十葉め
ただ歩いていても気詰まりだったので、ぽつぽつとこれまでのことを聞いてみた。
シヨウは、淡々とそれに答えた。
前よりもずいぶんと受け答えのできるようになっていて、感心した。
私に追い出されたシヨウは、剣術や魔術での優秀さを認められ、あれから従騎士になったらしい。
辺境の属国が起こした反乱を鎮圧する戦で数々の武勲を立て、十六の時には王宮騎士に昇格したのだという。皮肉なものだ。もとはといえば、シヨウは皇子という最上位の身分にいて、彼の国が属国に墜ちたからこそその地位を剥奪されたのだというのに。形だけの公爵の位と、王宮騎士の仕事、それだけでエドアルド国に仕えるというのだろうか。
もちろん、私には関係のないことなので、そんなことを口に出したりはしなかった。
王宮の近くへくると、シヨウは魔術で生み出していた灯火を消した。
とたん、長らく忘れていた、原初的な暗闇への恐怖を感じた。だがシヨウが固く私の手を握っていたので、努めてそれを表には出さないようにした。
「いまからは、戦闘は避けられなくなる」
「でしょうね。けど、私の魔術を使えば、ここに残っている騎士くらい余裕で倒せるよ」
「大広間へ向かえば、それでユリは現世へ帰れる。敵の殲滅よりも、目的地へ迅速に向かうことを優先すべきだ」
それは確かに正しい判断だった。
下手に騒ぎを大きくすれば、それだけ相手取る人数が増える。
――けれど、シヨウは?
シヨウは、裏切り者として殺されてしまうのではないか。
とてもではないけれど、エドアルド国は、彼ひとりでどうにかできる相手じゃない。
こちらへ来てから初めて、自分以外の人間のことを心配した。
その事実に、自分でも衝撃を受けた。
すぐに、その考えを振り払おうと、かぶりを振った。
いままで自分の為だけに考え、行動してきた。それを最後に他人の心配だなんて、馬鹿げている。
シヨウの命と自分の帰還を天秤にかけ、私がどちらを選ぶかだなんて、自明の理だ。
ならば初めから考えるべきではないのだ。
宣言した通り、私の膨大な魔力を持ってすれば、向かってくる騎士を返り討ちにすることくらい容易いことだった。次々と前方に現れる敵をなぎ倒し、進んでいった。
そしてシヨウもまた、規格外に強かった。
ひとたび彼が剣を抜けば、閃光のような剣技で敵を翻弄し、遠方の敵には器用にも魔術で対応していった。
時には壁さえ破壊して進んでいけば、すぐに大広間へとつくことができた。
あの日万里眼で悪夢のように視た残虐な光景が嘘のようにそこは美しく、煌びやかだった。
生きて帰れるのだという実感がついてこずに、不思議な気持ちだった。
その日が、考える暇もない間に過ぎていったからだろうか。十一年間に及ぶ私の抗戦が、こんなあっさりとした終わりを迎えるのが、信じられなかった。
「ユリ、早く!」
シヨウに急かされ、万里眼の能力で、魔法陣を床に映し出す。
その瞬間魔術を使えない私は、無防備だった。
一斉に襲いかかってくる騎士達を、シヨウが薙ぎ払う。けれど遠くから魔術でこちらを狙うものもいて、そうなるとシヨウは身を呈して私を庇わなければいけなかった。
「シヨウ!」
膝をついたシヨウは、しかし、静かに私を見つめた。
――自分のことはいいから、行け。
能力を使わずとも、その目がなんと言っているかはわかった。私は頷くと、魔力を紋章の中に流し込み始める。
神話のように高位な魔術なのだろう。
無尽蔵に魔力が体から引き出されて行くのを感じる。大広間一面に浮かぶ巨大な紋章に、目を焼くほどの光が満ちていく。
――途端、現世へ帰ることが途方もなく怖くなった。
十一年もの歳月を経て、シヨウはあんなに変わってしまった。
私だって、歳をとったのだ。もういまは、二十五歳。そして現世も、時とともに大きく変わったはずだ。
本当は、帰ったところで私の居場所なんてないんじゃないか。
みんな私のことなんて、忘れてしまっていて、ただ迷惑に思われるだけなんじゃないか。
――そもそも、私は本当に現世の人間なのだろうか?
最初から私の居場所はあの神殿の中だけだったのかもしれない。
あそこ以外に私の帰るところなんてないのに、おかしな妄想にとりつかれていただけで、そしていまこのままどこへ行くこともできずに、闇の中に放り出されるのではないだろうか。
一度疑ってしまえば取り留めもない考えに取り憑かれて、魔術を発動させるのが怖くなった。
足が震え、魔力を流すのを打ち切ってしまおうとした時、
「――ユリ、帰るんだろう?」
問いかけるように私を見つめる紫の瞳を、覗き込んでしまった。
その刹那、息をのむほどに美しい情景が、広がった。
満開の桜が、どこまでも連なっている。夕暮れは、金色の絵の具を伸ばしたかのような色に、空を染めている。
狂い咲いたような幻想的な桜の木の下には、楚々とした美貌の、着物姿の女性。
びゅうっと風が吹き抜け、桃色の花びらの吹雪を巻き起こす。ふと微笑んだ彼女は、我が子を迎える親のように、両腕を広げた。
その風景は私のものではないと、すぐにわかった。
シヨウの故郷。永遠に失われてしまった、彼の帰るところなのだ。
――私は、帰らなければいけない。
強く強く、そう思うことができた。
瞬く間に足元の光が増して行く。
私に向かって弓を構えた兵に、シヨウが自分の剣を投げて殺した。
「シヨウ、私、帰るね……!」
ちらりと私と合った菫色の目は、微笑んでいた。
――ああ、いやだ。こんな優しい目で見つめられていたなんて、知らなかったのだ。
……失いたくなかったな。
そう思った瞬間、私はアスファルトの道のうえにいた。
あの日、あの瞬間、私が異世界へと引きずり込まれた場所へ、帰って来たのだ。
なにも考えることが叶わず、力が抜け、その場にしゃがみこんでしまった。
誰かが目撃すれば、さぞ驚いたことだろう。
電灯が照らす深夜の住宅街の道に、純白のワンピースに身を包んだ女性が座り込んでいたのだから。
それから一ヶ月は、めまぐるしい間に過ぎていった。
あのまま家へ歩いて帰った私を、最初に出迎えてくれたのは母だった。
玄関を開けて私の顔を見た途端、ぼろぼろと大粒の涙をこぼした。お父さんも、弟も、泣きながら私を抱きしめてくれた。
机のうえには、私の好きな料理ばかりが並べられていた。十一年間欠かさず、その日は私の好物を作って、帰りを待っていてくれたのだという。
そう聞かされて、私も喉が張り裂けそうになるほどに泣いた。
なにがあっただとか、どこへいたのだとか、母も父も聞いてこなかった。
ただ食卓を家族として囲み、ぎこちないながらも会話し、暖かいお風呂を用意してくれた。
十一年前となにも変わらない自分の部屋で私は寝た。
どこかへ行ってしまわないか心配だといって、母は一晩中隣で手を繋いでいてくれた。
嬉しくて――あまりにも嬉しくて、どうしてか胸が痛かった。
次の日は、警察に事情を話しにいった。
十一年間失踪していた子どもが見つかったと聞き、警官はたいそう驚いていた。採血して同一人物であることが証明された私は、矢継ぎ早に質問を投げかけられた。もちろん、本当のことをいえるはずがなかった。
結局、精神的に回復するまで無理に聞くのはやめようという結論が出た。
帰りに、お父さんが私の好きだったカフェでアイスクルームを奢ってくれた。
女の子が好きそうな可愛らしい雰囲気の店に、お父さんは昔入りたがらなかった。きっといまもそうなのだけれど、我慢しているのだろう。そう思うとこそばゆくて、なんだか笑ってしまった。
いいことばかりとは、もちろんいかなかった。
すぐにメディアが家に押しかけるようになったのだ。
十一年も失踪していた少女が、生きて帰ってきたのだ。大スクープである。当然の成り行きだろう。
家族は、連日取材に押しかける記者たちに疲れていたようだった。
けれど、私の前ではそんな素ぶりを努めて出さないようにしてくれていた。
まだ私のことをこんなにも思ってくれている家族がいて、幸せだった。ずっと心配をかけてくれていたことが、申し訳なくて仕方がなかった。
だけど、どんなに母や父と私が思い合っていようと、十一年という歳月はあまりにも大きく――そして残酷だった。
夕ごはんは、毎日家族で囲った。
そのために父も仕事を定時に終わらせ、弟はなんと塾まで休んでくれることもあった。受験生なのに、である。
だけど、その時間は気詰まりなものだった。
家族の会話の中にあるリズムのようなものに、私はついていけなかったのだ。歯車が少しずつ狂っていくみたいに、話しているとちょっとずつ私だけ噛み合わなくなっていく。やがてそれに気がついた家族が、申し訳なさそうな顔になる。
誰もそんなこと思っていないと知っているのに、自分がいてはいけない存在のように思えた。
それから、なにげない生活のなかで私がする一挙手一投足に、家族が不思議そうな顔をすることがあった。
ある日、弟がたまたま私の腕をつかんだときに、とても驚いた顔をした。ずっと気になっていたので、いましかないと問い詰めてみたところ、こう返ってきた。
「なんか姉ちゃん、変に綺麗なんだよな」
なんでも、動作の一つ一つが、浮世離れしてみえるらしい。
それだけじゃなく、肌もあまりにも滑らかで、触って驚いたということだった。
それはあの神殿のせいだった。
魔術を使って清めた、最も清廉な湧き水をあそこでは生活に使っていた。香油や石鹸も貢がれたもので、比類ないほどに上質なものだったのだ。それだけではなく、神殿の中はつねに私にとってもっとも心地いい温度と湿度に調節されていた。肌が荒れることなど、一度もなかったのだ。
実をいうと、現世に帰ってから、あまり長く水道の水を使うと肌に湿疹ができたりした。
けれど私はそれを隠していた。あの神殿がまるで『正しい場所』だったというようで、嫌だったのだ。
私が傷ついた顔をしたからか、弟は焦ったようにごめんと言ってきた。
仕方がないとは、わかっていた。
弟が私にいまだ慣れておらず、姉ちゃんと呼ぶ声がすこしぎこちなくても。
だけど、すべてがどうしようもなく辛かった。
私の存在を異質に感じているのは、弟だけではなかった。
昨日の夜、私はひとりで明かりもつけずにリビングルームにいた。落ち込んでいたのである。
中学の時の友達と連絡をとって、彼らがみな社会人になっていることを知った。かたや中学さえ卒業できていない自分を、とてもつもなく惨めに感じていた。
二階から、誰かが降りてくる足音がした。
下へきたのは、母さんだった。私にも気づかず、疲れた様子だった。母さんはキッチンへと向かうと、コップに水を注いで飲んだ。
水を飲み干した母さんは、やっと私に気がついた。
「あなた、誰……?」
寝ぼけているらしい母さんは、おびえたようにそう言った。
そして相手が私だとすぐに気がつくと、私なんかよりもずっとずっと傷ついた顔になった。
――ああ、それは母さんがずっと感じていたことなんだろうなと、そう理解してしまった。
「こんな時間に起きてちゃ、体に悪いよ? 明日は用事があるんだから」
微笑んでみせた私は、ふらふらと上へ歩いてく母さんの背中を見送った。
きっと部屋に戻ったら泣くのだろう。そう思うと、また自分が大嫌いになった。