十二葉め
階段を駆け上がり自分の部屋へいくと、シヨウが利口なわんちゃんみたいに正座しながら待っていた。
「ね、シヨウ! これ食べる?」
夕飯の余り物を、夜食と称してもらってきたのだ。
シヨウはまじまじと皿の上に適当に盛られた料理を見ると、とても綺麗な箸づかいでそれを口に運んだ。
ああ、そういえば、やんごとない身分のお方なんだった、なんて冗談混じりに思う。
「お母さんの料理、美味しい?」
なぜか食べながら、いささか落ち込んだらしいシヨウ。
しゅんとした姿に、失礼だろうと私がぶすっとしていたら、
「ユリはこういう味が好きなのか?」
「え?」
「俺はいつも、薄い味付けにしていた」
確かにシヨウは薄い味付けをしていたけど、その分繊細で味に奥行きのあるご飯だった。
もちろん美味しかったけど、実際そこまで手間をかけられない人間は、味付けを濃くした方が万人受けする味になるだろう。とはいえ、シヨウのご飯に叶うものはこの世にあるまい。
「確かに濃い味は好きだけど……」
――不安そうに揺れる薄紫の瞳。
まだシヨウがいたころの神殿での生活を、ふと思い出した。
ちょこんと座って私の帰りを待っていたシヨウ。どんな言い付けもきちんと守ったシヨウ。いつだって、一等お利口さんだったシヨウ。
――いまと少しも変わらなかった。
「シヨウってさ、私のこと大好きだよね」
くすくす笑うと、シヨウは驚いたようだった。まさか気づかれていないとでも思ったのだろうか。
静謐な夜の月のような美貌が、そうすると、なんだかあどけなく見える。
私の一言一言に振り回されるシヨウが、おかしくて、可愛くて。
漆黒の艶やかな髪に触れると、シヨウの頭を胸に抱いた。
びくりと、シヨウが小さく身じろいだ。
「ね、お返事は?」
からかい混じりにそう聞いているのに、シヨウは大真面目になんと答えるべきか考えているようだった。そして、やがて意を決したように、
「――ずっと、好きだった」
その声に込められた悲痛な響きに、私の方が驚いてしまった。
それに気づかないシヨウは、抑えきれなかったというように、言葉を続ける。
「傍に、置いて欲しい。ここで、あなたの傍に。自分が一番気に入られていないのは、ずっとわかっていた。つまらない人間だから、仕方がないのも。もう昔のような可愛げもない。だけど、あなたの何番目でもいい。かわいがってもらえなくてもいい。なにに代えてもユリを守る。言い付けは聞く、命令はなんでも果たしてみせる。だから、今度は」
言い終える前に、シヨウを突き放した。
「私の前から消えて」
私の言ったことを理解して、絶望に染まるシヨウの顔。
「消えて!」
もう一度叫ぶと、シヨウは忽然といなくなってしまった。
同時に、さっきまで胸を満たしていた暖かな気持ちがなくなる。
自分から言ったことなのに、深く傷ついて、髪をむしりたい衝動にかられた。
「最低、最低!!」
そうだ。私は、最低の人間だ。
命の恩人で、あれだけのことをしても忠実だったシヨウを、ずたずたに傷つけたのだ。
――でも、シヨウのせいで気がついてしまった。
やっぱり、この家は私の居場所ではない。
母さんとも父さんとも弟とも、もう十一年前の家族には戻れない。
さきほどあんなに和やかな時間を過ごせたのは、まさしくシヨウのおかげ――シヨウがそこにいたからだ。
どんなに頭で拒絶しても、心は常世を求めてしまう。
ユリという偽りの名で呼ばれると安堵して、落ち着いてしまう。
そしてなにより、シヨウに傍にいてほしいと、そう願ってしまう。
人の理を外れた最高の美貌と、まさしく万能のように才能に恵まれた人間が、私だけに尽くしてくれる。
実に素敵な響きではないか。
――だけど、シヨウはずっと一緒にいてくれるわけじゃない。
いずれ聖女という幻想が壊れ、私の醜さを軽蔑するだろう。
いや、とっくに気がついているはずだ。自らが無事に家に帰ること以外、なにも頭になかった薄汚い私を。
それでもこんな醜い人間についてきたのは、それこそストックホルム症候群というやつだ。
私以外に頼る人がいなかったから、私以外に優しくしてくれる人がいなかったから、私が神殿の支配者だったから。
そんな錯覚が覚めるときがいずれくるのに、もしシヨウに縋ってしまったら――そう考えると恐ろしく仕方がなかった。
「やだ、やだよ! シヨウ、私を置いていかないで……! お願い」
ああ、もはや自分でも、なにを言っているのかわからなかった。
どうしてこうなってしまうのだろう。なにを間違ってしまったのだろう。
私はただ帰りたいだけだ。自分の居場所に帰って、安心したいだけだ。
――誰でもいいのだ。
受け入れて欲しかった。助けて欲しかった。もう怖い夢は終わりだと、抱きしめて欲しかった。
「帰りたい……!」
掠れた声が漏れると同時に、
「――ああ、常世に帰ろう」
背後から伸びてきた大きな手に、口を塞がれた。
必死にもがくと、あっと言う間に手首を捕まれ、骨が軋む音がするほどに腕をひねりあげられる。
「うぐぅっ……!」
想像を絶する痛みに、思わず目を一瞬閉じてしまう。
肺に思い切り空気を吸い込むと、部屋の中とは違う、錆びた鉄の匂いがした。肌にも、湿度の高い外気を感じる。
取り巻く空気の急変――これは、転移魔法の感覚だ。
そしてシヨウのほかにそんなことができる人間がいるとすれば、思い当たるのは彼らしかいない。
「――ひと月ぶりだね」
先手を打って、そういいながらくちびるを歪めて笑う。
案の定、目を開いたらそこにいた五人は、驚きに目を瞬いている。
ジュード、ノラン、フィリップ、アーネスト、ギルバード……ということは、私の後ろにいるのはアーサーか。
「もっと焦るかと思っていたけど、相変わらずあなたはなにを考えているのかわからない」
気品に満ち溢れた笑顔のジュードが、一歩前へ出た。
しかし、ぎりぎりと腕を締め付けられている私の現状に口出ししてこない辺り、内心では怒り新党といったところか。
『平静を保て』と自分に言い聞かせながら考えをめぐらせ、周囲に視線を滑らせる。
「どこ、ここ……?」
無骨な鉄の骨組みがむき出しな、広大なだけの建物――廃工場かもしれないと、思い当たる。
それから、ジュードたちもまた、現代的な格好に着替えていることに気がついた。どのくらい現世にいたのかはわからないが、魔術を使えばここで生活するくらいわけないのだろう。
「恐ろしく似合ってないよ、その格好も、この場所も……いっ!」
脂汗をかきながら挑発すると、腕に込められる力が大きくなる。このまま折るつもりなのかもしれない。ギリギリと締め付けられる痛みに、気絶してしまいそうになる。
「アーサー君、いまはまだ」
ジュードが微笑みながら諌めると、アーサーは力を抜いた。
その手を振り払うけど、逃げ出したところでどうにもならないのは目に見えていた。魔術を使えるジュードたちと、現世の掟に縛られる私では、持っている力の次元が違う。
とりあえず距離を取って、六人を堂々と見据える。
こいつらが私をどうするつもりなのかはわからない。しかし、だからといって怯んだら負けだ。
「まずはどうやってここにきたのか、教えて」
いまや、力関係が逆転したのだ。
神殿のなかにいたときのように、威厳ある態度を取っても滑稽なだけかもしれない。
それでも居直ると、一応リーダーを気取っているらしいジュードを睨んだ。