二四話 兄の愛
「く、はあぁ……」
歌撫との戦いから一夜明けたが、精神的な疲労が取れない。心の何処かでは他人事と捉えているのか、桜雅は床でぐっすりと眠っている。
時刻は午前十時。健康的に早寝早起きの習慣がついているというよりは睡眠時間が決まっている遊歌は、昨日眠る時間が遅れた分だけ遅く目を覚ましていた。
最早学園に通っている場合ではない。登校中の匠も桜雅も昇華もいないような時間にあの狂人に襲われてしまえばそこで終わり。桜雅の言う通りゲームオーバーだ。
そのことは昨日の夜のうちに大まかに遊七に伝えておいた。桜下には適当に家庭の事情と伝えて、学園には誠伝でありのままに話し、出席停止扱いとなった。
平日故に遊七はいないだろうが、半ばニート同然の匠は基本的に家でだらけている。匠の歳は二五。あの女も匠と近い年齢だと外見から判断した遊歌は匠でも何か知っているだろうと考えていた。
階段を降りてリビングに向かう。軽く体を解しながらリビングの扉を開く。
「……あっ」
「……おはよう」
不機嫌な桜下と、笑っている匠がいた。
匠が大方の事情を話したということは、桜下の様子を見れば明らかだった。
「あの女がまた出たんだってね」
「ま、まあ、撃退したけど」
「兄さんが、いるんだね」
「……ああ、でも、そんな悪人って感じじゃなかったぜ? なんて言うか、ただのイカレ野郎?」
桜下に問い詰められて言葉に詰まりながらも桜雅のフォローを入れる。言ってからフォローになっていないかもしれないということに気付いたが、それを修正するような余裕はなかった。
桜下の後ろで静かに腹を抱えている匠には後で何か報復するとして、遊歌は桜下に視線を戻した。
「僕は、そんなに頼りないかい?」
「それは違う。僕は、桜下があのシスコン殺人鬼が苦手だって知ってるから、できるだけ会わせないようにしてただけだ」
「……シスコン?」
「えっ」
遊歌は桜下が奴のことをシスコンだと知っているものだと思っていたが、どうやらそれは重い違いだったらしく、桜下はそれについて訊き返してきた。
どうはぐらかそうか逡巡していると、二階から一階へと降りてくる足音が聞こえてきた。二階にいたのは桜雅のみであり、他には誰もいない。それはつまり、非常に面倒な状況が生まれようとしていることを意味していた。
遊歌は走った。今のシスコンに妹を会わせるわけにはいかないと。
「待て。そこから動くな」
「なんです? 藪から棒に」
「とにかく、僕の部屋に戻れ。今お前にリビングに来られると面倒なことになる」
「嫌ですよ。お腹空いてるんですから」
そう言った桜雅は遊歌にそっと触れる。すると遊歌から重力が消え、風船をどけるように桜雅は遊歌をどけてリビングへ向かった。
浮いていた遊歌は数秒経ってから着地し、急いで桜雅の後を追う。
しかし、既に桜雅はリビングの戸を開けていた。
「……兄さん、本当に帰って来てたんだね」
「……ちょっと待って。妹が幻視してる」
冷や汗を浮かべながらも現実を受け入れた桜下とは対照的に、欠伸で潤んだ目を擦りながら現実を受け入れていない桜雅。
兄妹の半端ではない温度差に遊歌は頭を抱え、匠はやはり腹を抱えていた。
「何をしに来たんだ」
「そりゃあ可愛い可愛い妹に会うためさ。ついでに、妹の彼氏がどんな奴か見定めに」
「はあ?」
その反応も仕方ない。妹は大真面目に訊いているというのに、兄はふざけた回答をするのだから。しかし、これが本心だというのだから恐ろしい。
状況を飲み込めない桜下に、遊歌は助け船をだすことにした。
「藤原 桜雅はシスコンだった。でも、殺人衝動の方が大きかった。そういうこと」
「そういうことって……言われても……」
「大丈夫さ。こいつは世間一般で言われてるほど、桜下が思うほどの悪人じゃねえ」
腑に落ちない桜下を宥めるように桜雅の性格を語る。遊歌が桜雅と過ごした期間は桜下のそれとは比べものにならないほど短いが、頭ごなしに桜雅を決めつけている桜下よりは理解しているつもりだった。
そんな二人を見ていた大人組二人は。
「いやあ、お熱いですねえ」
「まったくだ。見せつけられる側の気持ちにもなってほしいものだな」
何故か意気投合していた。
「まだ、ちょっと怖いけど、兄さんがいたから、遊歌が今ここにいるということは匠さんから聞いたよ」
「そうそう。僕のおかげなんだから、遊歌君はもっと僕に感謝すべきですよ?」
「お前昇華来てから特に何もしてなかっただろ」
「あっ、ばれてました?」
自分の怠惰を指摘されても軽く流そうとする桜雅は、曲がりなりにも妹と和解できたことで普段以上にテンションが高いように見えた。
ただでさえ高い桜雅のテンションがさらに上がったということは、鬱陶しさも上がっていることと同義だった。
やはり面倒なことになったと、遊歌はため息を吐いた。
「だから、兄さんのこと、少し考え直すよ。遊歌もそう言っているし」
「じゃあショッピングに行こう! この辺りはてんで覚えてないけど、散歩だと思えばきっと楽しいよ!」
「お前、自分が指名手配されているということを忘れていないか?」
「あっ」
どうやら、舞い上がりすぎて自分の身の上を忘れてしまっていたようだ。匠に指摘された桜雅は、思い出したかのように口を開けていた。
それは、人を殺すことが日常化している証だった。
それに気付いた遊歌は、桜雅はやはり一般人ではないと再認識した。
「どうしよう。桜下、どうしよう」
「僕に聞かないでくれ。まだ怖いんだから」
そもそも、桜下のトラウマの根源は自分と桜雅が同じかもしれないという恐怖心からだ。桜雅との距離が縮まったことで、ある程度は癒えたかもしれないがだからといって完全に治るようなものではない。現に、遊歌の手を握っている桜下の手は震え、汗が滲んでいる。
であれば、ここで案を提示すべきは遊歌だ。匠に任せるとロクなことにならないことは目に見えている。
「何か映画借りて来ようか?」
「おお! 妙案ですね!」
「ジャンルはどういうのがいい?」
今日の本来の目的を忘れている気がしないでもないが、また今度にでも尋ねればいい。とりあえず今は、できるだけ桜下の恐怖心を取り除いてやることが先決だ。
そう思って、遊歌は桜下に視聴したい映画のジャンルを尋ねた。
「僕はミステリーかな」
「僕はスプラッタでお願いします」
「私はアクションか特撮だな」
大人組が訊かれてもいないのに答える。桜雅に至っては妹との距離を縮める気概がまったく感じられない。最初と最後はともかくとして、二番目に挙げられたジャンルは論外だった。
匠は匠で子供のような趣向をしている。本人曰く、「何も考えずに観られる」らしい。ミステリーだと早々に謎を解いてしまい、恋愛やドキュメンタリーだと共感できず、ホラーやミュージカルに至っては、何が面白いのか塵ほども理解できないという。
それでもまともなジャンルであることには変わりなく、候補のひとつには加わった。
「じゃあ適当なところで借りてくるから、桜雅は留守番頼む」
「はいはい。任されましたー」
「誰か来ても殺すなよ?」
「あっはっはっ。流石に義弟の家を殺人現場にはしませんよ」
言っておかないとそうなりそうだから釘を刺したのだが、本人に真意は伝わっていないようだった。
桜下と匠を連れた遊歌は、どんなタイトルを借りるかを考えていた。




