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夜半の蛍は砕月也  作者: 白谷 衣介
四章 桜
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思考放棄

 あのまま眠った遊歌は朝日に差されて目を覚ます。結局、制服のままベッドで眠った遊歌は、のそりと起き上がってスラックスの皺を軽く伸ばす。


 未だにどこか重い体を解して、階段で転ばないように注意しながらゆっくりと降りて行く。今日は確か、ドレッドと零次の決闘だったはずだ。ドレッドの術具は零次の術具と相性がいい方だ。例え術具を封印されたとしても、生来の身体能力で凌ぐことができるだろう。


「誰もいない、か」


 当たり前といえば当たり前だ。遊七は仕事で朝早く出ており、帰って来るのも基本的に遅い。匠は神出鬼没なので、何時何処に現れようとも気にはならない。


 食パンをトースターにかけ、焼き上がるのを待っている間に冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぐ。焼き上がるまで晴れ渡った空を見上げていた。


 前日、遊七が遊歌にかけた言葉は遊歌の心を少しだけ修復していた。依然として中身は空っぽのままだが殻の修復ができただけで遊歌の心は救われた。流石母と言うべきか、息子が欲しい言葉を的確にかけてくれる。


 「格好悪くない」という言葉ひとつで、あんなに曇り淀んでいた心がどうして救われたのかは自分でも分からない。それでも、少しだけ軽くなった心は遊歌の表情に光を差した。





「行ってきます」


 誰にもいない家に向かって挨拶を。昨日帰って来た時は何も言わなかったので、その分を含める意味を込めて、誰もいない家に声をかけた。

 隣に建つ藤原家をあえて視界に入れずに皆見町駅を目指す。


 昨日よりも晴れやかな心は遊歌の姿勢にも表れていた。何かに憑りつかれたかのように項垂れていた昨日とは違い、今日はほぼいつも通りの姿勢だった。それほどに、遊七の言葉の意義は遊歌の心の中で大きな意義を成していた。


 拳をぐっと握って、空の心と折り合いをつける。


 このままでも構わない。張りぼてのままでも、欲望でも構わない。似合わないじゃないか、深く考え込むなんて。考えて、詰まったならそこで一旦取りやめる。いつもそうしてきたのに、どうして今更考えなければならないのか。


 疑問など捨ておけ。それは勝利に必要か? 答えは否。迷いは大きな隙となる。必要ないのだそんなもの。


 駅のホームに着いた遊歌は深呼吸をして、自分の頬を数度叩く。

 自分が決闘をするわけではないが、ある種決闘よりも大切なことが控えている。だから遊歌は普段の観戦よりも一時間以上早く家を出た。


 平日の、朝とは微妙にズレた時間の電車は乗車している人数も非常に少なく、座席はほぼ空いていた。皆見町駅が大きな駅のすぐ後にあることも理由のひとつだろう。


 乗車し、今日は目を閉じずに景色をじっと見つめる。視点を変えて見れば、ただの住宅街でもそこそこに見応えはある。虫取り網を片手に走る子供や、暑さに耐えながら外回りに出ているサラリーマンたちの姿が流れるように現れては消えて行く。


 そうして電車に揺られること数十分。学園の最寄り駅、西行駅に到着した。

 駅のすぐ近くにある、青々と茂る桜の並木を通り過ぎれば西行学園は見えてくる。馬鹿がつくほど広いその敷地は、記憶が正しければ日本の高等学校で一番大きかったはずだ。


 訓練場に足を運ぶも、まだ他の人の姿は少ない。教員たちの姿も開始直前に比べると圧倒的に少ない。観客席にいる生徒も遊歌以外に姿は見えず、まさしく一番乗りだったらしい。


 遊歌はいつも皆が座っている席の辺りに腰掛けた。待ち人がいつ来るかは分からない。もしかすると今日は来ないかもしれない。それならば、遊歌は次の決闘、その次の決闘にも早く来ようと決めていた。この問題は、時間が解決してくれるようなものではない。むしろ、時間が経つことに比例して問題の大きさは膨れ上がっていくだろう。


 それは、嫌だった。


 だから、遊歌は昇り切らない太陽を見上げてひとり待つ。


 どれほどの時間が経っただろうか、訓練場の床を踏む足音が聞こえた。視線をその足音の方へ向ければ、銀の短い髪と、銀灰色の瞳が見えた。


「……桜下」


 色のない少女が、そこに立っていた。

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