一番大切に扱う彼を見ながら、そう心の中でこっそり毒づき、前みたいにニコニコするのはやめ、無表情になる。それから思い出す。やっぱり出会った頃とは変わってしまったと。


彼の家に行くと大抵、午後昼寝をする。始めのうちは苦痛だったがそれも諦めた。せめて昼寝のあと、彼に可愛がってほしくてキスを浴びせて身体に触れる。でも彼が私がまとわりついているにも関わらず、すっと起き上がって寝室を出て階段をおりていく音を聞きくとき私は、火照り始めてしまった身体と、ものすごい勢いで自尊心をへし折られたような気持ちを持て余すあまりにそのまま自慰にふけり、少し時間をおいて階段をおりていく。

そんな時、私を可愛がってくれない男などいらないと思っている。猛烈に腹のそこから屈辱感が湧き上がっている。私をいつも一番に思い、自分のことよりも可愛がってくれない男などいらないと。いつもいつも私に夢中になってくれる男じゃないならいらないんだって。


でもたぶんそれは初めからそうだったんだろうってどこかでわかってもいる。

そしてそのほかの大抵の時間、彼は私に心から優しいということも。


本当は気づいている。なにをも、すべてが、誰かに答えを委ねられることなんてないと。何一つ自分の思い通りになることなんてないと。私のこの、目の前で起こる事柄についての感情など、私が作りだしているだけなのだから誰にぶつけても無駄だと。


4

彼に気持ちをぶつけていた時期があった。時期があったというより、出会ってからずっと、つい3ヶ月ぐらい前までずーっとだ。私は二度目の結婚が破綻したときに、自分の男性への依存や執着に気づいていた。自分が依存や執着から抜け出せない限り、男性とうまくつき合えないと理解した。心の平穏が欲しいと思った。次こそはちゃんと自分を生きたいと思った。だから彼を利用した。彼と向き合い自分と向き合うことで、本当の自分を生きたいと思った。出会った頃彼は、どんなあなたでもいいと言った。僕はあなたを裏切らないと。自分を出して本音で接してそれでも離れていかない人がいるのだと、僕で気づければ、その苦しみから救われると。


でも結局その約束は守られなかった。どんなあなたでもいい、どんなあなたでも僕は受け止めるという言葉のその後に「但し僕に精神的にも経済的にも余裕がある時に限る。」という至極当たり前の注意書きがあったのだということを、3ヶ月前、彼のくれたメールでやっと読み取った。



「僕は君の求めることに応えられない。僕にはそんなにメールのやりとりはできないし、出会った頃のようにはできない。

もうつかれた。

これからも同じように求めるなら諦めてほしい。


少し距離を置こう。


少し離れたら、一緒にいる意味がわかるかもしれない。」


本当に離れてみたら気がつくだろうか。なにかもっと大切なことに。記念日なんかよりももっともっと大切なことが私にも現れるだろうか。彼のなににも執着しない平凡な日常が。そしてああって気づく。すぐにでもその平穏は手に入れられるのだと。たったの五秒で。どうすればいいかなんてとっくにわかっているのに、私は怖くてそうすることが出来ない。



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