十四葉め
突然の衝撃に、声さえ出せない。ひゅっと喉を空気が通り抜けた。骨が折れたかのような、不穏な音が体のどこかでした。
全身のどこにも力を入れることができず、そのまま床に倒れこむ。
「ふざけるな……!」
怒気を孕んだ声。
それを発した人間が、私の髪を掴んで起き上がらせる。あまりの力に、髪がぶちぶちと音を立てた。
目の前に映るのは、獰猛な瞳で私を射抜くように見据える、ギルバードだった。
さきほどのジュードたちにさえなかった殺気に、身がすくむ。
「ふざけるな、ふざけるなよ!」
私の首を、武骨な手がぎりぎりと締め上げる。
「あなたが、俺たちを閉じ込めたくせに……! もう、俺は、俺たちはどこにもいけないんだ。あなたの傍にいるしか!! そこ以外に、居場所はないのに」
燃えるような怒りが、次第に痛々しい泣き声のように変わっていく。
対照に、骨を折らんと締め上げる手の力は強くなるばかりだった。
薄れゆく意識のなかで、ギルバードの嘆きが果たして彼のものなのか――それとも私のものなのか、わからなくなっていく。
「俺には、あなたしか……! あなたしか!」
もう私の傍以外に居場所はないだなんて、可哀想なギルバード。
きっと辛くて、寂しくて、憎くて、心臓がもがれるような苦しみを味わっているのだろう。
――それなら、もういっそ諦めてしまう方が楽なのだ。
どうせ、彼も、私も、みんなどこへも帰れやしないのだから。
視界が霞んで、抵抗していた両腕がだらんと落ちた。
「やめろ、ジュード! ギルバードを殺すつもりか!?」
ノランの焦った声も、次第に遠くなっていく。
「ジュード、待って。僕がいま魔術で止めるから――いや、ギルバード、避けろ!!」
諦めかけた瞬間、目の前にいたギルバードが吹っ飛んだ。
激しく咳き込む私の霞みがかった視界では、それしか捉えることができない。
「うぐぅっ……!」
蹲るギルバードの肩からは、どくどくと鮮血が溢れ出していく。
警戒して固まったように動かないジュードたちは、ゆっくりと剣に手を伸ばした。
――なにが起きたのかまるでわからなかった。
ジュードがなにかしたのだろうか。
しかし、それならばいまの敵と対峙しているような態度はおかしい。
やがて、緊迫しきった空気の中、呆れたようにアーネストが声をあげた。
「なんで姿を見せないんだい? シヨウ。僕たちがちょっと魔術を使えば、君の姿なんて丸見えさ。自分の魔力を無駄にするだけだよ」
シヨウ……その名を聞くだけで、泣き出しそうなくらいに安心してしまった。
しかし、すぐに目をつぶってその考えをかき消そうとする。
シヨウがここに来てくれたのか――と、一瞬でもそう期待してしまった自分が、酷く恥ずかしかった。
そんな浅ましい期待はするべきじゃない。私はシヨウに合わせる顔なんてない。いままでずっと、彼を虐げてくることしかしなかった。
「え……?」
そう視線を落とすと、力を増したように輝く金色の守護の輪が目に入った。
さっき首の骨が砕けなかったのも、ぎりぎりのところでこの輪が守ってくれたからだと、気がつく。
そして、まるで主人が来たかのように、あの私を守ってくれた金色の輪は光っている。
めまぐるしい勢いで、さきほどまで感じていた息苦しさや痛みが、解けていく――それこそ、魔法のように。
ほとんど祈るようにして、私は「シヨウ」と呼んだ。
「シヨウ、お願い……いるなら姿を見せて」
ややあって、戸惑うようにしてシヨウが現れた。
敵の視界から私を遮断するように、前に立っている。
ノランやギルバードと比べれば、体格では劣る――けれど、すらりとしながらも筋肉質な背中が、とても頼もしく思えた。
もう限界だった。その背中に、後ろから抱きついてしまう。
「シヨウ……! お願い、助けて。私、もうこんなの嫌……!! 帰りたいよ、もう怖いのはいやだよ」
シヨウは微かにこちらを振り向きながら、安心させるように弱々しく微笑むと、
「ユリ、困らせるようなことばかりいって、すまなかった。それに、こんなに怖い思いをさせるまで、見つけることができなかった」
――守るだなんていって、駄目だな、俺は。
端正な顔が自嘲するように歪み、そうくちびるが動くのを見て、声が出なかった。
どうして、シヨウはそこまでしてくれる。
どうして、なんの見返りもなく、そこまで他者に――私のようななんの値打ちもない人間に、尽くすことができるのだ。
「ああ、お前は駄目だ。ずっと結界を貼り続けていたみたいだが、一瞬でも目を離すようじゃユリ様は守りきれない」
兄貴分のような気安い態度で、ノランはシヨウを見る。
「大きくなったな、シヨウ。でもどの道、お前一人じゃユリ様を守るには、荷が重い。どうやらお姫様はお前を選んだようだが、ちょっとばかし分けてはくれないか? そうしたら、こいつらだって協力してくれる。邪魔者を消したら、常世でも現世でも、ユリ様の望むところで、みんなで暮らそうじゃないか」
「ユリはユリのものだ。その交渉には乗れない。俺はなさなければならないことをなし、常世に帰るだけだ。ここから常世の人間がひとりもいなくなれば、二度と現世への道は開かない」
シヨウの言葉には、ひとかけらの迷いもなかった。
「そうか、本当にそれでいいのか? 俺にはずっと、ユリ様もお前を気にかけているように見えたけどな。ユリ様が常世に未練がある限り、道を閉じることなんて不可能だ。もう一度、ユリ様とよく話してみたらどうだ?」
獲物の槍を下げてみせたノランを、ジュードが制する。
「無駄だよ、ノラン。あの顔を見ればわかるだろう? あの乳飲み子みたいな子どもが、あそこまでの殺気を放つようになるとはね」
ふわりと微笑んだジュードは、剣を取り出すと正中線に構えた。
「でも、ユリなら交渉に乗ってくれるかもしれない。ねぇ、ユリ?」
ゆらりとジュードの瞳が、私を捉えた。
「耳を貸すな」と、シヨウは私を後ろに隠す。
「君が名を教えて、私たちが傍にいることを受け入れるだけでいいんだ。それだけで、エドアルド王国さえも裏切って、王宮魔術師を殲滅するといっているのに」
はあ、とジュードは深いため息をついた。
「では、君が交渉に乗らなかったらどうなるか、教えてあげよう。まずシヨウ。君は、どう足掻いても死ぬ」
びくりと私の肩が跳ねたのを、ジュードは見逃さなかった。
「そうだ。私たちがシヨウを徹底的に痛めつける。まずはこの場で、あらゆる精神的苦痛と、肉体的苦痛を味ってもらう」
シヨウはそれだけ聞いても、顔色ひとつ変えない。まるで自分がどうなっても構わないというように。
それがかえって、私を不安にさせた。
「それから、君とシヨウをエドアルドに連れ帰る。もちろん君を”聖女”の役目からは解放しよう。君の魔力を使って、あとひとり異世界人を召喚すればいい。こう見えて、私は優秀でね。実はまだ、王太子の地位を剥奪されてはいないんだ。私の命に逆らえる人は、そういない。あとは、そうだね。シヨウの国の民には、地獄のような生活が待っていることを約束しよう。そこまで十分に屈辱を味ってもらったあとは、シヨウの極刑と、私とユリの結婚式を、同じ日に決行しようかな」
――シヨウ君、このプランは気に入ってもらえたかい?
酷薄な笑みを浮かべるジュード。それでも動かないシヨウ。
決断するのは、私だ。目を閉じると、必死に頭を回転させる。
シヨウが殺されてしまう未来、現世の人間を犠牲にして、ここに留まる未来。
どちらも選べるはずがない。
――なら、なら方法は初めからひとつしかなかったのだ。
耐えきれず、私の方が叫んでしまう。
「私が常世に帰る。それで聖女を続ける! もう……もうそれで十分でしょ! もう私になにも聞かないで、なにもわかるわけないじゃない!」
いっそ常世へ行って、ジュードに名前を渡してしまおうか。それでもいい気がした。
現世に帰って、なにより私が絶望したのは――とっくの昔に自分が死んでいることに気づいたからだ。
もう十四歳の私はいない。
十一年間の間に、気が狂って、どこまでも歪んだ化け物に、現世の私は喰われてしまったのだ。
だからどこにも帰れるはずがない。誰にも受け入れてもらえるはずがない。
金切り声を上げて泣き出した私に、アーネストが途方にくれたような声を上げる。
「あーもう、そういってほしいわけじゃないんだよなぁ。僕たち、そこまで鬼畜じゃないよ。みんなで常世に帰るならそれでいいけど、その場合――」
瞬間、驚きに誰もが口を閉ざした。
――シヨウが、私を抱きしめたからだ。
「ユリ、ありがとう……だけど」
そっと宝物に触れるみたいに、シヨウは私の手を包むと、自分の胸に当てさせた。
どくどくと、鐘を打つ心臓の音。
例えいまはほとんど魔力を扱えない私でも、わかってしまう。それほどに、強く濃い呪術――契約。
『あなたが帰ることができなければ、俺の存在は消滅する』
シヨウのあの言葉を、思い出す。
そうだ、私が常世に戻れば、シヨウはどちらにせよ死んでしまう。
「シヨウ……死ぬつもりなの?」
シヨウは安心させるように、微笑みを口を刻む。
月明かりのように仄かで、どこか悲しくて、けれどなにより優しい笑み。
「死なない。俺はノランたちを連れて常世に戻って、あの陣の跡を消す」
へえ、とジュードが片眉を跳ね上げた。
「すごいね。君一人で私たち六人を生かしたまま倒して、そのうえ王宮魔術師も一掃して、最後には現世へ通じる道を消すと? 属国の人間の悲壮なまでの『気高さ』には、まったく恐れ入るよ。自己犠牲を通り越して、妄想癖の域に達している」
「ああ。あんたの時は、足くらい折ってしまうかもしれないがな」
シヨウにしては饒舌に嫌味を返した。思わず、くすりと笑ってしまう。
「もはや交渉でことを勧めるのは、無駄なようだな」
諦めたようにそういったノランは、槍の鋭い切っ先を、シヨウに再び向ける。
その隣にアーネストも並び、「さて、不遜な弟子よ」とどこか晴れやかに笑った。
「エドアルドの豪傑・ノランに比肩する剣術の才」
「若き叡智の泉と呼ばれたアーネストに匹敵する魔術の才」
――そう謳われたお前が師を越せるかどうか、試してみるがいい。
そう二人は宣言すると、それぞれ戦闘の準備に入る。
ギルバードとアーサーは、それぞれの師の後ろにつくと、必要とあらば手助けできるように構えた。
「多勢に無勢は、騎士道失格なんだがな。まあいい、もとからお前は気に食わなかった」
フィリップは、ジュードの左隣に並ぶと、剣を取り出す。
これだけの敵を目の前にしても、シヨウは少しも自信を崩さない。
落ち着き払った様子で剣を構え、いつでも飛び出せるように足に力を入れていた。