十九話 師と従弟
勝手に人の家の車を出した匠は遊歌を拘束し、後部座席に放り投げてエンジンをかけた。
両手を拘束されてうまく身動きできない遊歌は身を捩らせて普段よりも倍以上の時間をかけて起き上がる。腰を落ち着けた遊歌は匠の企みに震えていた。
そもそも匠は免許を持っていたか、運転できるかなどの疑問が遊歌の脳内を席巻する。だが、何よりも何をされるのかという疑問が占めていた。
ETCカードが差さりっ放しだったことをいいことに高速道路に乗る。人の金で高速に乗るその厚顔無恥さには甚だ呆れるばかりだ。さっき頭を撫でられた時に少し見直したのはどうやら間違いだったらしい。
しばらく窓の景色を眺めていると、つい三か月ほど前に見たばかりである景色が見えてきた。遠目に見えるのは、花之島の街並みだった。美しい街々が立ち並ぶその景色は一度目にすれば早々忘れることはできない。
「どこに行くんだよ」
そこでやっと、遊歌は目的地を尋ねた。
片手でハンドルを握る匠は右手を開けた窓にかけながら遊歌の問いに答える。
「お前が強くなるための場所だ」
そうは言っても、遊歌はピンとこなかった。別に、修業をするぐらいならどこでもできる。何分この猛暑だ。体力をつけるためならば、その辺りの道路で走っているだけでも十分だろう。
両手に嵌まった鉄の輪をどうにかできないものか試行錯誤を繰り返しながら、窓から見える景色を眺め続けていた。
変わらないようで移り行く景色を眺めているうちに、山の姿が現れる。林元山と呼ばれるその山は、花之島と同じく約三か月前にこの目にしていた。
林元山を見た遊歌は自分が何処に連行されているかを理解した。
坂上村だ。匠はあそこで遊歌の修業を行おうとしているのだ。
しかし、遊歌は征治郎と全国一になるまで帰って来ないという約束をしている。口約束にしかすぎず、当人である二人以外知らぬ約束だ。
額に冷や汗を浮かべる遊歌をバックミラー越しに見た、そんな約束を知らぬ匠は怪訝な顔をする。
「なんだ、帰って不都合でもあるのか」
「爺ちゃんと全国一になるまで帰らないって約束してんだよ」
「ならば心配する必要はない。家には寄らん」
本家に帰らず、しかし坂上村には赴くという意味に取れる匠の言葉。その意味を理解できなかった遊歌は首をかしげる。
「裏山で一週間山籠もりだ」
「この軽装で?」
「当たり前だろう。でなければ意味がない。ああ、抽選会には誠に代理出席を頼んであるから心配するな」
そんな心配などしていない。遊歌が心配しているのはそんな過酷な環境で、どうやって一週間生き残るかだ。
匠がいる以上最低限死にはしないだろうが、人間としての生活はまず送ることはできないだろう。下手をすると、仮死状態になる可能性も十二分にある。
遊歌の冷や汗は額だけを流れるものではなくなった。
◆
林元山を越えれば、景色は途端に時を遡る。田畑広がる緑の絨毯が窓いっぱいに広がり、長屋造の民家がちらほらと流れては消えて行く。
いつもは電車から見える景色も、こうして車から見てみると少し変わって見える。道路の隣を走り行くローカル線の車両はいつ見ても少ない。
古い軽自動車で行く道はあまり整備されていない。土を整えただけの不整地には時々こぶのように盛り上がっているところがあり、そこを通る度に車体が揺れる。
その心地いい揺れに安心感を覚えつつも、遊歌は依然として不安感を拭えないままだった。
「車でここに来るのは久々か?」
「まあ、盆か正月ぐらいしか来ねえからなあ……」
従来に比べると今年はやけに帰って来ている。今年の盆は帰る予定はなかったのだが、結果的に似た時期に帰ることになった。昔征治郎に言われた通り、やはり高校で過ごす三年間というものは激動の三年間らしい。
改めて自身の今までの約一年半を思い返す。去年は高校生活一年目ということもありこれといって大きな出来事は怒らなかったが、とても新鮮な一年だった。今年はまだ終わっていないが、真貴の編入、それに付随した事件、そして四天王選出戦と、非常に濃密だった。
いや、「だった」ではない。きっと、これからも。
目を開けた遊歌の目に飛び込んできたのは本家の姿だった。田では変わらず涼雅が作業している。
二人の乗る軽は本家を通り過ぎ、裏山へと進路を向けた。坂上家が所有する山は林元山ほどではないが高い標高を誇る。木々も鬱蒼と茂っている。清流が流れていることが救いだが、それはほんの気休め程度にしかならないだろう。
今までの道と比べるといささかマシ程度に整えられた道を行った先に、軽自動車を数台ほど停められそうなスペースを見つける。
そこに車を停めた匠は運転席から降りて後部座席に座っていた遊歌を担ぐ。
「まったく、山は蝉が煩くて仕方がない」
蝉時雨に文句を垂れる匠と担がれながらも文句ひとつ零さない遊歌。力を抜いて項垂れている様子を見るに、遊歌は既にいろいろと諦めていそうだ。
道ですらない山の中を、害虫害獣恐れずに突き進んで行く。そうして、小川の前で立ち止まった匠は担いでいた遊歌を小川に投げ込む。
「がぼっ! ごぼがっ! こふっ、けほっ」
両手を拘束されたまま小川に顔から飛び込んだ遊歌は危うく溺れかける。慌てふためく川魚を尻目に、落ち着いて水面から顔を上げる。
飲み込んでしまった水を吐き出しながら匠を睨む。遊歌を見下ろす匠は腕を組んで仁王立ちしている。親に崖に突き落とされた子獅子の気持ちが少しだけ理解できたような気がする。
水を吸って重くなった服に嫌悪を感じながら立ち上がる。
「水分補給が必要ならこの川を使え。この川は山頂から麓まで伸びている。位置さえ覚えていればまず死なないだろう」
「め、飯は?」
「山菜や茸がある。この山に群生しているものは死ぬほどの毒を持つものはない。安心して食え」
「安心できるかクソッタレ!」
遠回しに毒があると言っておきながら安心しろとはこれ如何に。遊歌も思わず声を張り上げた。
「再起不能になれば私が治す。さて、本題の反動に慣れるところから始めるぞ」
そもそも割合で体力を削る一夜蛍に、慣れるということ自体どこかズレているように感じながらも遊歌は一夜蛍を発動する。
「解除しろ」
反動に慣れるという名目でわざわざこんな辺鄙な山までやってきたので、大人しく一夜蛍を解除する。
何度も味わった、しかし慣れない疲労感が遊歌の体にどっとのしかかる。服が普段以上に重いこともあってか、遊歌は一瞬耐えることもなく膝を折った。
「さあ、山登りだ」
「……は?」
この体で、この服装で山登りは流石の遊歌でも途中で倒れる予想しかできない。
体は一夜蛍の反動で疲労困憊、服は水を吸って重く、加えて気温で非常に蒸れている。こんな状態で山登りなど、熱中症で死ねと言っているにも等しい。
困惑の表情を浮かべる遊歌だが、匠は至って真面目な表情をしていた。初めて匠に頼んだ時とまったく同じ表情。死刑宣告にも思える匠の登山宣言は、しっかりとした考えがあってのものであるということは読み取れた。
「ああ、クソ! 死にかけたらちゃんと助けろよ!」
そう言って遊歌は砕月を杖代わりに、木々を手すり代わりに道なき道を歩き始めた。その背を見ていた匠はふと思った。
(ちょろいな)
その思考は、決して遊歌に届くことはなかった。
陽の光すら満足に届かない森の中を、馬鹿正直に進んで行く。だが、一夜蛍の反動が伊達であるはずがなく、遊歌の意識は歩き始めてから約五分で薄れ始めていた。
汗が目に入る度に沁みて目を掻く。しかし手にも汗が伝っているせいで意味はない。服も小川の水ではなく汗で濡れそぼっている。汗を拭うことは無意味だと考えた遊歌の視界は汗で滲んでいた。
スタート地点からまだ一キロも進んでいない。万全の状態ならばこんな山、一時間もかからずに踏破できるという無いものねだりが脳裏に過ぎる。
「はあーっ……はあーっ……」
息も絶え絶えに必死に森の中を進む。平衡感覚すら徐々に失われ、果てに遊歌は倒れ込んだ。
這ってでも進もうとする遊歌の背後から匠が歩み寄る。どうやら見かねて救護に回ったらしい。
「七分二五秒か。意外と保ったな」
そう言って遊歌の体を泥で一瞬包む。気色の悪い感覚が体を襲い、視界が開けた時には体の疲労感は消えていた。匠の良心か、服の水分も飛ばされているようだった。
「死ぬかと思った……」
やってみて分かったが、これは死の淵を一輪車で渡り行くようなものだ。一歩間違えれば、匠がいなければ死ぬことは間違いない。
体の疲労が消えているというのに、未だに呼吸が荒いのがその証拠だ。これは体力どころか精神すら磨り減らす。確かに、生きて駆け抜けることができればこれ以上ない修業になるだろう。
「そら、もう一度だ」
「いや無理。もうちょっと休ませてくれ」
これは精神的にくる。そう何度も何度もこんなことを繰り返していると本当に精神がおかしくなる。
遊歌がしばしの休憩を頼むと、匠は「仕方がない」と言って、何処からかガラケーのようなものを取り出した。
その薄着の何処にそんなものを、と尋ねる前に、匠はその黒い機器を操作し始めた。すると、
『どんな手を使ってもいい、僕を強くしてくれ』
少し音質は悪いが、確かに遊歌の声が、台詞が再生された。
「ちょ、お前っ!」
「言質は取った」
またしてもゲス顔。まさかボイスレコーダーを常備しているとは思っていなかった。本当に、自分の興味ある物事にはどこまでも用意周到な女だ。
「私だって本当はこんなことしたくはないのだがな、お前が『どんな手を使ってもいい』と言うほどに懇願するから、仕方なく、本当に仕方なく、こんなところでこんなことをしているのだ。ああ、心苦しいなあ」
白々しいにも程がある。両手に手錠を嵌めてここまで連行してきたのは此処のお前だ。
言質を取られてしまったからには最後まできっちりとやり切る他無い。本当は後一、二分ほど休んでいたかったが、悪態を吐いて立ち上がる。
そして、先程と同じように一夜蛍を発動しては解除する。
体が重くなる。普段なら立っていられないほどに。だがしかし、意地を張って気力で一歩を踏み出す。
「やってやらあ!」
遊歌の修業はまだ、始まったばかりである。
◆
午後八時十九分。陽も完全に沈み、右も左も分からずにひたすら上へ上へと突き進み、漸く山頂へ到着した。
途中、何度倒れたかは数えていない。匠ならば数えているだろうが、訊く気にもならないので、山頂に横たわったまま星を見上げる。
「予想以上だ。九時は過ぎると思っていたんだが、やるじゃないか」
「うっせえ……」
倒れ込んだ遊歌を褒めつつ、この場に似つかわしくない自動販売機で買ったスポーツ飲料を遊歌に投げ渡す。
田舎の星空は都会のそれとは比べ物にならない。夏の大三角形を見上げながら、遊歌は当たり前の感想を零した。
陽が沈めば気温も下がるが、代わりに道が不明瞭になる。こんな木々が茂る山にもなれば、まさに暗黒。よく害獣に襲われないでここまでやって来れたものだ。
自分自身の運の良さに感謝していると、山頂のベンチで紅茶を飲んでいた匠が立ち上がる。
「……何処行くんだよ」
「何処ってお前、山は登ったら下りるものだろう」
地獄はまだ折り返し地点だったらしい。てっきり山頂で一夜を明かすものだと思っていた遊歌は、口を開けたまま言葉を発することができない。
「まあ、帰りは行きほど急がなくてもいい。晩飯の調達もあるからな」
匠の中途半端な優しさが、かえって鬱陶しかった。




