十三葉め
「現世と常世を繋いで、術者ひとり分だけの通り道を作る魔術。そんなものがこの世に存在しているとは、王太子である私も知らなかったから、驚いたよ。『千里眼』とは実に便利な能力だね」
私の能力は、千里眼ではない。
それでもかなり近くを当てられたことに動揺していると、ジュードは気をよくして話し続けた。
「でも、現世と常世は所詮相容れない存在。現世の人間も、常世の人間も、召喚の儀を行うときには、生贄を捧げる。人間や、動物をね。どうしてか分かる?」
静かに首を振る。
そう、召喚術は口伝の魔術だから、君が知らなくても無理はないね――と、ジュードは、ますます笑みを深める。
「現世の人間を、私たちが王宮で呼び出すとき、私たちはそちらの神様に対価を支払うんだ。だから、これだけの命を捧げるから、人間をひとり借りますよってね。そうしなければ、相容れない世界の理に乱され、精神の死――魂が消滅してしまう。君の存在も、そうやって常世に確定させた。当然、それでも君は現世の人間。帰るのは自由だ」
だけどね、とジュードは冷ややかな瞳で私を見つめた。
その目には、悋気のような、執着のような、底知れない影が揺れていた。
「シヨウを連れてくるのは、いささか無謀だったかな」
「え……?」
「君は対価を払っていない。それなのに、シヨウを無理やり共に連れて行こうとした。無論、たとえ現世の人間の魔力を持ってしても、そんなの失敗するだろう。だけど君は違った。シヨウに対する強い思いと、甚大な魔力で、なんと現世と常世の間に穴を開けてしまったんだ」
愛のなせる奇跡だね、とジュードは蔑み、それからなにがおかしいのか喉奥で押し殺すように笑い始めた。
その笑い声に精神が揺さぶられたように、頭がぐらぐらする。
投げかけられた言葉がわからない。
私は、自分がシヨウを偶然巻き込んでしまったのだと思っていた。まさか世界の理を破ってまで、私がシヨウを連れて行こうとしたというのか。
「君がシヨウに特別な感情を抱いていたのは知っていたよ――それが恋慕なんていう、可愛い感情じゃないことも。とはいえ、まさか、二人だけでこんな楽しそうなことを画策していたとは、さすがの私も気づかなかったよ。シヨウを追い出したのも演技だったわけだ。そうしてふたりで、ずっとこの機会を伺っていたのかな? 現世で共に生きようと、ふたりで幸せになろうと」
だけどね、とジュードはおどけて首を傾げてみせた。
「シヨウを無理矢理にでも引きとめようとする君の魔力が、現世と常世の間の通り道を存続させてしまった。だから、こうしてあの魔法陣さえ使えば、誰でも通れるようになってしまった。だからといって、私たちは、なにも酷いことがしたいわけじゃない。ただ、なにも言ってもらえなかったから、ちょっぴり拗ねているだけだ。君を無理やり常世に連れ帰ろうなんて、思ってはいないよ。安心して?」
「安心、ねぇ……。まずは、鏡の前で自分の顔を見てみたら? お綺麗な顔が台無しのやばさだから」
「かわいそうに。強がっていても、声が震えているよ?」
寒いのかな、なんて白々しく聞いてくるジュードに、身の毛がよだつ。
穏やかで、優しくて、紳士的だったジュード。
私に軟禁されても、一番平静を保っていたのが彼だというのに。いまやその冷静さは見る影もない。
「なにもあなたを傷つけたいわけじゃない。ただ、仲間に入れてほしいだけさ」
フィリップが、言葉とは裏腹にとても冷徹な声でいう。
「君が現世に止まるというのなら、僕らは君のそばにいたいだけだよ」と、このなかではまだ正気らしいアーネストが、若干仲間たちに引いた顔で続けた。
「傍にいるって、だって存在を確定させなきゃいけないんでしょ? そんなの、できるわけない!」
動悸の音がうるさい。嫌な予感に、もうこのまま死んでしまってもいいから続きを聞きたくなかった。
存在を確定させる。そのためには犠牲が必要。
そういった舌の根も乾かないうちに、なにを提案しているのだ。
しかし、私が強い眼光で彼らを睨んでも、アーサーはなんでもないことのように、
「ああ、だから供物を捧げればいい。やり方は、アーネストと俺に任せれば問題ないよ。大丈夫、すこし腹が立つけどシヨウの分もやってあげよう。私たちのような恵まれた血を持つものの対価は、君の時と同じく二百人以上は必要になる。だから合わせて、千五百人用意できればいいだけの話さ」
途方もない数の人間だ。
だが、彼らのような魔術師からすれば、いとも簡単に殺せてしまうだろう。
――こうなってしまったのは、私の責任だ。
一人でいるのが怖くて、彼らを閉じ込めたから。
どんな犠牲を払っても帰りたいと願ったから。
そのくせ、最後に不安になって、シヨウに救いを求めてしまったから。
ああ、だからといってなにができる?
現世の私は、ただの無力な人間だ。
違う。もとから私は平凡で、つまらない、中学生だったのだ。
どうして、私ばかりがこんな目に合わなければいけない。
帰りたいと願うことは、そんなに許されないことなのか。誰かに支えてほしいと思うのは、そんなに罪深いことなのか。
じわりと、目の端に涙が滲んだ。
立っている気力もなく、薄汚いアスファルトの床に座り込んでしまう。
この場に似つかわしくない優美な所作で歩み寄ってきたジュードは、私の前で屈むと、顔を覗き込んでくる。
「こんな顔をする君は、初めて見るよ」
華やかな美貌にうっとりとした表情を浮かべると、愛おしげに私の涙を舐めとった。
もはや、抵抗する気も起きなかった。
「私たちがいなければ、どちらにせよ君はここにはいられないんだ。ユリの残した魔法陣から、じきに王宮魔術師たちが君の魔力を辿って押し寄せる。他の現世の人間は、常世で存在を確定させられていないから、連れて行くことはできない。どうしたって、君が狙われる。私たちは、君を守りたいんだ。ただそれだけだよ」
ふわりと、花のような香りが広がる。
尚も涙を流し続け、震える私を、ジュードはそっと抱き寄せたのだ。
壊れ物を扱うかのような手つきで、私の体を包み込むと、背中を撫でる。十一年間、ジュードが私を慰める時にやっていた癖だ。条件反射のように、気持ちが安らぎそうになる。
くすりと笑ったジュードは、すると耳元で囁いてきた。
「――さあ、君の本当の名前を教えて?」
そんなこと、ダメに決まっている。
いま現世で魔力を使えない私がそんなことを教えてしまえば、あっという間にジュードの傀儡に成り下がってしまうだろう。
そう思うのに。止めないとと、わかっているのに。
甘い甘い蜜を煮詰めたかのような、綺麗な瞳――召喚されたばかりのころは大好きだったそれを見つめていると、くちびるが勝手に言葉を紡ぎ出す。
「わ、わたし……わたしの名前は……」
――魅了魔法だ。
そう気づいたところで、対抗する術なんてない。
魔力を少しも扱えない人間が、どうやって相手の魔術を破るというのだ。
「うん、続けて?」
すっと細められたジュードの瞳が、私の最後の理性を溶かし尽くそうとしていた、そのとき。
――頭の中で、ガラスが割れて弾けるような音が響いた。
『あなたが、現世で幸せに暮らせますように』
幻聴が聞こえた気がした。腕に違和感を感じて、目を落とす。
右手首を、淡い金色の輪が囲っていた。代わりに散り散りになったミサンガが、ゆっくりと床へ落ちていくのが見えた。
ジュードが、驚きに目を見開いている。
他のみんなも同じだ。一瞬とはいえ、なにが起きたのか理解できないという風に、動きが止まった。
――今しかない。シヨウが守ってくれた、この一瞬しか。
後ろの出口に向かって、死ぬ気で走り出す。
アーサーに押さえつけられた左腕が、涙が出るくらい痛んた。だけど、絶対に外に出てみせる。
帰りたい。私は、帰りたいのだ。
どこへ帰りたいのかなんて、もうわからない。それでも、こんな終わり方は嫌だった。
「アーネスト、アーサー、魔術を!」
ジュードが叫ぶけれど、どうやら魔術は発動しなかったらしい。代わりに私の手首の金色の輪が、さらに淡い色へと変わってしまう。
後ろから誰かが追いあげてくる。早く逃げなければ。
体が軋むように痛みを訴えてきて、息切れと嗚咽で喉は乾燥しきっていた。
それでも、扉にたどり着いた。錆びた鉄の扉に手をかけることができた。走ってきたままの勢いで、重い扉に力を入れた。
「帰れる……! 私は帰るんだ!」
しかし――がしゃんと無情な音を立てただけで、扉は開かなかった。
「さすがに僕たちだって施錠くらいしているさ……って、え、待てギルバード!」
「やめろ! ユリ、逃げてくれ!」
アーネストとジュードの焦った声と、私が扉に向かって叩きつけられるのは同時だった。