十五葉め
誰もが全身の神経を研ぎ澄まし、気迫を切っ先のように互いの首に当てている。
まさに一触即発――そう思われたとき、不愉快な耳鳴りが私を襲った。
「うぅッ!」
鼓膜のさらに奥、まるで脳に突き刺すかのように響いてくる不快な音に、私は蹲った。
それは誰にとっても同じだったようで、みな膝をついて耳を抑えている。
さらに大きくなる、まるで空間そのものを突き破ろうとしているかのような、バリバリという音。
地が裂けるようにして、見覚えのある術の紋章がアスファルトに浮かび上がる。どろりと禍々しい真紅に染まった魔法陣が、まるで闇を放つ光のように、黒々と輝きだした。
数千人の人間の断末魔の声が、不協和音のように響く。
中には、幼い子どもの悲鳴も混じっている。
それは――魔力が足りず、代償として人間の魂を捧げたときに起こる現象。
王宮魔術師に違いないと、思い当たる。
常世の人の命さえ塵のようにしか捉えていない彼らなら、魔力が足りなければそうするだろう。
私は、なにも考えていなかった。
ただ帰りたくて、帰りたくて、その結果エドアルド国がどんな行動に出るかなんて、なにも。そのせいで誰かが犠牲になる可能性なんて、考えようともしなかった。
「ユリのせいじゃない」
シヨウがそんな思考を遮るように、私の手を握って、自分に引き寄せた。
「王宮魔術師たちだ! 構えろ!」
真っ先に態勢を立て直したジュードが、焦燥感を露わに叫ぶ。
耳鳴りの余韻のせいで三半規管がまだ狂っている。
くらくらする頭を押さえていると、気がついたら私を守るように、ジュードたちが周囲を囲っていた。
「え……」
どうして、とジュードに聞く前に、悠然とこちらに歩み寄ってくる王宮魔術師の筆頭――フェリックスが薄くくちびるを開いた。
「王太子殿下、もとよりあなた様がこの現世人を生贄にする計画に、嫌悪感を抱かれていたのは存じ上げておりました。しかし、よもや殿下が背信行為に手をお染めになるとは、国王陛下もお嘆きになられましょう」
そしてついと、ノランやアーネスト達にも、軽蔑の眼差しを向ける。
「貴殿らも、己の職務を忘れて現世の女などにかどわされるとは。エドアルド貴族のかざかみにも置けない」
「さすが師匠は出来が違う。僕の張った結界を一週間で破ってしまうなんて、ね」と、さして焦った様子もなく、感心したようにアーネストは笑う。
ふんと不遜に鼻を鳴らしたフェリックスは、
「五日だ。貯めておいた聖女の魔力は、お前達の現世渡りにほとんど費やしたからな。生贄を用意するのに二日かかった」
そう会話している間に、フェリックスの後ろで、ゆらりと黒い影が炎のように揺らめいた。
それはやがて人に形を変え、あらたな王宮魔術師達が姿を現す。
――二十人以上、ほとんどの王宮魔術師がここに集結したことになる。
「どうやら時間がないようだね」
と嘆息したジュードは仲間たちに目を向けると、
「アーネストとアーサーは、向こうから魔法陣を塞いでくれ。王宮魔術師はほとんどこちらにいるから、向こうのほうが手薄のはずだ。それからノランは二人を援護してくれ。ギルバード、フィリップ、君たちは私とともにここにいる敵を迎え討つ」
ジュードが言い終えるや否や、ノランが前へ飛び出し、それにアーネストとアーサーが続く。
「みすみす通すと思っているのか!」
王宮魔術師たちの下に、大きな魔法陣が現れる。魔法の出現に伴う激しい閃光で、私の視界は塞がれてしまった。
剣と剣がぶつかり合う音が、至近距離から響く。
見えてさえいないのに、激烈な戦いの気配に恐怖で身が竦んだ。頭を抱えるようにして、ぎゅうっと目を閉じる。少しでも戦闘から自分を遮断しようと、ただそれだけに必死だった。
常世にいたときは、なにも恐るものなどないと感じていた。
最強の聖女と謳われ、万里眼さえあれば、世界の果てまでも見通すことができた。
「ユリ……」
愕然とした声で名前を呼ばれて、目を開ける。
怯えきって身を縮める私の様子に驚愕したのか、ジュードは信じられないものを見たかのような反応だ。そして、敵と剣を交えながらも、鞘をさっと手渡してきた。
「それを持って、端のほうに隠れていてくれないかな」
ずしりとした重みを手に感じるとともに、体の周りにまどやかな光の球が現れる。
豪奢な金の装飾に、はめ込まれたおびただしい数の魔導石――召喚されたすべての異世界人の魔力を込めたものだ。
ジュードが持つ、この世でもっとも尊いとされる聖剣の鞘は、常世のどんな魔術でさえ跳ね返してしまうと云われている。これを手にしている限り、魔術の攻撃は一切効かない。
けれど、ジュードの言葉に乗せられて隠れていいのだろうか。
「シヨウ、いい?」
「ここからなるべく後ろに離れてほしい」
指示を仰ごうとシヨウに聞く。すると彼は敵を足で蹴り飛ばしながら返事してくれた。
願ってもない答えに頷くと、私は剣の鞘を握り締め、脇目も振らずに逃げた。
倉庫の端に積み上げられていたダンボールの後ろへ隠れると、しゃがみこんだ。
「大丈夫だよね……」
そう自分に言い聞かせつつも、ジュード達が本当に勝てるのかどうか心配だった。
王宮魔術師たちは、いままで私や他の異世界人たちから吸い取り貯めてきた魔力をすべて使い切ってでも、私を取り戻そうとするだろう。
「私はなにもできない。仕方ない。出ていたって、死ぬだけ」
そう呆然とつぶやきながら、耳をふさいで、目をつぶった。
なんの防御にもならないことはわかっていた。まるで子どものような、馬鹿らしい格好だった。
分かっていも、手足を震わせ、汚れた地面にうずくまることしかできなかった。
――そこからは、あまり覚えていない。
遠くで繰り広げられる激烈な命のやりとりに怯えながら、ずっとそこに隠れていた。
私には何日もそうしていたように思えたが、実際には数十分――いや、数分の間の出来事だったのかもしれない。
「ユリ様、逃げてください!」
現実から自分を引き離して、思考さえも放棄していた私は、その切羽詰まった声でやっと顔を上げた。
「あ……」
王宮魔術師の豪奢な装束に身をまとった大男が、こちらに向かって斧を振りかぶっていた。
――そうだ、とその時やっと思い立った。
魔術が効かずとも、彼らは私みたいなか弱い人間、いとも簡単に無力化できてしまうのだと。
血に濡れた凶悪な武器を見て、恐怖に凍りついたように体は動かなかった。
結局私は、恐ろしい現実から目を背けようと、また目を瞑ることしかできなかった。
「ぐぁっ……」
ぐちゃりという、生々しい肉の裂ける音と、男のうめき声。
恐る恐る目を開けた。
腹から血の滴る剣を生やした男が、いまにも絶命しそうに震え、しかし最後の瞬間まで獲物である私を睨んでいた。
――逃げねば。
やっと脳の指令を体が聞いて、私は這いずるようにして、倒れてくる男の巨体から逃れた。
「助けて、シヨウ……助けて!」
うわごとのように叫びながら、隠れていた荷物の外へと飛び出す。
目の前には、凄惨たる光景が広がっていた。
魔術によって燃やされた焼死体、氷に体を貫かれた死体に、体の一部が欠損しているものまで、あちらこちらに転がっている。戦いの凄惨さを表すように、それらの死体にはすべて、致命傷以外の傷もたくさんあった。
いくら敵の王宮魔術師とはいえ、人が死んでいるという事実は変わらない。
常世にいたときには少しも心が動かなかったというのに、いまは大量の血を目の当たりにして、吐き気がこみ上げてくる。
「うっ……」
口元を押さえた時、はたと気がついた。
――ジュードの鞘を、置いてきてしまった。
まずい、と引き返そうとするが、当然敵がそれを見逃すはずがない。
「いまだ、女を狙え!」
フェリックスが、残る数人の王宮魔術師たちに命ずる。
いまの私には目視できない早さで、氷の槍が空中に形成されていった。矛先はすべて、私に向けられている。
――誰か、誰か。
破裂しそうなほどにうるさい動悸の音にめまいを覚えながら、救いを求めて周囲を見渡す。
シヨウは遠すぎる。
魔法陣を展開して、王宮魔術師の無効化しようとしているようだけれど、間に合わないだろう。
ジュードは、もはや動けるのが不思議なほどに負傷していた。
どこが怪我をしているのかわからないほど、血を流している。
片手が動かないのか、だらりと垂れ下がっている。とてもじゃないが、魔術は使えないだろう。
フィリップは――フィリップは、もう息絶えていた。
艶やかだった青色の髪には赤黒い血がこびりつき、体は血の池のなかにどっぷりと浸かっている。
――私は助からない。
一瞬のうちに、その判断を下す。
けれど、その言葉を――自分が死ぬということの意味を、理解する暇もないまま、
「――ユリ様!」
力強く腕を引っ張られ、目の前に王宮騎士の団服を着た銀髪の男――ギルバードが、飛び出た。
私が受けるはずだった氷の槍が、次々とギルバードの体を貫いていく。
次々と刺さるおびただしい数の鋭利な氷が、十歳の頃からずっとともにいた青年の体から、確実に命を削り取っていく。
床に手をつきながら呆然とそれを見る私の顔に、血しぶきがふりかかる。
その生暖かさに、現実に引き戻された私は、倒れてくるギルバードの体をなんとか受け止めた。
「なんで……」
ギルバードならば、あれくらいの攻撃、剣で撃ち落とすことができたはずだ。
いや、そもそも王宮魔術師たちは、足や腕を奪うことはあっても、決して私を殺しはしない。身を呈してかばう必要性なんて――と、そこまで考えて、ようやく気づく。
さきほど、私を狙う王宮魔術師に刺さった剣。
あれは、ギルバードのものだったのだと。
「俺は……ユリ様の、傍に……」
掠れた声で、最後の吐息を使ってギルバードはそういった。
私の腕のなかでこのうえなく幸せそうに微笑むと、銀雪のような瞳をこちらに向けたまま、息絶えた。
――私は、悲しみを感じているのだろうか?
自分でも、よくわからなかった。
ギルバードは、酷い状態だった。
肩は潰されたようにぐちゃりと崩れ、左足は火傷で服が肌に張り付いてしまっている。切り傷など、数えようもない。
限界まで私のために戦い、そして私を庇って死んだ。
「でも……」
そうなるように仕向けたのは、彼を閉じ込めたのは、紛れもなく私だ。
――ならこれは、望んだ通りの結末か?
これが復讐なのだろうか。
フィリップも、ギルバードも、どれだけ無駄なものに己が命を賭けたかも気づかないまま死んだ。
異世界人を利用したエドアルド国の人間に、相応わしい死に様ではないか。
だがいまになって、胸の中に浮かぶ上がってくるのは、神殿のなかで過ごした十一年間だった。
あのまま八人で私の命が尽きるまで、ずっとあそこに閉じこもっていればよかったのだろうか?
そうすれば、こんな喪失感を味わうこともなかったのだろうか?