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夜半の蛍は砕月也  作者: 白谷 衣介
四章 桜
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命の花弁は闇夜に舞う

 九月十二日が九月十三日になろうかという頃。何処かも分からぬ、電灯もまともに機能していない暗闇を、一人の白髪の男が歩いていた。

 半分しか空いていない目はくすんだ赤。中性的で整った顔立ちが、それによって台無しにされている。


 男に目的はなかった。誰にも気付かれないようにふらふらと放浪して、時折自分の欲求を満たす。およそ文化的生活とは程遠い生活を、男はついこの間まで送っていた。


 上野(うえの) 歌撫(かなで)と名乗る女に行動を共にしないかと誘われてから約半年。その間、男は自身の中に燻る欲望を始め、いろいろなものを我慢してきた。しかし、終ぞ我慢ならなくなってしまったので、歌撫に置手紙で出て行く旨を伝えて闇夜に繰り出したわけである。


 誰にしようかと悩みながら、人のいない道をのらりくらりと歩いている。そういえば晩御飯を食べていなかったことを思い出した。

 人気の多いところならば簡単に見つかるのだろうが、それはそれでリスクが高くなる。ただでさえ顔が割れているのだ、無茶はいけない。


 男は数年間という期間で、どのような人間が一番楽しいかを知った。できれば愛する者がいる人間が望ましいが、この際選り好みはしていられない。

 まあ、それでも浮浪者は駄目だ。あれはつまらない。


「誰もいないなあ……」


 時間が時間、場所が場所であるし、人影すら見えないのは仕方がなかった。


 肺に溜まった淀んだ空気を吐き出す。そして、新鮮な空気と入れ替える。やはりこの辺りの空気は不味い。


 二手に分かれた分岐点で点滅する電灯があった。小さくパチパチと音を鳴らしながら、その電灯は道に立っていた。

 その電灯が光った時にできた影を、男は見逃さなかった。


 半目だった目は見開き、爛々と輝く。駆け出したというのに足音は聞こえず、不気味な衣擦れの音が暗い夜道のたったひとつの音だった。


 角を曲がってその人影の正体を確かめる。


「ううーん。ハズレかあ」


 夜目が効く男が見たのはみすぼらしい恰好をした中年の男だった。


 欲求とプライドの間で一瞬揺れ動いたが、プライドが勝つ。中年の男に軽く会釈をして、角を曲がらずに真っ直ぐに歩き始めた。


 そろそろ本当に自制が効かなくなりそうだ。大衆の前に出る前に、歌撫でも殺そうかと、血も涙もない選択を思いついたその時、男に何かがぶつかった。


「オイクソガキィ、何ぶつかってんだよ」


 人相の悪い大柄な男。むやみやたらに一般人に絡んでいることから、その道の者ではなく、ただの気性の荒いチンピラであることが分かる。

 そのチンピラの顔は赤く、口臭は酒臭い。この時期にこの時間まで呑んでいるとは、ロクな人間ではない。というのが男の感想だった。


「何とか言えや!」


 男の胸倉を掴んだそのチンピラは男の毅然とした態度が気に食わなかったのか、声を荒げる。時、場所、場合、すべてを理解していないチンピラにため息を吐いた男は、チンピラの左脇腹を軽く叩いた。


「あがっ」


 それだけの動作で、チンピラは道の端に建っていた家の外壁に叩きつけられた。そのまま身動きもできずに壁に貼りつけられたままのチンピラは何が起こったのか理解できていない様子だ。


 普段は眠っている時間なのか、男は欠伸をしながら壁に背をつけたままのチンピラに歩み寄る。

 正体不明の術具を持つ男に、チンピラの表情は恐怖のそれに変わる。


「……! ……!?」


 声を上げようとしたチンピラだが、何故か声が出ない。声帯が震えていないわけではなく、無音の世界に連れてこられたような感覚がチンピラを襲った。


「いけません、いけませんよう? 住宅街で大声なんて出しちゃあ。近隣の方々に迷惑じゃないですかあ」


 間延びした男の声がいやに耳に残る。異質な雰囲気を纏う男に突っかかってしまったことを後悔しながら、出ない悲鳴を必死に上げる。


 そんなチンピラを気にも留めずに、男が懐から取り出したのはナイフ。何か特殊な加工がされていることもなく、かといって術具でもない、何の変哲もない、ただのナイフ。

 そのナイフが、チンピラにはとても恐ろしいものに見えた。


 術具の能力である身体能力強化は使っているが、何の意味もなさない。Lv2である読心は、使ってはいけないと本能が告げている。


「できればもうちょっとこだわりたいんですどお、ちょっと我慢できそうにないんでとっとと殺っちゃいまあす。あ、一瞬ですから気を抜いて大丈夫ですよお」


 チンピラの額にナイフの刃先を添えて、男はナイフから手を放す。すると、どういう原理かは分からないが、ナイフは重力に負けることなくその場で制止した。


「いっつしょうたーいむ。軽く触れただけなのにい、ナイフが頭蓋骨を貫通しちゃいまあす」


 あくまでも平坦な声で、しかし道化のような口調で、男はチンピラの額の前で固まったままのナイフに手を伸ばす。


 何の抵抗もできないチンピラは、それでも足掻こうと声帯を震わせるがやはり意味はない。


 そして、男がナイフに軽く触れると、ナイフは男の宣言通り、柄まで深々と突き刺さった。


「ああ、すっきりしたあ」


 憑き物が落ちたかのように清々しい表情を浮かべる男は、チンピラにはもう興味を示さずに歩き始めた。


 足取りも軽やかに闇夜を行く男はふいにぴたりと立ち止まる。


「久々に妹にでも会いに行こうかねえ」


 そう言って、男は赤い瞳を煌めかせた。

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