一話 遊歌と桜下と
「がーっ! 疲れたーっ!」
「疲れたって……君、特に何もしてないじゃないか」
「いやいや、ハンデつって決闘章の奪取以外に勝利条件なかったんだぜ? あの子レベルなら月下蛍でワンパンなのにさあ……」
「年下の女の子を相手にしてワンパンとか言う精神、好きだよ」
皮肉ではなく、心の底から好きだと言った桜下。その眼差しは優しいものであり、例えるなら出来の悪い弟を愛おしむような、そういったもの。
実際、桜下と遊歌が好き合っていることは学園中の皆が知っている。二人が付き合っていることも、遊歌が教員に隠れて時折桜下に挑んでは、返りうちにされていることも知っている。
今、こうして二人で歩いていることから分かるように、二人の帰路はほぼ同じである。正しく言えば、二人の家は隣同士である。しかし、互いの才能と出自の関係で、二人が出会ったのは中学二年の時、桜下が転校して来た時が初めてだ。
「なあ桜下」
「ん?」
「今日、母さん帰って来ないからさ、家帰って晩御飯なかったら一緒に食っていい?」
「いいよ。うちも今日はお母さんいなくてお父さんだけだし」
今ではこんな会話をしばしばする程度の仲だ。親公認も同然であり、遊歌の親も桜下の両親とよく二人の関係を話の種として盛り上がっている。
幸いと言うべきか、実践試験は数秒で終わった。その代わりに、遊歌は真貴に非常にビビられることになったが、そんなことは遊歌にとっては些細な事だ。
陽はまだ地平線に触れていない。この時間なら、ゆっくりと湯を沸かし、入浴してからでも晩御飯時には十二分に時間は間に合うだろう。
今日の予定はもうないので、これからの予定を思い返していた遊歌は――
「あれ? もしかして、もうすぐ四天王選出戦?」
「もうすぐって程でもないだろう。四天王選出戦は夏休みいっぱいでやるんだし」
「いやいやいや、あと四か月は短いって。桜下はほぼ選出確定だからいいけどさ、僕まだ二十位だぜ? 単純計算であと十六人抜きだぜ? こっからが正念場だってのに、修練プラス決闘とかキツ過ぎて体ぶっ壊われる」
「なら、五月は全日修練とやらに回して、六月と七月で十位以内に入れば……って、え? 今、十六人抜きって言った?」
冷静に遊歌の四天王選出戦について考えていた桜下は、先程遊歌がさらりと言った言葉の意味に気付き、思わず問いかけた。
「あったりまえだ。下克上ってのも魅力的だけど、やっぱ初っ端から上の方にいた方が格好いいだろ?」
「うーん。ドレッド君もいるし、やめといたら?」
ドレッドは遊歌と似た戦法を採る。戦法とも言えないような戦法であるが、本人たちがそうだと言って聞かないので、一応戦法ということになっている。そんな二人の戦法はいたってシンプル。“真っ向から殴る“の一点張りだ。今回のような場合は、遊歌は少し戦法を変えるがドレッドは変更しない。というよりできないという、筋金入りの脳筋だ。
そして、言ってしまえばドレッドは遊歌の月下蛍を破ることができる。遊歌も奥の手がないこともないのだが、それを使うとしばらくの間戦闘不能になってしまうので、桜下からよっぽどのことがない限り、使用を禁じられている。
「まあ、そうだな。なら、五月六月七月の決闘は少なめにして、修業に回すか」
「それが落としどころだろうね。遊歌の実力なら、十位までは楽に上がれるだろうし」
「じゃあ来週辺りにあいつ呼ぶか。じゃ、また」
「ん。晩御飯なかったら連絡頂戴ね」
自宅に到着し、遊歌は一足先に自宅の玄関で靴を脱いだ。
玄関の目の前にある階段から二階に上がり、自室に学校用の荷物を置き、一度大きく伸びと欠伸をした後、一階に戻り、洗面所へ向かった。
家を出たときは確か空いていたはずだったんだけどな……と思いつつ、閉じられた洗面所の戸を開けた。
「む?」
「うっ、げっ」
洗面所、兼脱衣所であるそこには、金髪碧眼の女性が全裸で立っていた。
その女性のことをある種誰よりも知る遊歌は、瞬時に身の危険を感じて洗面所の戸を反射的に閉め、全速力で自室へと駆け上がった。
そして、窓を開け、窓枠に足をかけ、
「クソッ!」
思い切り蹴った。
遊歌の着地点は、隣の家のとある一室――藤原家の桜下の部屋――であり、遊歌はそれを分かっていて飛んだのである。窓が開いているか否かは賭けであったが。
「いっ! たっ!」
とは言いつつもしっかり受け身を取り、自室をしばらく睨み付けた後、安心したかのように窓を閉めた。
「夜這いにはまだ早いと思うんだけど……いやまあ、遊歌が望むなら何時でも何処でも、どれだけでも相手になってあげるよ。そういえば遊歌はSとMどっちだった?」
「夜這いじゃないし僕はノーマルだ」
「更衣中の僕を見て襲いたくなったんじゃないならなんなのさ」
「僕の家に、匠が来てる」
下着姿の桜下の前で片膝をついている遊歌は部屋の光景には合わない、神妙な面持ちでそう言った。
「……それはまずい」
万が一にも桜下の父親が帰って来るようなことがあれば誤解は必至。しかし、二人は遊歌の“師匠”が到来したことに対して、本気で戦慄していた。
ネットの掲示板では“女神”や“リアルチート”と呼ばれ、リアルでは“ワンマンアーミー”として名を馳せる、神がふざけて生んだとしか思えないような存在だ。
その正体は、坂上家の分家である師走家、その長子である師走 匠その人である。六技能は人類初の個人ランクEXを獲得し、本家涙目な偉業を次々と打ち立て、暇潰しに世界の紛争地域を巡るような人外。
この世で最も神に近いとも称される人間が、今、遊歌の家にやって来ている。
そもそも、呼ぼうとしていた人間が来ていて何故焦るのか。その理由は実に端的。呼ばれた場合は目的があってやって来ている。対して、勝手に来た場合は目的などない。気の向くままに行動し、何かしらの爪痕を残して去っていく。
「僕もう嫌だぜ? 修行と銘打って紛争地域に連れて行かれるの」
「僕だって嫌だよ。遊歌と会えないなんてまさしく世界の終わりだ」
しかし、いくら遊歌が尖ったアスパラをしていようと、いくら桜下が天才であろうと、神に愛されている人間に敵うはずがない。相手はまさしくワンマンアーミー。たかが学生二人に負える相手ではない。
「よし、誠を呼ぼう」
高山 誠は遊歌の担任教師であると同時に、遊歌の従兄弟でもある。主に、遊歌がやりすぎないように監視の役を担っている。しかし、その役を桜下に取られている節があるので、誠が動くことは滅多にない。
彼もまた、本家泣かせの偉業を持つ魔術士。戦力にはなるだろうという判断だ。
「毎度のことだけどさ、どうして坂上家は威厳を保っていられるんだい? 本家の長子が分家に負けっぱなしじゃないか」
「坂上家は魔術士としてじゃなくて、地主として成功を収めたんだから当たり前だろ?」
むしろ、魔術士の才能はない方だと付け加え、遊歌はポケットから携帯電話を取り出した。
「もしもし。誠、緊急事態なんだけどさ、今から桜下の家に来れる?」
『緊急って何だよ。近頃はテロリストも静かなはずだろ?』
「頼むって。誠に助けてもらわないと、僕はこの国から連れ出される」
『あー、はいはいはい。しょうがねえ、分かった。今から全速力で行ってやんよ』
遊歌の言葉からすべてを理解した誠は詳細を問うのをやめ、早々に電話を切った。
これで一応戦力は揃った。誠が来たタイミングで匠と相対すれば、もし戦闘になった場合にも勝てる可能性が塵程生まれた。誠を囮にすれば逃げ切ることは容易だろう。
「とりあえず服着ろよ。暖かくなってきたとはいえ風邪ひくぞ?」
「着るって言っても、制服脱ぎに来ただけなんだけどな」
桜下はそうぼやきつつ、先程脱いだばかりの制服をもう一度着る。
着替えている桜下を背に、遊歌は部屋の窓を恐る恐る開け、自分の部屋を見る。匠の姿は見えないがどこに潜んでいるか分からないため、辺りを見渡し、念のために下も覗く。
匠の姿がどこにもないことを確認した遊歌は、ほっと一息つく。
「遊歌、誠さんはどれぐらいで到着する?」
「もうあと五分もあれば着くと思――」
「ほう? 誠も来るのか。賑やかになりそうだな」
「「ぅえっ!?」」
さも当たり前かのように戸を開けて登場したのは師走 匠。丈が長めのコートにスリットを入れたような独特の服に身を包んでいる。
二人は今になって思い出した。この化け物には、施錠程度の生半可なものは足止めにもならないと。
遊歌を庇って前に出た桜下、再び窓枠に足を駆ける遊歌。それらを目の当たりにしながら、匠は何の行動も起こそうとはしない。これを好機と見た遊歌は、さっきと同じ要領で窓枠を蹴ることで逃走を図る。
しかし、遊歌は空中で何かに捕まる。黒い謎の物質に両手足を縛られ、身動きが取れなくなる。
「そう警戒するな。今日の私はちゃんと目的があって来ている」
匠がそう言うと、空中で浮遊していた遊歌が桜下の部屋の中へ戻って来る。そして遊歌をベッドの上まで持ってきた黒い物質はそこで消失した。
「なら、何しに来たって言うんだ」
「当主のクソジジイが、遊歌を鍛えろと私に命じてな。北からすっ飛んできた」
「はあ? なんで爺ちゃんが」
坂上家の現当主は、遊歌の父が亡くなっている関係で、遊歌が成人するまでは代理で祖父――坂上 征治郎が務めることになっている。だが、年に何度かある本家と分家が一堂に会する会議では、家の方針は遊歌が決めている。そのことに征治郎も口出しはせず、時折間違いを指摘するのみだ。
その祖父が、何故?
「どうやら、ここ最近の本家で一番術具を扱える遊歌に期待しているようだ。『一瞬でもいいから学内一位になれ』との言伝だ」
「言われるまでもねえよ。ちょうど僕も匠を呼ぼうとしてたところだしな」
元より勝つことが目的である遊歌からすれば、征治郎のこの命は意味のないものだった。
遊歌はこれといって、どこかを目指しているわけではない。ただ、負けたくない、勝ちたいと、上へ上へ邁進するのみ。魔術士として決して優れていないからどうした、自分の持つ手札を最大限活用するのが坂上 遊歌という男だ。
桜下も、そんな遊歌だからこそ今まで同じ時間を過ごしている。
「話は纏まったな。では、今から来るだろう誠も誘って夕餉にするとしようか」
「誠はまだ仕事が残ってんじゃね?」
「そんなもの明日にやればいい」
これだから天才は、と遊歌はため息を零した。
◆
結局、誠は夕食を取ることはなく、とんぼ返りをすることになった。気の毒だとは思いつつも仕事は手伝えないので、とりあえずの謝罪だけはした。
「いやあ、やっぱ酒は誰かと呑むに限る! 子供たちは勧めても呑みやしない!」
顔を赤くした男が匠のグラスにビールを注ぐ。誰がどう見ても出来上がっており、未成年二人は匠がいて良かったと心の底から思った。
遊歌は皿を洗い、桜下は洗濯の準備をしている。もしも匠がいなければ、どちらかが男の絡み酒の餌食になっていたに違いない。二人は匠という犠牲を尊んだ。
「私が呑むのは構いませんが、一己さんは呑みすぎると明日の仕事に支障が出るのでは?」
「いいんだよ、どうせルーチンワークなんだから。それに、仕事よりも若い姉ちゃんと呑む方が大事だからな!」
明日の朝一番に母にこの言葉を告げ口することを決めた桜下は洗濯機の電源を押し、洗濯を一応終わらせる。まだ遊歌が皿を洗っているのが見えた桜下は遊歌の隣に立つ。
「皿を乾燥機に入れるのは任せてくれ」
「助かる。ありがとう」
遊歌と桜下の新婚夫婦のようなやり取りを見た一己は、グラスに残っていたビールを一気に飲み干す。何事かと桜下が目を丸くしていると、一己はすっと立ち上がった。
「じゃあ、邪魔なおっさんはさっさと寝るわ」
右手をひらひらと降って、一己は三階にある寝室に向かった。遊歌と桜下はそんな一己を不思議そうに見送りつつも皿洗いを続けた。
一連の流れを見ていた匠は大きくため息を吐いて、テーブルに肘をつく。
「お前ら、人目ぐらい憚れ」
「そう言われても、家事を手伝うぐらい普通だろう?」
「……本気で言っているのか?」
呆れた匠に二人は首をかしげる。匠の言った言葉の意味がまるで分かっていないようだ。
「二人とも引っ付き過ぎだ」
「「えっ?」」
言われてから初めて、二人は自分たちの距離を確認した。顔を見合わせると、桜下の銀に煌めく瞳が、遊歌の暗い瞳が互いの目の前にある程に近いことに気が付いた。しばらくの間、二人は顔を見合わせたまま微動だにせず、動いたかと思えば互いの顔を近付けていき――
「色ボケている場合じゃあないだろうが」
「ぅえっ!」
突然襟元を掴まれ、一瞬呼吸が止まる。二人の雰囲気に見かねた匠が遊歌の襟元を引っ張ったのだ。喚く遊歌を無視して、匠はそのまま遊歌を引きずっていく。
「痛い! 痛っ! 階段! ここ階段っ! ケツ痛いって!」
「あー……頑張れ、遊歌」
罰の悪そうな顔の桜下は、修業に連れ出された遊歌の代わりに皿を洗った。
◆
庭に出た遊歌と匠は体を解している。遊歌の準備を怠らない姿勢は匠に教わったものであるということがよく分かる。
ひとしきり準備運動が終わり、匠が今回の修業の目的を話し始めた。
「今回は術具の修業はしない。正直、お前は術具の扱いだけで見るなら軽く学生のレベルを超えている」
「そうか? 実感ねえけど」
「私が教えたのだから、最低でもそれぐらいだろうという憶測だ」
匠の根拠のない自信に呆れる遊歌だが、遊歌自身、自分の術具の扱い方だけは上手いと自負してはいた。遊歌は術具適性が最低で、しかも術具の能力の一つがあってないようなものだ。そんな遊歌の実力を伸ばすには、格闘戦と術具の扱いをひたすらに学ぶしかなかったのだ。
「で、だ。格闘戦の修業をする」
「格闘、ね。ランクなら勝ってるんだけどな」
「そうだ。お前が私に勝っている唯一のステータスだ。まあ、まだ私には勝てないだろうな」
「そりゃそうだ。経験値が違いすぎる」
遊歌の身体能力のランクはEX、匠のランクはAであり、表面上では遊歌の方が身体能力は高い。しかし、本人も気付いている通り、遊歌には圧倒的に経験が足りない。事実、遊歌は匠に格闘戦で勝ったことが一度もない。
「でも、格闘なら誠の方がいいんじゃ?」
「あいつは最近副業が忙しいようでな。ろくに鍛えてないせいで全盛期よりも幾分か実力が落ちている」
匠の言う副業とは、恐らく教職のことだろう。確かに、最近の誠は学園での仕事に追われているように見えた。本人はなんだかんだで楽しそうにしているので、遊歌は気にしていなかったがそういった弊害が生まれていたらしい。
恐るべきはそれを少しの時間で見抜いた匠の観察眼だ。
「時間が惜しい。説明は終わりにして始めるぞ」
「っし。どっからでもかかってこいや!」