四葉め
それからしばらく経った、ある日のことだ。
私は夢の中で、聖女がそれぞれ持つという特別な力に目覚めた。
私が目覚めたのは、『万里眼』という能力だった。千里眼じゃない、万里眼だ。
なんでそんな名前なのかは知らない。勝手に頭の中にインプットされていた言葉だから、説明のしようがない。
千里眼がどこまでも見渡せる能力だとしたら、万里眼は万能の眼。
過去と現代のどの場面、どの空間をも見通すこともでき、さらには人の思考さえもある程度見渡せてしまう。
そこで私はふいに視たくなった。前代の聖女が、どんなひとだったのかを。
前代の聖女を見たいと念じていると、神殿の部屋のひとつが頭の中に映し出された。
『おかしいのね、最近、なんだか体を動かしづらいの』
白髪混じりのブルネットの髪の、三十半ばほどの女性が弱々しくベッドの上で微笑む。
その下にある大きな紋章は、私のものと違って、消え入りそうに擦れていた。いまにも枯渇しそうな水脈、というのが正確な表現になるだろう。
『フェリックス、あなたの優しい顔が見たいわ』
悲しげにそういいながら、やつれきった女性は両手を空で動かした。
その手を優しく握ったのは、見覚えのある男性――そう、確か初日に私に聖女の役割について説明してくれた、綺麗な顔立ちの男性だ。
フェリックスというのか、と夢の中で漠然と私は思った。
『なにも心配することはない。いままでの聖女にも、こうした不調はあったらしい』
『でも、今回のはずいぶんと長引いているから……』
『きっとずっと神殿の中にいたから、息が詰まってしまったのだろう。外の空気を吸えばきっと体調もよくなる』
『いいの? 五年間、いままで一度もここから出られたことはなかったのに』と、女性は薄緑の瞳を見開いた。
『ああ、外にいる間は私が君を守る。ここから出たって、誰にも文句はいわせないさ』
『それなら、王宮へ行ってみたいわ。お城の中が見てみたい』
『君ならそういうと思っていたよ』
彼女は両手を少女のように合わせると、照れたようにはにかんだ。
それから、ひっそりと『ありがとう、あなたを選んでほんとうによかった』というと、フェリックスの肩にもたれかかった。
――しかし、王宮へ行った彼女を待ち受けていたものは、残虐な結末だった。
『ねぇ、みんなどこへ行ってしまったの? まるで見えないの。怖いわ』
煌びやかな王宮の大広間に放り出された彼女は、不安そうに辺りを見渡している。起き上がる力も、もう残っていないらしい。
だけど、見えない方がよかっただろう。
彼女の周囲には、ぼろぼろの服をまとった二百人ほどの死体が積み上がっていた。
彼女を囲うのは、既視感のある格好の人たち――そう、私が召喚されたときに目の前にいたローブ姿の男たちだ。
『もはや一刻の猶予もございません。どうにか贄の準備が間に合ってよかった』
『今回の”聖女様”はいやに弱かったな。やはりだめだ、弱い異界人は役に立たない』
『次、もし力の弱い女がくれば、そのときは天帰りしてもらおう』
不穏な会話に、びくりと彼女は肩を震わせた。
『ねぇ、なにが起きているの? フェリックス、フェリックス、助けて!』
『はい、ここに』
『ああ、よかった、フェリックス、そこにいたのね』
安堵する彼女に、彼の右手に収まる剣が見えていないのは、幸福なことだったのかもしれない。
『あなたは昨日、私を選んでよかったといった』
『フェリックス……?』
『しかし私は、あなたに選ばれてからの五年間、苦痛で苦痛で仕方がなかったよ。しかし、まあ、とりたてて美しくもない女のご機嫌取りも、今日で終わりだ。君が短命で、心から感謝しよう』
振り上げた銀に光る剣は、深々と胸に突き刺さり、彼女を床に縫い付けた。
『あああああぁぁあぁ!! 熱い、苦しい、助けて、苦しいぃっ……!!!』
もがき苦しみながら喉をかきむしる彼女は、どろりと赤く溶解したように形をなくしていく。周囲の死体たちもまた、ともに溶けていった。
その赤色の穢れた液体はやがて魔法陣を形作り、さきほどまでの凄惨な光景が嘘のように神々しく輝いた。
――そしてそこに現れたのは、私そっくりの女の子だった。
そこで目を覚ました私は自分の行く末を理解して、錯乱した。
「ユリ様、大丈夫ですか!?」
そう泣きそうにいいながら、ハーブティを入れてきたギルバードを突き飛ばし、茶器を投げつけた。
なにがあったのかとかけつけたみんなに、自分でもなにをいったかは覚えていない。わめき散らして、叫んで、気がついたら部屋にひとりになっていた。
落ち着くために水を大量に飲み、それをすべて洗面所で吐き出したころ、やっと幾分か冷静さを取り戻すことができた。
「大丈夫、私は大丈夫だ……」
鏡の中の自分に、必死に言い聞かせた。
――唯一の救いは、私の能力が万里眼であること。
そしてそれを、まだ誰にも知られてはいないことだ。
そう考えることによって、なんとか正気を保つことができた。
聖女召喚にまつわる魔導書や、過去の聖女たち、様々なものを一日かけて見て、茫漠とした情報のなかから私は知ることができた。
現世と常世、この世には二つの世界が鏡合わせのようにある。
簡単にいってしまえば、現世が、魔術の使えない世界。私たちの世界だ。
そして、常世が魔術が存在する世界。私が喚び出された世界のことである。
常世の人間と違って、現世の人間は魔力を使わない。
常世では、生きているだけで魔力を削り取られていく。
肉体の年齢だけでなく、精神の年齢というものが存在しているのだ。さらに、魔道具を使って快適な生活を送りたければ、魔術師でない平民も魔力を消費しなければいけない。
だから魔力の弱い子どもが生まれてくれば、その瞬間に殺してしまうのが親の愛だ。
常世の人間は、肉体の死を恐れない。生まれ変われることを知っているからだ。
ただ代わりに、精神の死というものを、常世の人間はなによりも恐れる。
精神の死――即ち魔力切れとは、魂の消失を指す。
それは真の死――輪廻の輪に乗ることもできず、存在が消失してしまうということだ。
だから魔力の弱い人間は、肉体の死の前に精神の死を迎えてしまうかもしれない。
それくらいならば、いっそ現世に生まれ変われることを願って、生まれたばかりの赤子を殺してしまおう。それを天帰り、とこちらの人間は呼ぶ。
さて、現世には魔導という概念が存在しない。
つまり、現世の人間は、生まれた時から使われなかった大量の魔力を、体の中に蓄積している。
そういった人間を現世から呼び寄せ、うまく騙して契約すれば、魔力を湯水のように使うことができる。この世界のどの国の文献にも見られる、周知の事実だ。
しかし、もちろんそんな魔術を成功させるには膨大なエネルギーを必要とする。
術が成功することは稀で、失敗すれば術者が死ぬ。しかも、代償に必要とされる供物はあまりにも大きかった。
どの国も、その魔術の研究を中途で諦めた。
だが二千年前、エルアルド王国だけは、極めて残忍な術でその欠点を補うことに成功したのだ。
一度異世界人を呼び出し、魔力を枯渇する寸前まで使う。
では、次の異世界人をどうやって召喚するのか?
それだけ酷使してもまだ飽き足らず、死にかけの異世界人にやらせればいい。精神の死を迎えるまで魔力を放出させ、魔法陣に流し込むのだ。
現世との繋がりが深い人間の方が、格段に術の成功率は高いうえに、魔力も豊富なのだから。
そこでエドアルド王国は、数百人ほどの生贄(大体の場合、侵略された他国の民である)と異世界人の最後の魂を燃やして、魔術を完成させることに成功した。
なんの術式かもわかっていない異世界人を魔法陣の上に立たせ、数十人の魔術師で囲ったのだ。
逃れられないよう異世界人を固定したところで、五臓六腑を熱された虫が這いずり食い破っていくような人智を超えた痛みを、魔術師たちが呪いで与える。
異世界人は、あまりの苦悶に、死んでもいいからその場から逃れたいと無意識に願い、魔術を発動させる。
次に召喚された異世界人の魔力が強ければ、また数年間魔力を引き出し続ける。
しかし、そうでなければ天帰り(隠語であり、常世での本来の意味とは違う)――数日のうちに同じ儀式を繰り返し、新たなものを喚び出す。
そうして次々と異世界人を使い捨て、エドアルド王国は無限に等しい魔力を自在に使い、他国を侵略していった。シヨウの国(名前がないのは、エドアルド国が魔術で奪ってしまったからだ)が滅んだのを最後に、エドアルド国が世界の絶対の支配者となった。
もちろん、召喚された現世人とて、私のようなマヌケばかりではなかった。
いくら報奨金や手厚い待遇を約束し、さらには最後に存在が消滅することを隠しても――契約を渋るもの、元の世界に帰ろうと反抗するもの、素直に従う異世界人のほうが初めは少なかった。
そこでエドアルド王国は、ある打開案を打ち出した。
男が来れば、あなたは勇者です。女が来れば、あなたは聖女です。そう教えるのだ。
そして、あるパフォーマンスを披露する。
見目麗しい異性を用意して、召喚されたものを囲ってみせる。
『どうかこの世界を救ってはいただけないでしょうか』
そうして、一言でも異世界人が肯定するような言葉を発した瞬間、下に隠されていた魔法陣が発動し、身体中の魔力が流れ出す。あとは、異世界人がその魔法陣の近くにいる限り、無尽蔵に魔力を引き出すことができる。
もちろん、異世界人もしばらく時間が経てば、外へ出たいだとか、家へ帰りたいだとか言い出す。
そうならないように、限りなく魅力的な異性――彼ら、あるいは彼女らは、異世界人に対して惜しみない愛を注いでくれる。
異世界人を巡って美男美女が争い、ロマンチックなドラマを繰り広げ、極上の幸せを提供する。
その役目を担うものは国の重役であることが多く、もちろん異世界人だけに手を焼いてはいられない。
だから、十人程度を初めから用意する。彼らあるいは彼女らは、最初の半年ほどは異世界人につきっきり。あとは、週に一度や二度、交代で訪れるようにする。
あのフェリックスという男がうんざりしていたのは、前の聖女がとても誠実な人間だったからだ。彼女は、複数の異性と関係を持つことをよしとせず、フェリックス一人と結婚することを選んだ。
しかし、それは逆にあの男からすれば責務をひとりで負うこととなったわけである。だから鬱憤を貯め、最後にわざわざ冷たい言葉を突きつけ復讐したのだろう。
常世の人間とは、現世の人間に対してどこまでも傲慢なのだ。