八葉め
無論、ふざけてばかりだったわけではない。
ジュードやノランの協力を仰いで、私は全力でシヨウを教育した。
常世の森羅万象、私の知ることすべてを、教えてあげようとした。
――しかし私は、シヨウにだけは聖女の真相を教えないように厳命を出した。
シヨウは穢れなく、綺麗に育っていた。
だんだんと心を取り戻しつつあった彼は、私のいうことだけを聞いて、私に全幅の信頼を置いた。美しいシヨウの前では、私も美しい聖女でいたかったのだ。
この世の綺麗なことだけを教えて、この神殿のようにすべての穢れを取り払った存在に、シヨウにはなってほしかった。
「シヨウはお利口さんだね」
そういって頭を撫でると、シヨウはふわりとはにかんだ。表情がない代わりに、シヨウは照れるとすぐ赤くなった。
「綺麗だし、頭が良いし、魔術や剣術もできる。だからきっと王宮騎士にだって、王宮魔術師にだってなれちゃうね」
もちろん、神殿の中にいては、どれも叶わぬ夢だ。
けれど私は、シヨウを主人公とした夢物語をいってきかせた。
やがて神殿の外に出たシヨウは、エドアルドの王女様に一目惚れされて結婚したり、神話上の怪物と戦って国民の英雄となったり、世界の覇者として君臨したり……ともかく輝かしい功績と栄誉を手にする。
そんな空想をシヨウに聞かせているときが、一番自分が自由に感じた時間だ。
「私は……ユリ様のお傍にいたいです」
だけどどんなに煌びやかで楽しい外の話を聞かせても、シヨウは小さな頭を振ると、ぽつりと漏らした。
私はそうシヨウがいうと知っていて、それでもその度に胸のうちが暖かくなって、シヨウをぎゅうっと抱きしめた。
しかし、あからさまな贔屓のせいか、シヨウは他の者たちから煙たがられるようになった。
毎日授業を四時間も取れば、それだけ他の者たちは私のいない部屋で過ごすことになる。シヨウの性格の問題ではなく、単純に嫉妬によるもので、嫌がらせされていたらしかった。
とはいえ、ノランとアーネストだけは、シヨウを弟分のように可愛がっていた。
才能に愛された彼は覚えが早く、しかも素直なので、いろいろと教えるのが楽しかったのだろう。
「シヨウ、お前のいた国って、どんな感じだったんだ?」
ある時、ノランとシヨウが会話しているのを偶然聞いた。
「……そんなことを知って、どうするの。行けないのに」
精悍な顔立ちに、ノランは苦笑を浮かべた。
困ったような、悲しいような、そんな人間らしい複雑な笑みだった。
「大切な人間のことは、理解したいと思うだろ?」
「大切?」
「ああ、好きなひとのことは知りたい。そう思ったことはないのか」
シヨウは、首を傾げた。
いずれお前にはわかるさ、とノランはぐりぐりとシヨウの頭を撫で付けた。そして、
「好きっていうか、まあ、俺にとってお前は弟みたいなもんだからな。その怪我だって、どうせアーサー辺りにやられたんだろ? なにかあったら、相談しろよ」
まさか怪我まで負うほどに嫌がらせされているとは知らなかったので、驚いた。
しかし、授業をやめるかと後日聞いても、シヨウは静かに首を振った。有無を言わせない、頑なな態度だった。
それならばと、私は気にせず続けることにした。
べつに誰と誰が仲が悪いだとか、そんなことは私にとっては瑣末なことだった。
彼らは――所詮シヨウさえも、私の暇をつぶすための道具であって、それ以上でもそれ以下でもないのだから。
召喚されてから五年の月日が経ったとき、私はだんだんと元の世界のことが思い出せなくなっていった。
とてつもなく、怖かった。夜に帰り道のわからなくなった子どもみたいに、不安になった。
そういう時は、ジュードの出番だった。
「ユリ、大丈夫だよ。君が望むのなら、どんなことだってしよう」
「本当……?」嘘だと知っていても、そう返した。
「ああ。私が君の傍に居られるのなら、なにも惜しくはない。君を現世へ返すことだって、エドアルドに盾突くことだって」
夜に添い寝してもらいながら、彼は一晩中背中をさすってくれた。
そんなことをしばらく続けていたら、ジュードが王宮へ手紙を書いてくれた。
次の週には、私が異世界へ来るときに持っていたカバンが返ってきた。いっしょに来ていたとは知らなかったので、それは僥倖だった。
「また他のものに気を取られちゃうけど、いいの?」
戯れに聞くと、ジュードは甘い顔立ちを綻ばせて、「それが君の幸せなら」と答えた。ジュードは感情の機敏が穏やかすぎて、面白みに欠けているな、と思ったのを覚えている。
それから、部屋を出てひとりになった。
カバンの中にあるものを手に取り、触っているうちに、なんだか無性に泣きたくなった。
その日なにげなくカバンに入れていた飴玉や、駅で配られたポケットティッシュ。そういったものを撫でていると、すべてが悪い夢で、私はまだ十四歳の少女なのではないかと、そんな気がしてくるのだ。
ひとしきり涙をこぼしたあと、私は感嘆の声を漏らした。
喜ばしいことに、カバンのなかには父のタブレット型コンピュータとソーラー充電器が入っていたのだ。
あの日すっかり忘れていたけれど、母に会社の近くまで行くなら届けて欲しいといわれていたものだ。
恐る恐るボタンを押すと、なんとまだ動くことができた。
中には大学レベルの専門書や、ビジネス書など、たくさんの書籍が入っていた。それからは、ほとんどの時間、私はひとりでそのタブレット型コンピュータを使うようになった。
現実世界に帰った時にはいったいなにになろう。
高校を卒業して、大学受験して、研究職につこうか。それとも、やっぱり父のように会社勤め?
そんなことを空想しながら、勉強に明け暮れていた。
たぶん私は、現世というものを信仰していたのだ。
究極の状況下でひとが神に祈るように、私のなかで現世は崇高で美しい存在へと姿を変えていった。
私がタブレットに夢中になったせいで放って置かれたノランたちは不満そうだった。
面倒になったので、神殿の中なら好きに出入りしていいと許可して、部屋も分けることにした。たまに夜に寂しくなったら、誰かを呼ぶくらいだった。
しかし、それでも彼らは昼も私の周りをうろうろとしては、気を引こうとした。
一言命令すればどこかへ行ったからそこまで鬱陶しくはなかったので、放っておいた。
シヨウの授業だけは、きちんと続けた。
毎日決まった規則でなにかをするというのが、私にとって時間の経過を知る唯一の方法だったからだ。それに、シヨウの傍にいることは、私も好きだった。
「あなたの生まれた世界のこと、教えて欲しい」
あるとき授業中に、そんなことをシヨウにいわれた。
十四になったシヨウは、わずかながらも自分の感情を主張するようになっていた。
だけどまるで禁句のように誰も口にしなかった私の世界のことをいわれ、どきっとした。そしてそのとき始めて、あんなに小さかったシヨウが私の背を追い越そうとしていることに気がついた。
変化があったのは、体軀だけではない。
菫色のガラス玉のような瞳だけはそのままに、少女のような顔立ちは、研ぎ澄まされた美しさに取って代わられていた。
ジュードやアーサーのような華やかさや、ノランやギルバードのような男らしさはなかったが、不思議と目を離せない魅力があった。
例えるのならば、澄み切った月が薄い肌を透かして輝いているかのような、そんな静謐な美貌だった。
いままで一度たりともシヨウに手を出したことはなかったが、ふと思い立って、彼の頬に手を伸ばした。抵抗されなかったので、そのままくちびるを重ね合わせてた。
シヨウはただただ受け入れていた。
瞼を下ろしていたから、あの綺麗な瞳が見れないのは残念だったけれど、代わりに長い睫毛が間近で見られた。緊張しているのか、かすかに震えていた。
体を引き離すと、シヨウをもう一度まじまじと見てしまった。
なぜいままで気づかなかったのか不思議だった。彼はすっかり成長していたというのに。
「どうして、突然そんなこといいだしたの?」私はやっと本題に戻った。
「知りたいから」
答えになっていなかった。
けれど、シヨウはもともと口数の少ない子だったので、気にならなかった。
それにどんな理由をいわれても、現世のことを話すつもりはなかった。
「髪伸びたね。切ろっか」
艶やかな濡れガラスの髪が、まだほっそりとした首に絡まっていたので、聞いてみた。
唐突な提案だったけど、シヨウは頷いた。
私はこちらへ来てからというもの、気まぐれで感情的だった。気分によっては返事をしなかったり、まるで関係のない話を始めたり、ともかくわがままな態度を貫いた。
だからなにかを聞いて肯定の言葉が返ってこなければ、シヨウ達は自然とそれを否定と捉えているようだ。
適当に短く切りそろえただけで、シヨウの髪は元が良いからか様になった。端麗な顔がより強調されて、私はその結果に大変に満足した。
「うん、短い方が似合うね」
指通しのいい髪をひとふさ摘んで弄んでいると、シヨウがかすかに身じろいだ。透き通るように白い肌に、朱色が差していた。
一瞬だけこちらを振り返ったシヨウの菫色の瞳は、切ないような、それでいて浮かされたような熱を孕んでいた。
シヨウにもそんな気があるのかと、驚いたものだ。
ジュードたちと違って、シヨウとは一度も褥をともにしたことはなかった。出会った時は八歳の子どもだったし、五年経ってもたったの十三歳――私が召喚されたときの年齢より若い。さすがに欲情したことはなかった。
けれど、あと五、六年もすれば、彼はさらに美しくなるだろう。その時が楽しみだと、そう思った。
――しかし、そんな日が訪れることはなかった。
私はあくる日、シヨウを神殿から追放したのだ。
その日の授業は、いつも通り滞りなく終わった。
私は自分の現世のカバンをたまたま持っていて、それを部屋に置きっぱなしにしたまま、誰だったかに呼ばれて外に出た。
部屋に戻ったら、シヨウは私のカバンを持ち上げて、熱心に眺めていた。ただそれだけだ。
――だが、たったそれだけのことが、私には許せなかった。
いつしか私は、現世のことをどこか神聖なものとして見ていた。
この暗く終わりのない道を進んでいくための、唯一の灯火が現世の存在だった。
私にここ以外の居場所があったのだと、そう証明できるたったひとつのものが、そのカバンだった。
常世の人間がそのカバンに触れたことによって、尊いなにかを永遠に穢されたかのような、そんな妄執に私は囚われたのだ。
ぐちゃぐちゃな心をそのままぶつけるようにして叫んで、喚いて、シヨウを神殿から追い出した――二度と帰ってくるな、そう最後に言って。
その日のことはほとんど思い出せない。
でも、シヨウが最後の瞬間、途方もなく傷ついた顔をしていたのは覚えていた。親から見放された子どものように。
だけどすぐに私のことを憎むようになるだろう。そんな確信があった。
外の世界を知れば、いかにこの閉ざされた神殿が狂った場所だったか、自ずと気がつく。そのとき、私がしてきたことのすべてを軽蔑し、憎悪するはず。
シヨウがいなくなって、それで私が自分たちを少しでも見てくれると、他の者達が喜んでいた。
ノランとアーネストだけは、咎めるように私を見たけれど、なにもいわなかった。
一言でも不平を漏らせば、彼らも追い出していただろうから、それで正解だろう。
誰もが、神殿から追放されることを忌避していた。
私に見放されることを、死よりも恐ろしいものと考えていたらしい。
――滑稽極まりなかった。
四年前までは、出たくて出たくて仕方がなかったであろうこの神殿。
だというのに、いまや、ここから追い出されることを、まるでアダムとイヴが楽園から追放されることのように捉えている。
私の身の回りの世話係は、シヨウがいなくなってからは交代制となった。
かすかな寂しさはあったが、だからといってなにか変わるわけではなかった。
むしろ、私の気は少しばかり楽になったかもしれない。
シヨウの瞳を見ていると、私は不思議な感覚に囚われることがあった。
懐かしい故郷を見て胸がしめつけられるような、それでいて、もうけっして戻ってはこないないかを見させられるかのような。苦しいはずなのに、その感覚にずっと陥っていたいと、なぜかそう思わさせられる――とても奇妙な感情だった。