00、春舞う朝に
それは近年まれに見る春色だった。
右を見れば貴婦人が悠々自適に朝のティータイムを満喫し、左を見れば通行人達の朗らかな笑顔に充てられて、眼下は祝い事の後みたいに花びらが埋めつくす。更に頭上を仰げば吸い込まれそうな青色に感嘆する他ないのだろう。
すっと息を吸えば胸が高鳴る朝の街路にて――俺は更に深く深く息を吸い。
「――ッッ、だッあああああああ不味い不味い今回ばかりはマジでまずいッッ!」
途端貴婦人が茶を吹いた。通行人の舌打ちが雨の如く降り注ぎ、太陽が拳ほどの雲で遮られる。人様の視線が死ぬほど痛い。もしもそれで穴が開くのなら、蜂の巣飛ばしてとうに美味しい蜂蜜でも街路にぶちまけている頃合いだろうか。
とは言え一人一人に謝罪を述べる時間など有るわけもなく。俺は心中で消化しきれなかった先の思いを噛み殺すように――背後の『連れ』に問いかける。
「レーナ! ついて来てるな!? 迷子からの引き返しルートだけは嫌だからな!? 妙に静かだけどついてきてんだよなお前ッッ!?」
レーナ=スロット。
それはここまで俺と共に奔走作業に従事しているはずの少女の名前。現状、普段の煩さからは想像できないほど黙ってついて来ている『はず』の連れは――。
「驚愕してくださいギル様! 私、居ます!!」
「うし行くぞ!!」
「うえぇ、反応を! 反応をください!!」
彼女は新雪の如き白髪を小さく揺らし、芳雪のような瞳を瞬かせながらそう言った。けれど今は無駄なことをしている暇も元気も余裕もないのだ南無三なのだ。
という訳で再び走り出すとレーナは大人しくついてきたが、数秒で息を零した。
「私、もう限界です……両膝が踊ってます……お腹もすごく減っています!」
「うし疲れたなら右足が接地してる間に左足を休ませろよこれぞ夢の永久機関!? そしてテメェさえ寝坊しなけりゃ双方朝飯をたらふく食えたのになあ?」
「……ああ、そもそも息が苦しいです。あの売店で甘いものでも食べましょう!」
ビキリとこめかみが砕けかけるが、俺は深く息を吸って持ち直す。当然だ。怒っている時間なんてあるわけもない。そもそも俺って男は聖人・善人・慈悲深いで通っている。嫌なことくらい笑顔で吹きとばせ。はいはいスマイルスマイル――。
「私はあそこのカフェイでも構いませんよ?」
「おーけーお前はまず歯を食いしばれ」
拳を見せはするが殴りはしない。聖人の名前は伊達じゃないね。
「あー。ギル様ギル様! さてはギル様カフェイを知りませんね? それは悠然として飲み下すものなのです! 噛み締めたままでは雰囲気を堪能できませんよ!」
「よしきたそれなら悠然として舌を噛め!!」
そんなこんなで立ち止まると背中に阿呆がぶち当たって舌を噛んだ。涙出た。
「ギル様、大丈夫ですか……?」
「ッ貴様これ以上一言でも喋りやがったら本当に石畳の上引き摺ってくからな!? つか流石の俺も喋りすぎて腹減ってんだよテメェの膵臓を貪り食ってやろうか?」
「………………すいぞー?」
レーナ=スロット。愛称レーナ。当方、泣く子も笑う大馬鹿である。
まあそれなりに可愛い顔をしているし、銀髪ではなく老化でもない純粋な白髪というのは中々に綺麗でもある。実際、髪色の物珍しさからか度々人々の視線が飛んできていた。見ての通り阿呆だから阿呆に小判というものかもしれないが。
すっと息を吸うと、ゆるく纏めた白が揺れて。
噛みしめるように――嘆息。
「もう入学式が始まっちまう。レーナ。走れるな?」
「頑張ります!」
「うし」
見合って軽く笑みを零し。
二人肩を並べて進行方向へ一歩を踏み出すと阿呆が足を絡ませた。
「ギル様転びました足を捻りました――ッ!」
そこに居るのは今までと同じ阿呆野郎ではない。鼻血ぶー☆阿呆野郎である。
泣きっ面の膝からも出血を確認。
「…………」
あーもう、お空が綺麗だコンチクショウ。
「おッらああああああ目指せ中距離重量上げ自由形チャンプウウゥゥゥゥゥッ!」
「な――無茶です無理です無謀です! 私は軽いですけど重いです! 置いて――」
「るせえし重いし黙ってろ!」
お姫様抱っこで担ぎ上げ、周囲の歓声を背中に受けつつ走る。全力で春先の花びらを散らしながら辺りを見回すと、見知らぬ人達が時々応援するように腕を上げたり、軽く笑って道を開けてくれたり。
まあ、春も初めということで、皆浮足立っているのだろうが。
「……こりゃますます、遅れるわけにはいかねえよな」
言って、再び真っ直ぐ前を見据えた瞬間誰かとぶち当たった。
ぴゅーん、と宙を舞う飛行少女。
「っ、いや悪い。大丈夫かアンタ――」
「――ッて何すんだゴラ! 痛えじゃねえテメエッ!」
なんとまあ、当たった相手は見事なまでに不良様だった。しかも着ているのは俺達と同じ黒の制服。その上肩口のラインは二年生カラーの赤。とどのつまり、今日入学する俺達の先輩である。
最悪だようと頭を抱えていたら、男に目下でドロップキックがぶち込まれた。
「――貴様! ギル様にタメ口とは何様ですか貴様ですか偉いんですかッ?」
「ブッ、うう!? タメどころか先輩様だよマジで止めてくれ阿呆レーナッ!?」
追撃を狙う阿呆を即座に受け止め一回転の後地面に叩きつける。そしてチラリと、白髪少女の言動と見た目と行動のギャップに驚愕する先輩殿を仰ぎ。
駄目だと。覚悟を決める。
「先輩様実は俺達遅刻寸前と言うか何と言うかあれなんですわ――遅刻寸前?」
「……あ? いや。ってああ? だからって何でも許されるわけ――」
「いやあ謝罪の気持ちはおくせんまん! なんだが――申し訳ない!」
泣く泣く目を付けられる覚悟を決めた俺は全力で踵を返し、頭以外は大丈夫そうな白髪少女を引き連れ奔走作業に舞い戻る。後ろで何か言っている気がしてキリキリと、痛む心を殴り付け、貫いてみせるこの無視道!
無論、またお会いする機会があればその時に全力で謝罪する所存である。
と言うかあの先輩が悠々歩いてるって事はまだ俺ら間に合うんじゃね? アレもしかして間に合っちゃったりすんの俺達――? と見出した一抹の希望もそう言えば入学式の出席は新入生だけだったと踏みにじられ、襲い来るはほろ苦の絶望のみ。
「――――ああもう畜生」
桜が、綺麗だ。
◆ ◆ ◆
「――なんだってんだ、畜生」
被害者の青年は前髪をかきあげて、黒髪と白髪が消えた街路の先を睨む。
いやはや気に食わない。癪に障る。いけ好かない。それらの感情は勿論あの舐めた態度に対するものだし、入学式なんざとっくに始まっているにも関わらずこんな場所で油売ってるその性根に対してもそうだ。
けれどそれ以上に――押し負けた。
一年間、彼はこの三大陸随一と言われる超名門校で揉まれてきた。魔術師という性質上強化系の魔法に頼ることは多いが、それでも肉体的なトレーニングを欠かしたことはない。体格差だって多少はあったはず――にもかかわらず。
吹き飛んだのは自分一人だった。
「くそ――」
後で一度一年のクラスを回ってみようかと、彼は思案して。
「ああ、それなら止めといたほうが良いぜ――親友?」
あ? と振り返ったそこに立っているのは、腐れ縁的な旧友だった。
奴は静かに肩を竦めた後で、顎で彼らが去った方向を差し、言う。
「肩の数字、見たろ? 奴らは『0組』だ」
「――はあ?」
と青年の口からは驚愕の声が漏れる。先は気が動転してそこまで確認していなかったが、それが本当だとすれば――。
「馬鹿なのか? ゼロ組の分際で? ドブの0組如きがあんな舐め腐った態度を取っていやがったのか? だったら尚更お灸を吸えてやんなきゃ――」
「あーあー馬鹿はお前だよ。お前。噂に聞かなかったのか?」
そう呟いて、再び肩を落とし。
「筆記で怒号の0点を取った癖。実技で怒涛の2万点超えを叩き出した化物の事」
「――――ッッ」
柄にも無く言葉を失った青年は、小さく舌打ちをして。
「なもん噂以下の与太話だろうが。三組の俺ですら当時四桁も越せなかったぞ」
「ま、そんなもんだろ。俺ら凡庸な天才如きじゃーな」
それなりにキレるこの友人が、何の気なしに呟くその様を見て。
青年は、それが冗談でも何でもない。
単なる事実なのだと認識した。
「……名前は」
「あー、何だったかな。確か――――」
それは。
春舞う朝のことである。